通じ合い、すれ違う思い 2

 目を覚ました久遠が感じたのは、少しの違和感だった。


 彬奈に起こされることのない朝。最後の目覚ましの、けたたましいアラーム音に起こされることも無い朝。


 休日を除けば、実に一年以上なかったことだ。



 それによって感じた、睡眠時間が減ってしまったことに対する悲しみと、朝焦ることなく支度をできることに対する安心感。


 そんなものたちを感じながら、久遠はベッドから立ち上がる。


 彬奈が起こさなかったのは、昨日話したことが理由だろう。そして、この時間に、これまでならとっくに起こしていた時間に、まだ彬奈が料理をしているということは、自身の起床予定時間に合わせて食事を提供しようと調節してくれたのだろう。


 その事に内心感謝しながら、品など少し言葉を混じえて、洗面所で歯磨きをする。久遠は、朝食前と寝る前に歯磨きをするタイプの人間だった。



 一人洗面台に立って歯磨きをしながら、先程の光景を思い返してみる。


 乾いたのであろう、最初に着ていたものとほとんど同じで、少しだけ細かいデザインが異なる黒の和服を着て、その上から割烹着をつけていた。


 艶やかで滑らかな濡れ羽は、腰の辺りまで流れ落ちていて、料理をするときに邪魔になっていた。


 彬奈が料理する姿を初めてまともに見た久遠はその作業の手際の良さに驚く。


 そして、髪の毛長さゆえに若干とはいえその動きが制限されていることを、少しもったいなく思った。


 久遠は、 何か対策ができたほうがいいと思った。何かしら、用意をしておいた方がいいと思った。


 そんなことを考えながら、久遠は歯磨きを終えて、少し強めに顔を洗う。



 部屋に戻ると、すでに彬奈の作っていた朝食は完成していた。



「旦那様、今日の朝食は筑前煮の残りと茶碗蒸し、野菜炒めとお吸い物です」


 並べられた朝食は、少し量が多い気もするが、食べきれないほどのものではない。



 それなりに時間をかけて、じっくり味わいながら食べる。冷やされて味がしみ込んだ筑前煮は絶品だった。


「ごちそうさまでした。おいしかったよ。それじゃあ、そろそろ出るね」


「お粗末様でした。では、お弁当をお持ちしますね。少々お待ちください」


 彬奈がキッチンにいっている間に、パジャマから着替えを済ませておく。最後に、受け取った弁当箱を鞄にしまって、髪型を軽く整えたら、出発だ。


「いってらっしゃいませ。お気をつけてくださいね、旦那様」


「ありがとう、行ってきます」


 久遠は電気をつけたまま玄関を出ると、そのまま鍵を閉める。少し耳を澄ませてみても、扉の向こうから明かりを消す音は聞こえなかった。





 いつも通りの道を、いつもと同じように歩く。異変があったのは、公園に差し掛かったあたり。


 ここしばらく久遠が使っていた時間よりは多少遅かったとはいえ、以前のギリギリの時間ではないのに、公園のベンチには奈央の姿があった。


「おはよう奈央。こんな時間にいるなんて珍しいね。何かあったの?」


「あ、おじさんおはよう。うん、ちょっとね」


 ぼうっとしていたのか、声をかけられたことに少し驚いた様子を見せる奈央。



「それよりもおじさん、なんか今日はいつもより表情が明るいね。何かいいことがあったのかな、この前話してた人とついに分かれることになったとか?」


 奈央は自身の反応をごまかすように、あからさまに話題を変える。


「別れることにはなってないよ。ただ、お互いに誤解していたのが解消できたから、これから仲良くやり直せそうなんだ」


 久遠の言葉を聞いて、少しだけ奈央の表情が暗くなった。けれど、久遠はそのことには気が付かない。


「……そっか。仲良くなれそうなら、よかったじゃん。これからはもうあんな風にならないように気を付けるんだよ?」


 奈央の言葉を聞いて、久遠は少しだけ耳が痛くなった。


「気を付けるよ。それじゃあ、そろそろ行かないといけないから、また今度。寒くなってきたから風邪をひかないようにな」


「……うん。ありがとう、おじさんも気を付けてね」


 奈央は何かを言いたそうにしていたが、逡巡している間に、久遠は去ってしまった。





