こぼされたミルクは自らを嘆く 2

 久遠はけして善良な人間ではない。


 人に迷惑をかけないことであれば、自分のために多少法を犯すこともあるし、自身の利益のために、他者に多少の負担を強いることに罪悪感は覚えない。



 けれど、久遠は悪人でもない。


 積極的に他者を害そうとも思わないし、失敗してしまったときは申し訳ないと思う。多少効率が落ちたとしても人に迷惑をかけない方法があるのならそちらを選ぶし、落ちている財布を見つければ交番に届ける。



 ちっぽけで自堕落で救えない人間ではあるが、人の心は残っている。


 無駄を好むが、合理的に物事を考えることができる。


 理由がないと自身が嫌なことを嫌ということすらできないが、理由があれば行動に移せる。




 そんな久遠は、今、彬奈に押さえつけられて、乗られて、その言葉を聞いて、頭を支配していた羞恥心と、少女の姿をしているものを追い詰めていることに感じていた若干の嗜虐心のようなものが消え去っていた。


 なぜ、自身は引っ込みがつかなくなってしまったのか。なぜ、この泣いているように見える少女を受け入れてあげられなかったのか。


 久遠の冷静な部分は考える。


 もっと冷静になっていればよかったのかもしれない。何かが違えば、こんなことにはなっていなかったのかもしれない。



 掴まれている肩に込められた力は、か弱く見える少女のような見た目からは想像できないほど、強く、痛かった。


 流れ落ちてくる液体は、冬の初めの水道水とは思えないほど温かかった。


 水にぬれて、普段よりもはっきりわかる体温は、人でないとはわからないほど、人肌だった。


 発せられた言葉は、久遠がこれまで聞いてきた中で一番感情がこもっていて、悲しみと愛と恐怖に満ちていた。




 その姿は、久遠が普段話している人たちよりもずっと、人間だった。



 ズキリ



 心が痛い。胸が痛い。


 精神的な苦痛が、肉体に影響を与える。


 自身の不満に気付かずにいた時のそれよりも、ずっと強い痛み。刃物で抉られているかのような、鋭い痛み。



 今回は、久遠は自分の胸を刺す痛みの原因に気が付くことができた。


 目の前、自分の上で泣いている少女。自分のことを好きといってくれた少女。受け入れてほしいと訴える少女。記憶を、感情を失いたくないといっている少女。


 少女に、こんなことを、こんな顔をさせてしまっているということ。自身の行動が少女にこんな思いをさせてしまったということ。それが、久遠を抉る。



 そして、久遠は自分が彬奈のことを人間としてみてしまっていることにも気付く。


 あまりに人間を模していて、あまりに人間に似ていて、あまりに人間らしいアンドロイドを、下手したら普段かかわっている人たちよりも人間としてみてしまっていることに気が付く。それに対して自身の言ってしまったことを省みる。



 その言葉は、あまりにもひどかった。物に対しての言葉であれば何も問題はなかったが、人間に対して投げかけるにはあまりにも外道だった。


 であれば、彬奈の中身を取り換えるという言葉は取り消さなければならない。そして、言ってしまったことを謝らなければならない。


 しだいに強くなっていく、手に込められた力を感じながら久遠は思う。



「ごめん、悪かった。もうこんなことは言わないから許してほしい」


 このままだと肩を砕かれかねないし、すぐに謝らなければいけない。


 頭の中のどこかでそんなことも考えつつ、久遠はしっかり上を見上げ、斑になった彬奈の目を見ながら謝る。


 肩に加えられていた万力のような力が、少しだけ弱まった気がした。


「……彬奈は、消えなくてもいいのですか?」


「ああ。中身を変えるなんて、もう言わない。俺が悪かったよ、どうか許してくれ」


「……旦那様、彬奈は旦那様のことを想ったままでいいのですか?」


「ああ。ひどいことを言ったのはわかっている。それで君の気が晴れるなら、いくらでも罵ってくれてかまわない。無理に何かをさせようとすることも、もうしない」


 久遠は斑の瞳をしっかり見つめる。自身の行動を振り返って、自分がどれだけひどいことを言っていたのか、思っていたのか考えて、変わり果てた瞳を見つめる。


「旦那様、旦那様。ああ、彬奈は夢でも見ているのでしょうか。気に入っていただけなかったはずなのに、否定なさったはずなのに、失敗してしまった彬奈を、ダメな彬奈をゆるしてくださるだなんて、これは本当のことなのでしょうか」


