悪夢

 六先生はこちらの返答を待たずに肩を竦めた。そして、そのままの状態で、肩全体を回し始めた。

 やれと言われたのだからと、玲子もつられて肩を回してしまう。


「慣れてきたら、ダンベルを持って負荷を増やしてもいい。くれぐれも言っておくが調子に乗ってやりすぎないように。逆に体を痛めてしまうからな。」

「は……はい。」


 つい返事をしてしまった。

 ……こいつが言っているのは肩こり解消の筋トレだ。

 ようつーぶでも見たことがある。

 なんで、こいつにこんなことを指導されなければならないのかと、玲子は直ぐに我に返った。

 だが、それを六先生は見逃してはくれなかった。


「貴様からはやる気を感じないな。では、こうしよう。君が授業中に居眠りをしていたのは明白な事実だ。これは他の生徒にも確認済みだ。証人がいる限り、君に言い逃れはできない。だから、課題を出そう。これから毎日、この運動を行った後にその感想とレポートを書くこと。」


 ——この野郎、都合のいい時だけ教師という肩書きを使いやがった。


 玲子はドアに手がかかったところでゆっくりと振り返った。

 六先生は丁寧に自分の体についた汗を拭き取っている。

 なるほど、それにしても良い体をしている……。じゃなくて!


「それって成績に響くってことですか。」

「愚問だな。君は生徒、私は教師。しかも授業中の怠慢だぞ。内申にも響くに決まっている。それに私をあまり舐めない方がいい。いい加減なレポートなら私は簡単に気付けるぞ。疲労した筋肉で書いた文字か、怠慢な筋肉で書いた文字か、それくらいの判別は造作もない。まずは一週間だ。一週間後の同じ時間。再びここに来い。レポートをチェックする。……では帰りたまえ。そしてさっさと筋トレだ。」


 成る程、確かに。

 授業中の居眠りをネタにされては言い逃れはできない。

 もちろん、半裸で居たことを責めることはできるが、あの先生が自分をそんな目で見ていなことは、目の動きからでも明らかだった。

 ある意味、癪に感じてしまうほどに、彼は自分の胸を見なかった。

 これでは訴える気も失せるというものだ。


「筋トレか。ま、肩こりには良さそうだし、やってみるか。」



 その日から玲子は毎日言われた通りにシュラッグを行った。

 勿論、レポートも欠かさず書いている。

 あの違う意味での変態教師だから、筋疲労による手ブレを本当に見破るのだろう。

 だからサボることは許されない。

 そもそも自分は授業中での居眠りという現行犯でもある。

 さすがにその事実を隠すことはできない。

 さらには自分で調べて、お風呂に入ったりしてリンパマッサージも行い、乳酸が堪らないようにマッサージまで行った。

 その程よい疲労のおかげか、不眠続きだったせいかは分からないが、少しだけ眠れるようになった。


 この高校は一年生では文系理系に分かれていないので、自家発電ドクターの授業は週数回ある。

 その度に結局は爆睡しているのだが、あの時のように注意を受けることは無くなった。

 他の生徒の目にはどう見えただろう。


 そして約束の一週間後。


 前回は放課後だったが、今回は授業開始前に来いと言われている。

 昨日の授業終わりにそう言われたのだが、クラスメイトで怪しむものはいない。

 普通、若い先生と生徒が何やら怪しいことをしていると噂されるものだが、玲子はあの先生の授業中、毎回爆睡している。

 誰がどう見ても怒られる要素がある。

 だから咲も、苦笑いしながら見送ってくれた。


「玲子、がんばれ!」

「うん……、ある意味、頑張ってくる。」



 そしてまたあのパソコン教室で。


「ふむ。なかなか真面目に行ったようだな。レポートの内容も良い。特に私が言い忘れていたリンパや乳酸についてを自分で調べたというのは誉めてやっても良い。」

「じゃ、じゃあこれで……」

「馬鹿者。何を言っている。第一、まだ私の授業で爆睡しているではないか。少しはマシにはなってきてはいるが、まだ悪夢に悩まされているのだろう?」


 ——え?


