通じ合い、すれ違う思い 1
幸せな日は明けて、翌日はまた仕事のある日。
昨日の話で、もう少し朝はのんびりしたいと言ったこともあったのだろう。彬奈はここ二ヶ月に久遠を起こしていた時間に起こすことなく、久遠がセットした目覚ましの最後の時間まで、何もしないことに決めていた。
朝食の、そして弁当の準備をしながら、彬奈はその時が来るのを待つ。
二回目の目覚まし。
まだ、久遠は起きない。まだ、久遠は起きなくてもいい。10分ごとに鳴らされる根覚ましの、六回鳴らされる目覚ましの最後の一回がなるまで、一つだけ音の違うそれがなるまで、久遠は寝ていてもいい。
彬奈は自分がこれまで知らなかった、久遠の起きるための工夫を思い出してついつい起こしたくなるのを必死に抑える。
叶うのであれば、あんなもの、目覚まし時計の音なんかではなく、自身の声で起こしてあげたい。もっと久遠が気持ちのいい目覚めを迎えることができるように、工夫して起こしてあげられるのに。
もっと、久遠のために尽くせるのに。もっと、久遠のために尽くしたいのに。
そんな思いが、彬奈の中を巡った。そして、久遠がそれを望んでいないことを思い出して、彬奈はその欲求を理性で押さえつける。
それをしてしまったら、久遠に嫌な思いをさせてしまうから。それをしてしまったら、一昨日までと同じになってしまうから。
押さえつけたところで、決してなくなることのない衝動は、彬奈の心の中で暴れまわる。
ズキリ。
心が痛む。そんな機能は搭載されていないはずなのに、彬奈の胸が痛む。
これではいけないと、こんなではいけないと思った彬奈は、必死になって自身の思考を今のものから逸らすため、昨日一日の出来事を思い出す。自身が、自身の考えたものが本当の意味で久遠に受け入れられた、あの優しくて幸せな時間を思い返す。
その中で、久遠が昼寝をしていた時のことを思い出してしまい、その時の感情を思い出してしまい、罪悪感が、表面的に反応が出てしまうくらい深いところまで突き刺さった。
心が痛む。斑の瞳の、模様が変わる。
本来、主人や環境に対して思っている感情によって色や輝きが変わるだけのはずのその瞳は、異常なまでの感情値の変動の影響で斑模様になってしまっていたそれは、どうやら感情値の変動によって模様が変わる仕様になっていたらしい。
彬奈は、ステンレス製のシンクを見て、自身の瞳の色が変わっていないか確認したが、鏡のような磨き抜かれた金属光沢を示すわけではないそれでは、色の変化には気付けども模様の変化には気が付けない。
ひとまず、問題のないものとして自身の中の内部の変化を捉える。もし問題があったのだとしても、内面的なものであれば定期的に行っている自己診断で見つけられればいい。少しだけ予定日から外れるものの大事をとって今日実行すれば、何も問題はないだろう。
そう思うことで、彬奈は自身を襲っている明らかな異常から目をそらす。
だって、ああ。せっかくわたしの思いが届いたのに、せっかく主人の気持ちを聞かせてもらったのに、その翌日に起きたら故障していたなんて、主人の起床を見届けられないなんて、そんなのはあんまりではないか。
本来、異常を検知したらすぐさまその正体を暴くように努めるはずのアンドロイドは、自身の意思をもってその前提に逆らい、自らの意思を貫いてしまう。
もしかしたら、それは主人に害をもたらすものかもしれない。もしかしたら、それは主人にとって不利益を被るものかもしれない。もしかしたら、それは自身を壊すものかもしれない。
それをわかっていながら、彬奈は、人工知能は、アンドロイドはそれを後回しにした。その、見込まれるリスクの大きさからしてすぐに対処しなければいけないはずのそれを、無視した。
三度目の目覚ましが鳴る。
久遠が起きるまで、後三十分。それだけの時間がある。
彬奈は自身の内にある感情から目を背けつつ、朝食と弁当の支度に戻った。