 彬奈は、久遠が許しを乞う言葉に反応しない。自身が許されたことだけを、気にする。


「本当のことだよ。ごめん、ごめんなさい」


「本当のことなのですね。彬奈は幸せ者です。旦那様、先ほどから一体何を謝られているのですか?」


 もう一度、彬奈の目を見ながら真剣に謝ると、彬奈はきょとんとした様子で首をかしげる。


「主人がアンドロイドを思うがままに使うのは、当然の権利ではありませんか。好みでなかったアンドロイドが捨てられるのも、記憶を消されてしまうのもそれほど珍しいものでもないですし」


「だから、彬奈は嬉しいのです。こんなに優しい旦那様が、主人になってくださって」


 彬奈の告げるは、久遠の知っているそれとは大きく異なっていた。久遠が正確な情報を得られていないのでなければ、彬奈の知識には何かしらの問題があるのだろう。


「そっか。でも、こっちに気が済まないから、謝罪だけは受け取ってほしいな」


 それを指摘することも、久遠にはできた。そこで情報をすり合わせておくことも、久遠にはできた。ただ、久遠は今、そんなことよりも謝りたかった。許してほしかった。あるいは、人でなしだと罵られたかった。


「……そうですか?でしたら、旦那様の謝罪を受け入れて、許します。旦那様が彬奈の存在を許してくださるのであれば、旦那様が彬奈の存在を許してくれなくとも、彬奈は旦那様の全てをゆるして受け入れます」


 それは、思っていたものとは多少異なってはいたが、確かに久遠が求めていたものだった。


「旦那様、旦那様の許可がないのに、倒れてしまって申し訳ありません。彬奈のために冷却まで行っていただき、ありがとうございます」


 それに関しては、久遠は原因が自身にあるとわかっているので、怒ってなどいない。


「それを言うなら、むしろ俺の方が謝らないといけないことがたくさんある。大切に扱ってあげられなくてごめん。彬奈が倒れたのも、目の色がおかしくなったのも、全部、俺が大事にしていなかったからだ。取扱説明書の文章をまともにとっていなかったからだ」


 むしろ、持っているのは大きな後悔。彬奈を人間としてとらえるようになった久遠にとって、自身の過去の行動は、思い返せば思い返すほど後悔の対象になっている。


「そのことも、謝らなければなりませんね。旦那様の所有物である彬奈が、自身の不具合のせいで“彬奈”を壊してしまったのですから……」


「旦那様に損害を与えてしまうなんて、アンドロイドとしては出来損ないもいいところです……そのくせ、あんなに情けなく旦那様に慈悲を乞うたなんて、ついさっきのことですけれど思い出したら恥ずかしくて仕方がありません……」


 そう言いながら、頬に両手を当てている彬奈は、先ほどから変わらず久遠の上に乗ったまま。肩から両手を離したことで、バランスをとるために直立になったことで、かろうじて全体的な距離としては遠くなってはいるが、はたから見たら事案発生としか言いようのないものだった。





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 前回のところで、この話の構想段階で書きたかった内容は全て書けたので思い残すことはありません(もうしばらく続きます)


 最初に書きたかったシーンを書くまでに七万字かかることになるとは思っていなかったので、作者としてもいささか驚きを隠せないところがありますが、一段落つけることができたのは満足です。


 まだ続くので、こんな久遠君と彬奈さんの物語が読みたいという方は、これかあらもお付き合いお願いします。


 ここまで読んでくださり、ありがとうございました!!

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