 仕事終わり、昨日買おうと思ったものと、ついでにいくつかのものをデパートで購入した久遠は、急ぎ帰宅する。


 玄関の鍵を開けていると聞こえる移動の音。ドアノブをひねって開くと、そこには黒の着物に身を包んだ彬奈の姿。


「おかえりなさい、旦那様。お仕事お疲れさまでした」


「ただいま、彬奈」


 いつもと同じ言葉。けれど、中に籠っている思いは、少なくとも久遠の方は、これまでとは違った。



「ところで旦那様、お手に提げていらっしゃる紙袋は、一体どうなさったのですか?」


 鞄を受けとった彬奈は、久遠の持っている紙袋に気が付く。


「ああ、すぐ話すよ」


 いったん、久遠ははぐらかす。そして、紙袋を自身で持ったまま、部屋に入り、いつもの机の前に腰を掛けた。


「それで彬奈、少しそこに座ってもらってもいいかな」


「はい?わかりました」


 久遠は自身の少し横を指し、彬奈は疑問に思いながらも素直に従って美しい正座を見せる。着物にしわが付きにくいように気を使った、とても丁寧な座り方だった。


「これまでのお詫びと感謝と、これからもよろしくの意を込めてプレゼント。必要な時に使ってもらえると嬉しい」


「ありがとうございます。これ、開けてもよろしいですか?」


 わざわざ伺いを立てる彬奈に対して、久遠は頷くことで返す。


 おそるおそる中身を開けた彬奈の目にまず最初に映ったものは細長い箱。そして、その少し下に入っていたのは、グレーの布。


 二つを取り出し、久遠のことをちらりと見た彬奈は、頷かれてその中身を確認する。


「新しい着物だよ。昨日みたいなことはないと思うけど、洗濯中に汚れたり濡れたりすることもあるだろうから、二着じゃ大変だろ?」


 一つ目は着物。彬奈の、少し前までの目の色とそっくりな、灰色の無地のもので、薄っすらっと模様のついた帯が一緒に入っていた。


「こちらの方は、簪でしょうか」


 もう一つ、箱の中に入っていたものも彬奈は開ける。そこにあったのは、一輪の白い花をあしらった簪。


「彬奈の髪は好きなんだけど、動くときには少し邪魔になりそうだと思って」


 今朝、彬奈の料理姿を見て必要だと思ったもの。半分衝動的に買ってしまったものではあったが、そのデザインが彬奈に似合いそうだと思ってしまったら、我慢はできなかった。


「すごく、すごくうれしいです。ありがとうございます、旦那様」


「さっそく着てみても、着けてみてもいいでしょうか?」


 贈り物を見て嬉しそうに笑いながら、彬奈は久遠に再び伺い立てる。同じように頷かれると、彬奈は二つの贈り物をもって洗面所に向かった。




「おまたせしました。着替えてきたのですが、どうでしょうか。……似合って、ますか?」


 薄い扉を開けて戻ってきた彬奈は、濡れ羽の髪に一輪の白を咲かせて、真新しい灰の着物を見せながら、くるりと回ったり、手を動かしてみたりしつつ久遠に近付き、最後に上目遣いになりながらささやくように言った。



「あ、ああ。すごく似合っている。正直、ここまで似合うとは思ってなかった」


 彬奈の姿に、久遠は何も言えなくなる。いつも隠されていた、真っ白のうなじから目が逸らせなくなる。普段よりも明るく見える、その笑顔に見とれてしまう。



「旦那様、そんなにまじまじと見られてしまったら、彬奈は照れてしまいます。恥ずかしいです」



 言葉通り、照れたような表情を浮かべながら、彬奈は久遠の視線を分析した。



 そこにあったのは、あってしまったのは、直接的ではないにしろ、異性に対するもの。



 ズキリ。



 彬奈の心は、また同じエラーを検出した。


 この視線の対象に、自分はなってはいけないと。この視線の対象に、自分以外がなってほしくないと。矛盾した想いは、誰にも見られることなく思考の海に溶けて消える。



 ズキリ。



 溶かしてはいけないのに、対処しなくてはいけないのに、今は、今だけは素直にこの幸せを感じていたいと、彬奈は願った。







 ズキリ。










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