注いだミルクは戻らない 3
デザートのジェラートを食べて、寝て、彬奈の灰色の瞳を見ながら起きて、働いて、考えて、帰って、またねる前まで時間を過ごして。
そこまでの時間をおいて、ようやく久遠は、一つのことを決意した。
明日、明日の一日の間に、彬奈に対して自分の不満を打ち明ける。
それによって、嫌われたとしても。
叩かれたとしても。
なじられたとしても。
絶対にそうすると、久遠は決めた。
そして、その決意を胸にこの日は眠り、翌朝、相変わらず灰色で、どこかキラキラして見える綺麗な瞳の彬奈を前に、久遠は起きる。
十分な、しかし翌日以降の目覚めに大きな影響を与えないような、少し早めの起床時間。
ここしばらく、久遠は寝起きが少しだけ良くなっていた。
寝る前の生活習慣が変わった影響か、あるいは寝ている間に彬奈が何かしているのか。
寝ていた久遠にはわからないが、何かしらの行動を彬奈がとっていたのは確かだろう。
「快適な目覚めを迎えられたようで何よりです。おはようござます、旦那様」
ほんのり輝く灰の瞳は、どこか達成感のような、色を湛えている。
「おはよう彬奈。なんかすごく機嫌がよさそうだけど、なにかあったのかな?」
ほかのタイプよりも感情値が比較的変動しやすい慰安用は、一目見てわかる機嫌の良さで、その身の喜びを饒舌に表す。
「何かあったわけではないのですが……実は今日でちょうど、この彬奈が旦那様にお仕えさせていただいて2ヶ月になるんです」
柔らかく微笑みながら、彬奈は言う。
「ほんとは一ヶ月で、旦那様と一緒にお祝いしたかったのですけれど、先月はまだ彬奈の努力が足りていなかったようでしたから」
まるで誕生日でも祝おうとしているかのように、まるで記念日が待ち遠しかったかのように、彬奈は微笑む。
いや、実際に待ち遠しかったのだろう。いい印象を与えるために浮かべる笑みではなく、内側から抑えきれずに溢れてしまったそれは、変な偏向バイアスさえなければ、誰でも好意的に捉えるようなもの。
「旦那様が、彬奈の不安を全部解消させてくださったから、彬奈のことを受け入れてくださったから。今月からは、彬奈は月に一回大好きな旦那様にお礼がしたいのです。お労りしたいのです」
アンドロイドは奉仕するために作られた。だから、アンドロイドである彬奈にとっての幸せとは、尽くすことであり、受け入れられることだった。
だから、その言葉に嘘はない。幸せを供給する久遠に対しては、心底感謝しているし、自身の生きがいが嫌いなはずもない。
久遠の心の中にある澱みとは対照的に、彬奈の心は澄んで輝いていた。
キラキラと輝きを増す灰の瞳のように、彬奈の心は優しさと幸せで満たされていく。どこか幻想的にすら見えるそれは、まるで夢の中にいるかのようにふわふわして見えた。
そんな光景を見れば普通なら、あるいは、ある程度であれば異常であれどその光景を受け入れるものだ。好意的に捉えるものだ。
けれど、残念なことに久遠はその例外に属していた。ある程度に含まれる程度の異常に留まりつつも、前提条件、変な偏向バイアスを持っているというところに引っ掛かり、好意的な解釈ができなくなっていた。
慰安用アンドロイドの要素として、まず第一に瞳があったことが、この事態の最たる要因ではあるのだろう。
起動前の彬奈の瞳に惚れ込んで、あの真っ黒で深い瞳に魅入られて購入を決めた久遠が、まず第一に確認してしまうのは、その瞳だった。
それは、主人に、あるいは周りの環境に対する感情の種類と度合いによってその色を変化させる。プラスであれば、その色に光沢を少しずつ増していき。マイナスであれば、その色とは正反対の色に染まっていく。
その説明を読んで、彬奈の瞳が自身の好みであるどこまでも深い黒から離れることに納得した久遠は、その記述の一部をしっかり覚えていた。
それが正しい記述のままかどうかはともかく、初期の彬奈の場合の、黒から遠いと好感度が低いということだけは、忘れることなくしっかり覚えていた。
だから、久遠はこの時点で、ずっと前の時点で一つの大きな勘違いをしていたのだ。
久遠は、彬奈の灰色の目だけを見て、そこに輝きがある事に気付かずに、好感度が低いものだと思っていた。
ハイライトどころではなく、すでにキラキラとして表れている輝きが、どれだけ強い愛情なのか、好意なのか、久遠はそのことに、一向に気付かない。