共通のメニューは、昨日の夕飯にも入っていた煮物。具体的には、三日前から冷蔵庫の中で味をしみ込ませていた筑前煮。化学的、熱力学的に考えれば室温か加熱状態の方がしみ込みやすいのだが、あえて冷蔵庫の中に入れていたのは保存性を考えてのことだ。
ほかには、朝からでも食べやすいものとして茶碗蒸しを多めに作っておいたり、お吸い物を残しておいたり。
あるいは、お弁当用に一口サイズにあげておいた天ぷらを二、三種類詰めておいたり、昨日の昼食にも使ったオクラを刻んでカップの中に入れたり。
そんなことをして時間的に、食材や料理過程的にもなるべく無駄なものを減らしながら、彬奈は朝の調理に時間をかける。
久遠の趣味に合うような、朝食用の野菜炒め。久遠の趣味にはあまり合わないかもしれないけれど、栄養バランスを考えた結果の鶏肉のソテー。
生活のあれやそれを除いて、基本的に食事に関しては、もう少しコストを抑えてほしいということと、可能であれば野菜系をメインにしてくれればこのままで構わないと言われた彬奈は、その言葉に則ったメニューを、今冷蔵庫の中に入っているものから考えて組み立てる。
その結果が、今料理を強いている現状。彬奈は、アンドロイドとしての演算能力もフルで活用して、一つしかないコンロで調理を頑張っていた。せめて二つあればもっと効率よくできるのにと思いながら、現状にあるものだけで最適解に近いであろうものを用意する。
一つ一つなら、あるいは同時に行っていれば10分以内に終わってしまうような過程に少しだけ面倒くささを感じつつ、それを表には出さずに、彬奈は料理を続けた。
四度目の目覚ましが鳴る。彬奈の調理は一段落つき、弁当箱に詰めたものの放熱を済ませれば、何時でも久遠がでかけられるくらいには整っていた。
そんな中、彬奈はひとつの音を聞く。
それは衣擦れの音。
久遠が被っている布団の生地と、久遠の着ている服の生地がこすれ合って、なっている音。久遠が寝返りを打ったか、あるいは身じろぎをしたときの音。
比較的寝相のいい久遠は、普段たまに寝返りを打つ以外にはこの音を立てることが少ない。夏周辺では、気温の高さゆえに比較的多かったのだが、涼しくなってくるに連れて、その頻度は激減していた。
そんな久遠がこの時間帯にこの音を立てるのは、目覚めた時に他ならないと、彬奈はよく理解していた。ほかの可能性もないわけではないが、それが一番有力だと理解していた。
そして、その予想は幸か不幸か的中してしまう。そのまま、動き出した衣擦れの音。そして、空気が押しのけられるファサという音と、フローリングを踏むミシミシとした小さな音。
久遠に関して正しく理解できていると考えれば喜ばしいことなのだろうが、久遠の寝起きの姿を見たいと、久遠が起きて最初に見るものは自分であってほしいと思ってしまった彬奈にとっては、それは悲報であった。
ガチャリ、扉が開く音がする。
久遠が、目覚めて最初に顔を洗おうと思ったから、洗面所に向かうために仕切りの扉を開けた音。これまでであれば、久遠が食欲で多少健やかに目覚められるように、開けっ放しになっていた扉。
「おはよう彬奈。今日も、朝ごはんと弁当を作ってくれているの?いつもありがとうね」
寝起きの久遠が、寝ぼけた表情で、朝の挨拶を口にする。
「おはようございます、旦那様。本日はおひとりで起床なさったのですね。彬奈のお仕事が減ってしまい、少し残念です」
彬奈が、少しだけ本音を漏らしつつ、朝の挨拶をする。一昨日までの久遠であれば、この言葉を皮肉としてとらえていたが、今はそんな風には捉えない。
「ああ。しばらくこれよりも早く起きる生活が続いたせいか、自然と目がさえてえ来ちゃったみたいなんだ。少し損した気分と、三文くらい得した気持ちがあるからちょっとだけ複雑だけどね」
久遠は、そう言って洗面所の方に姿を消していく。
それを見送っていて、彬奈は少しだけ不満な気持ちになった。
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