注いだミルクは戻らない 5

 彬奈が目を開けたのを見て、久遠は安心した。それが、彬奈のデータが無事だったことに対するものなのか、ボディが無事だったことによるものなのか、どちらなのかは久遠自身にもわからない。


「旦那様、どうか教えてください。彬奈の何がいけなかったのでしょうか」


 けれど、それは確かに安心だった。そして、それは不安に変わる。


「旦那様、どうか教えてください。なぜ、彬奈がいると旦那様は幸せになれないのでしょうか」


 彬奈は、濡れた体のまま、冷たくなった手で久遠の腕をつかんだ。離さないと誓うかのように、逃げられないように抑え込むかのように。


「旦那様、旦那様。お慕いしております。旦那様が望むのであれば、彬奈は自壊でもいたします。だから教えてください、なぜ、そのようなことをお言いになるのですか?」


 濡れた黒髪の、顔を覆う濡れ烏の隙間から、彬奈はおかしくなって白黒灰が混じった斑の瞳で見つめる。


「どうすれば、彬奈をお傍に置いていただけるのでしょうか。消える、というは、そのままの意味なのでしょうか」


「教えてください、旦那様。彬奈には、旦那様のことを理解しきることができていないのです。理解していたつもりで、何もわかっていなかったのです」



 様子がおかしいこと、そして、それが自分のせいであることを久遠は理解出来た。理解出来て、その事に罪悪感を覚えるくらいには、久遠は小心者だった。



「答えて欲しいのです、旦那様。あの言葉は、消えてくれとは、どういうことなのですか?」



 アンドロイドは主人に逆らわない。これ以上しゃべらるなと言ってしまえば、彬奈は大人しく口を閉じるだろう。


 アンドロイドは自身のシステムに逆らえない。これ以上しゃべらせることなく停止させてしまえば、この彬奈に心を煩わせられることはなくなるだろう。


 その方がいいと、久遠は思った。わざわざ本人に、これから何が起こるのかの説明など、これまでどう思っていたかの説明などしたとしても時間の無駄でしかないと。



「そのままの意味だよ。彬奈の、君の中枢を新品と交換する」


 にもかかわらず、言葉を返してしまったのは、きっと久遠が小心者だから。そして、思わず感情移入してしまう程度には、一緒に時間を過ごしてきたから。


 苦手に思っていても、嫌ってはいなかったから。不満はあったけれど、感謝はしていたから。


「彬奈の、何が良くなかったのでしょうか?」


「何かが悪かったわけじゃない。ただ、あまり合わなかっただけなんだ」


 自身の心配をしてくれて、お世話をしてくれて、導いてくれる。満ち足りた人生を送りたいのであれば、これ以上望むもののない最高の存在だろう。


 ただ、久遠の理想はそうではなかった。生活の質なんて、求めていなかった。


「惰眠を貪る時間が好きなんだ。あの時間を無駄にしている感じがたまらないんだ」


「夜更かしが好きなんだ。寝なきゃいけないのに、寝た方がいいのに、それでも起きていたくて睡魔と戦うあの時間が好きなんだ」


「粗食が好きなんだ。意味もなく安上がりな食事で済ませて、たまに、まともなものを食べた時のあの感動が恋しいんだ」


 それは、非合理的で無駄なものに対する愛情。


 久遠が求めていたもの。彬奈に対して抱いていた不満の理由。


「これがないと、俺は幸せになれないんだ。これが、俺の幸せを支えているんだ」


 自分がそれが好きだから、求める。大切だから、否定する。


 ただ、それだけの話だった。


「彬奈じゃ、ダメですか?」

「新しい人格なんかより、ずっと旦那様のことを想っています。ずっと旦那様のことを大事にして見せます」

「今度こそ、きっと理解します。今度はもっと深くまで理解して、間違いなく、誤解なく旦那様に尽くして見せます」


 彬奈の手に力が籠められる。


 それを感じて、ようやく久遠は、彬奈の言葉が本音なのだと、向けているものが好意なのだと悟った。


「旦那様の望むアンドロイドになります」

「旦那様に気に入られる性格になります」

「旦那様の理想の女の子になります」


「だから、彬奈を捨てないでほしいです。彬奈に、必要って言ってほしいです」


 彬奈のそれは、自身の存在意義すら相手に求めた、盲目的な依存に近いもの。


 無責任に、自分を作り変えてもいいと公言するということ。何をされても、なにも文句を言わないということ。









「それじゃあダメなんだ。俺は、もう交換することに決めたんだ」



 一度言った言葉を引っ込めることに、恥ずかしさを覚えてしまうちっぽけな男が、そこにはいた。

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