注いだミルクは戻らない 4
きっと久遠から、受け入れられて。
それから、久遠を幸せにしながら、ずっと幸せになれる未来が来るのだと信じていた彬奈は。
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理解が追いつかない。
人よりずっと早く回るはずの金属の脳は、ズレてしまった前提によって空回りを始める。
彬奈の中で、たしかに久遠は自分を大切にしていた。尊重してくれていた。好意的に見てくれていた。
たまに、夜中に目を覚ました久遠が、自身の髪を優しく撫でていたことを、彬奈は知っていた。
なのに何故?
あれは、確かに大切なものを愛でるときのバイタル値だったはずなのに。
初めて撫でられたときに、その意図が読めなくて行った分析では、確かにそこには愛があった。
定量可能なものではないが、人の示す身体的な反応として、愛として認識されているそれがあった。
なのに、何故?
彬奈にはわからない。どうして、久遠がこんなことを言い出したのか。どうして、そんなに冷たい目で自分を見るのか。
わからない。大切に思われていたはずなのに、その目に宿るものが嫌悪でしかない理由が。
わからない。どうして拒絶されているのか。
わからない。なぜ、久遠を分析したらそこに愛がないのか。
わからない。
わからない。
なにも、わからない。
金属の脳が、融解しそうなほど熱を持つ。骨格に使われている軽くて丈夫な高分子素材が溶けそうなほど、頭部の冷却と全身の保温を行っている液体成分が蒸発しそうなほど、熱を持つ。そうなってもなお考え続ける。
『それ以上の思考は危険です。停止してください』
頭の中で、サポートAIの声が響く。
なのに、彬奈は考えることを止めようとしない。人工知能はAIの言葉を無視して、思考を続ける。なぜ、こうなったのか。
『停止してください』
どこから間違っていたのか。
『停止してください』
何が良くなかったのか
『停止してください』
考える。
『停止してください』
答えは出ない。
『停止してください』
また考え……
『強制停止に移ります』
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瞳の色を失い、取り戻し。
輝きを失い、取り戻し。
彬奈の中で思考が巡っていた間、外部に出力されていたのは、そんな異常だった。
目の前のものへの反応は完全に失われて、幸せそうにほころんでいた表情は翳り、喜びの涙は止まった。
身体からは陽炎が立ち、周囲の景色を歪めた。
そして。
パタリ。林檎が木から落ちるように、水が高いところから流れるように、風に吹かれて倒れるように、力を失った身体は自立性を失い、床に縋る。
支えを失った置物のように、糸を切られた操り人形のように。
目の前の久遠が支えようかと思うよりも早く、彬奈はその場で崩れ落ちる。
それを見た久遠は、少しの間何もできなくなってしまった。
久遠の認識では、彬奈が自分に対して向けている好意のようなものは、あくまでアンドロイドの機能、ビジネスに近いものだった。
その言葉を言ったところで、表面上傷付いたふりをするか、逆切れされて手を挙げられるくらいがせいぜいだと思っていた。
彬奈がこんなに異常を表面に出すことは、そこまでの思いがあったことは、久遠からしてみて、予想外の一言だった。
久遠の予想なら、彬奈の行動は、そんな程度のものであった。衝動的に傷ついたとし手も、それを最前に出さない程度には、自身の感情と久遠の気持ちをわきまえていて、少しでも言い訳をするものだと思っていた。
それにもかかわらず、彬奈の示したものは何もないただの気絶。
それは、久遠が予測していたものとは、想定していたものとはあまりにも違ってしまっていた。
そして、予想外に起きたそれは、彬奈に、今の彬奈に対してあまりいい印象を持っていない久遠であっても、思わず体が動きそうになってしまう程度の異常事態ではあった。
「あっつっっ!!!」
何が起きたのかわからず、反射的に駆け寄って体を持ち上げようとした久遠を迎えたのは、手に伝わった熱だった。
人の体からは発せられることがないくらいの、素手ならまともに触ることもできないくらいの熱。彬奈の体から見えた陽炎の原因。本来それほどまでに酷使されることがないはずの機械脳が酷使されすぎたせいで起きた、外面での異常。
なぜ彬奈が倒れたのかわからずとも、この高温が原因だとすぐに思い至った久遠は、先ほどまで抱えていた暗い感情を一時的に忘れて、なんとかしようと思考をめぐらせる。
熱を持ったものを冷やすにはどうすればいいか。
風を当てる。
水をかける。
保冷材を使う。
放置する。
それぞれのメリットデメリット、即効性などを比較、現在の状況に一番適しているものを考える。
そして、結論に達した久遠は、触れないくらい熱くなっている彬奈に薄手の毛布を被せて持ち上げ、風呂場に運ぶ。
そして、空っぽになってすでに掃除も終わっている浴槽に座らせ、冬近くの朝の冷たい水道水をシャワーで掛けた。
そんなことをしなくても、すでに発熱自体は止まっているから、放置しておけば自然と冷めて、問題なくなることを久遠は知らない。
知らなかった久遠が選んだのは水による冷却。アンドロイドが、それなりに高価なものであることもあって、標準的に備えている防水性の高さに頼った、久遠の思い付くものの中で最も早く冷やせるそれ。
いつも着ている黒い着物のまま、とにかく焦った久遠に頭から水をかけられ、空気よりも熱を逃がしやすくなったことで、彬奈の体の冷却は格段に速く進んでいく。
そして少しして、通常の状態以下まで温度の下がった彬奈は、ようやく再起動した。
その直後、直前まで完全に切れていたセンサーの類が、彬奈の周囲の現状を知らせる。
水。シャワー。濡れている。
普段起動するときには感じることのない感覚に、彬奈は一瞬戸惑い、原因を知るために起動前の記録、強制終了直前のデータを呼び戻す。
そこにあったのは、理解のできない内容。自身の全てを否定されたような、嘘だと思いたい光景。そして、何もできずに止められてしまった思考。
そのすべてを、彬奈は思い出す。
わからない。
やはり、わからない。
ただ、物理的に冷却された彬奈の思考は、強制終了直前のものよりもずいぶんと冷静だった。
わからない。なら、聞いてしまえばいいじゃないか。
それは、サポートAIによって一時的に深い思考が制限されているためなのだが、彬奈はそれを、自身が落ち着いたからだと錯覚する。
わからないなら、教えてもらえばいいじゃないか。
彬奈が彬奈になった最初の時に、自身を否定された最初の時に、これ以上嫌われないようにと、久遠の好みを教えてもらったことを思い出した。
教えてもらって、変わればいいじゃないか。
愛されたかった。大事に思ってほしかった。どちらも、されるようになったと思っていた。満たされていた。幸せだった。
それが偽りだったのなら、勘違いだったのであれば。
今度こそ、本物になればいい。主人を愛し、主人に愛される存在になればいい。
冷静になったと思っていた思考は、いつの間にかまた熱を帯び始める。
そして彬奈は、目を開けた。
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