自身が彬奈に嫌われているものだと思い込みながら、彬奈の告白を、ただのリップサービスであると信じ込みながら、久遠は彬奈の言葉を聞く。
ズキリ。
久遠の胸が痛んだ。全身で“幸せ”そうな空気を醸し出している彬奈を見て、その姿に居心地の悪さを見出しながら、このままでもいいのかもしれないと思ってしまった自分に対してナイフを突きつけるように。
ズキリ。
心が痛んだ。きっとそうだと信じながら、もしかしたらと、目の前の真実が本当のことだったら自分は決して許されないことをしようとしているんじゃないかと、なけなしの良心に縋り付くように。
果たして、久遠の良心は頼りにならないものであった。
そもそもが、自身に好意を向けていないかもしれないとはいえ、人工物に過ぎないとはいえ、一つの人格を、自身に尽くしてくれていた人格を“存在しなかったこと”にしてしまおうと思ってしまえるような、そんな人でなしだったのだ。
そんな人間に、まともな良心が、人並み程度の良心が、存在するはずもない。
ゆえに、よって。
心からの綺麗な笑みで、幸せを告げる人造少女に対して与えるだけの慈悲を、思いやりを、久遠は持っていなかった。
「ちょっと恥ずかしいのですが、これが彬奈の素直な気持ちなのです。旦那様、彬奈を買ってくれて、ありがとうございました」
「おかしくなった彬奈を見捨てないでくれて、ありがとうございました」
「変わってしまった彬奈を許容してしてくださって、ありがとうございました」
「旦那様に健康であってほしいというわがままを聞いてくださり、ありがとうございました」
「彬奈の作るものを美味しいと食べてくださり、彬奈の奉仕に、温かく“ありがとう”といってくださり、ありがとうございました」
「彬奈のことを大事にしてくれて、尊重してくれて、愛してくれて、ありがとうございました」
「心の底から、お慕い申し上げております。大好きです、私の旦那様」
よほどの感情値の変動がない限り、うっすらとすら浮かぶことのないアンドロイドの涙が、つうっと彬奈の頬を伝い落ちる。
そこにあるのは純粋な思い。造物とはいえ、誘導されているとはいえ、一つの思考体が導き出した、たどり着いた、たった一つの愛情。
数年ともに暮らしても、至らないことの方が多い、アンドロイドの感情の、一つの到達点。
彬奈は、いつの間にかそこまで、自身の思いを募らせていた。それが、何に繋がるのか、どのように受け入れられるのか、久遠を観察して演算するのではなく、自身の思い込みだけに頼って信じ込んでいた。
久遠は、彬奈が自身に向ける感情をマイナスのものだと信じ込んでいる久遠は、彬奈の内心など知る由もなく、ただただ馬鹿にされているのだと思った。
本当は自身を嫌っている人工知能が、役割だからとご機嫌取りをしているのだと、そんな嘘は、瞳の色を見れば一目瞭然だと思いながら、彬奈の笑みに罅を入れてやろうと、今日こそ不満をぶち撒けようと決意する。
久遠は、今の彬奈の瞳の基本色が、灰色になっていることを知らない。彬奈の瞳の輝きが、好意を示しているものだと気が付かない。
彬奈は、自身のもともとの瞳の色が真っ黒だったことを知らない。久遠、自身を好ましく思っていないことに気が付かない。
彬奈の変化過程で、予想外の事故により彬奈の瞳の色が変わってしまっていたことに、二人とも気が付かない。初期人格の彬奈の抱いていた好意が異常値だったせいで、“追憶”プログラムによる汚染に異常が生じて、こんなことになってしまったことは誰も知らない。
「……えへへ、なんか、こんな風に真正面から伝えるのも、少し恥ずかしいですね」
最も人間に近かった彬奈は、まるで告白直後の人間の乙女のように、照れた表情を浮かべつつ、返事が肯定であると確信して嬉しそうにしている。
「…………そうだな、俺も、彬奈には言わなきゃいけないと思っていたことがあったんだ」
久遠の口から出ようとしているものは、彬奈の人格の、思いに対するすべての否定。久遠の口調はそれを告げるのにふさわしい重く暗いものであったが、浮かれて勘違いしている彬奈には、ただ恥ずかしがっているだけに見えていた。
「彬奈、申し訳ないけど、俺の幸せのために、消えてくれ」
「………………ぇ……?」
告げられた言葉が理解できずに、彬奈は固まる。
その瞳からは目に見えて輝きと色が失われていき、そして、何も写さない、真っ白になった。
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