 その言葉に玲子の心臓が『とくん』と高鳴った。

 悪夢について、この学校では誰にも話していない。

 百歩譲って、肩に悪霊がいるという言い回しは分かる。肩こりがひどそうな体型をしている自分を、あの手この手で騙す手口だ。


 でも、自分が悪霊に乗っ取られて殺されるという夢を語ったことはない——けれど、やはり偶然だろう。

 考えてみれば、授業中に寝ているのだ。

 だから、睡眠不足は推測できる。

 そうなれば、夜更かしか、他の理由で睡眠障害が起きている、というのは誰が考えても分かる。

 そしてネットやゲームでの夜更かしならば言いにくいが、悪夢に悩まされているとなると、生徒側としても先生に言いやすい。

 冷静に考えれば、六先生の言葉は当たり前かもしれない。

 意外と気遣いができる変態なのかもしれない。


「さて。では、授業までに教えないといけないからな。急ぐぞ。今日はリアレイズについて教える。そこの椅子にかけた前。」

「ま、また別の筋トレですか? っていうか先生はどうして白衣を脱いでるんですか、しかも上半身何もきてないし……」

「本当に君は愚かだな。本当なら君にも脱いでもらいたいくらいなのだぞ。全く、素人はこれだから困る。いいか、筋トレで一番大事なのはその筋肉を意識することだ。そもそも君は人と話す時に布越しに話しをするのか?」


 ——いえ、言ってる意味が全然分からないです。


 とにかく脱ぐなど言語道断だ。


「背骨がまっすぐになっているのをイメージしながら上半身のみを前に倒せ。そして肘を軽く曲げて……。ほら、やってみろ。」

「あ、はい。こう……ですか?」

「違う!ちゃんと僧帽筋の声を聞け。今の体勢では広背筋や他の筋肉の声の方が大きいだろ。」


 ——何言ってんだこいつ……


 でも、今は彼の言う通りにするしかない。

 なんせ、怒られないことを良いことに、彼の授業は全て睡眠時間に充ててしまっている。

 内申のためならなんだってしよう。


「僧帽筋ちゃん。私の声に応えて!!」

「そうだ。もう一度!」

「僧帽筋ちゃん。私の心を感じて!!」

「グッドだ!その感覚を忘れるなよ。そうだ、今日は君に渡しておくものがある。本来、先生から生徒への贈り物は倫理的には宜しくないがな。」


 ——あんたに倫理を言われたくないわよ!まず服を着なさい!


 六はそう言って、玲子にダンベルを渡しれた。

 ダンベル——ダンベル女子なんて言葉を聞くが、そんな言葉が似合わないほど無骨な鉄塊だった。

 このまま撲殺してやろうかと一瞬思ったが、そんなことはしない。


 ……私はお淑やかなカマトト少女なの。

 ……間違えた。カマトトってなんだっけ? とにかく可憐な少女なのです。


「む。そろそろ予鈴がなるな。君も準備したまえ。私も準備があるからな。」

「準備って先生は白衣羽織るだけでしょ? 全裸白衣ティーチャーなんだから。」

「いいから。ちょっと離れておけ。私の生命エネルギーのせいで卒倒する可能性があるのだ。」


 六先生は部屋の隅に行き、どこかで見たことのある円柱上の何かを取り出し、首元や脇に向けてプシューッと内容物を噴霧した。


 ——って、それはただの制汗スプレー!!


 ……っていうかさ。


 ——違う意味の卒倒じゃん!汗臭い卒倒じゃん!私にもあんたの汗の匂いついてるんですけど?微粒子レベルでついてるんですけど!?



 そして、玲子は臭いを気にしながら立ち去った。


「ね。今日もしぼられたの? れいたん、冷や汗かいてるけど、大丈夫?」

「あー、あれは精神的にきついわー。本気で居眠りはしちゃだめって思えるよー。」

「あーね。っていうか、流石に私もレイちゃんの内申が心配だよー。居眠りレイちゃんってあだ名にされるわよ。……って言ってる側からきたおー。自家発電ドクター参上ってね!」


 咲は戯けてみせた。

 自家発電、確かに筋トレも自家発電には違いない。

 あの先生はあらぬ誤解をうけているようだが気にしている素振りはなさそうだ。

 それにしてもあの先生の授業はどうしてこうも眠くなるのか。

 もしかして、あのスプレーに秘密が?


 ……つまりあれを近くで嗅ぐと、気絶させられてどうのこうの——危険な男!!


 ……あぁ、そんなこと考えてたら、 汗が気になってきた。ちょっとだけだけど、運動してなんかベタベタする。帰ってシャワーを浴びな————


「あれ、真っ暗。もーしかして、私また寝ちゃった? さすがにまずいって早く起きなきゃ。新たな筋トレを課せられるに決まってるんだから。えっとぉ、どうやって起きるんだっけ……。うんしょ、あれ、おかしいな……。……あれ?っていうか、もしかしてこれ。————金縛り!?」


 体が動かない。

 いつものやつだ。でもどうして……。


 玲子が起きようとしても体がぴくりとも動かない。

 そして微かにだが、何かが聞こえる。

 ぐちゃぐちゃという音。

 何かの咀嚼音————いや、咀嚼していないからべちゃべちゃと涎の音だけが聞こえるのかもしれない。


 でも、遠くてそれがなんなのか分からない。




『わ……せ……ろ……』

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