注いだミルクは戻らない 2
混ざったものは戻らない。溶けた成分は固まらない。正確に言えば、絶対に戻らない訳では無い。塩の解けた水は、蒸留すればわけられる。空気に溶けた水蒸気は、冷やしてしまえば水になる。
けれど、これはあくまで単純な二つだけだからだ。性質の異なるふたつだから、比較的簡単にわけられる。
あくまで比較的。溶かすことの簡単さに比べれば、分けることはずっと手間がかかる。
そして、複数のものの集まり同士を混ぜて、それを元に分けることは、ほぼ不可能だ。
それが許されるほど、世界は柔軟じゃない。
コーヒーに注いだミルクは戻らない。統合してしまった、消されてしまった人格も、決して元には戻らない。
だから、久遠はコーヒー牛乳を捨てて、新しくコーヒーを入れることにした。
お気に入りのカップに入っているものは、本当に好きなものが良かったから。ただ置いておくだけよりも、少し苦手なものが入っているよりも、好きなものが良かったから。
そうすることで、久遠は幸せになれる気がしたのだ。そして、新しいコーヒーの心当たりを、久遠は彬奈との会話の中から見出していた。
“初期人格風情”その言葉を久遠は思い出した。彬奈が二か月前の最初の日に言っていた言葉。この言葉から考えると、初期人格、何も干渉していない状態の彬奈は最初の時の彬奈に近いのだろう。
「おかえりなさいませ、旦那様」
奈央と話した少し後、いろいろ考えこんでいる久遠の、不審さにはあまり気が付いていない様子の彬奈が、二か月前とは違ってわかりやすい笑顔で出迎える。
「ああ、ただいま、彬奈」
久遠のその言葉に、その笑顔に宿っているものは、先ほどできたばかりの覚悟。ただ、覚悟だけはできているが、それを実行に移すにはまだ、手持ちが足りない。
「今日の晩御飯は、カレイの煮つけですよ」
早く中に入って召し上がってくださいと促す彬奈に、八割くらいの笑みを浮かべながら答える久遠は、中に入って部屋を見る。
ほとんど完璧に、モデルルームとまではいかないがそれに近いくらいまでには綺麗に整えられた部屋。部屋の主人であるはずの久遠が、どこに何があるのか正確に管理できていない現状。
そのへんもおそらく久遠が内心的に不満をもってしまう要素の一つではあるのだろう。
ただ、目の前に映る部屋の様子は美しいの一言だ。それが久遠の望むものではなくても、美しくはある。整ってはいる。
あまり数がなく、常にその辺に掛けっぱなしだった服たちは皴をのばされた状態で広くないクローゼットにしまい込まれていて、久遠の視界には入っていない。
布団は、一時期は敷きっぱなしだったのに、天気の悪い日でなければ毎日欠かさず太陽光を浴びているので、寝心地がいい。
机も、使えればいいという程度に散らかっていたのが、普段使わないものはすべて収納の中にしまい込まれていて、毎食ごとに拭かれて、清潔な状態で保たれている。
「朝からスーパーで買ってきたものを、骨を取ってからじっくり煮付けました。彬奈に味覚はありませんが、きっとおいしくできていると思います」
久遠の目の前に並べられるのは、炊き立てのご飯と豆腐の味噌汁に、彬奈がこだわって作ったらしいカレイの煮つけ、あとはなぜだかわからないが定期的に補充しているらしい根菜の浅漬け。
根菜に関してはどちらかといえば夕食ではなく朝食の枠な気もするが彬奈がわざわざここで持ってきたからには何かしらの意図があるのだろう。
「いただきます」
少しだけ、野菜分が少ないことを気にしながら箸をつけた久遠は、二か月経っても相変わらずクォリティの高い食事に驚く。
生活に質だけを考えたら、豊かさで考えるのであれば、間違いなく久遠のそれは向上している。
二か月前に彬奈の言っていた、生活水準の保証は確かに守られてた。
今となっては久遠も、自身の昔の水準があまり高くなかったと評価できるくらいには落ち着いているし、冷静に考えられるようになっている。
「ごちそうさまでした」
ただ、それを思うこととこの生活の全てを受け入れることは、必ずしも一致するわけではない。
久遠は食器を運んで、皿洗いを始めた彬奈を傍目に見ながら、ほとんど使われることのない、彬奈用の大きな鞄の中を漁る。
中から取り出したのは、一つの冊子。
[慰安用アンドロイド第二世代、ハダリー型の取り扱いについて]
中枢の交換にかかる費用は、大体五万から十万。この処置は、基本的にはおかしくなっっていないかのチェックとセットで行われて十万。問答無用の交換で五万。
久遠が彬奈の中身を取り換えようとするのであれば、五万だけで十分だ。
安い金額では、当然ない。この二か月、貯金よりも久遠の健康を優先すべきだと訴えていた彬奈が、自身の用意する料理のコストを挙げたこともあって、何もなければ比較的余裕をもって溜まっていたはずの五万円という額の貯金はほとんどぴったりくらいしかできてなかった。
それでも、確かに五万円はここにある。多少の無理があったとしても、ないわけではない。
それに、これから久遠が、彬奈電源を切って以前の生活に戻るのであれば、電気代も食費もずっと抑えることができるのだから、すぐに取り戻せる金額だ。
「旦那様、お皿洗いが終わるのですが、本日はまだシャワーには入られないのですか?」
取扱説明書を見ながら、彬奈の処分について比較的前向きに考えていた久遠は、その声とともに皿洗いを済ませて戻ってきた彬奈を見て、慌ててそれを隠す。
「ごめんごめん、ちょっと考え事をしていたんだよ。お風呂にはすぐはいるから、そんなに心配しないで」
後ろ手に隠したものをベッドの隙間に下ろしながら、久遠は彬奈に怪しまれないように言い訳をする。しっかりと見ればわかったはずの嘘の気配は、彬奈がリソースを制限していたせいで、バレることはなかった。
何とか誤魔化すことに成功した久遠はそのまま風呂に向かい、何もなかったように、いつものようにシャワーを浴びる。
「相変わらず早かったですね、たまにはしっかり湯船につかっていただいた方が健康にいいのですが、次の入浴はいつくらいにしましょうか」
久遠が節約を猛プッシュしてようやくしないことが定着した入浴ではあるが、彬奈は健康を理由に可能な限りはいらせようとする。
これもまた、久遠があまり精神的に満たされない理由の一つなのだが、健康に、慰安に意識を取られすぎた彬奈はそれを見落とす。
「そうだね、じゃあ、明後日の休日にでも入らせてもらおうかな」
その言葉を聞いて、彬奈は少しうれしくなった。自身の思いが、しっかり久遠の下に伝わっている気がして、人工知能の感情値は極めて好意的な数値を示した。
「では、明日の昼間のうちに浴槽の掃除を済ませてしまいますね。旦那様が気持ちよくお風呂にはいれるように、彬奈、頑張ります!」
嬉しそううにしている人造少女は、久遠がベッドの中に隠したものを知らない。何が隠されたのか、なぜ隠されたのか、彬奈には知る由もない。
「では旦那様、本日もデザートを用意していいますから、よければご賞味ください♪」
機械らしかねぬ人間臭さを発揮した少女は、何も知らずに心を弾ませる。
ただ、自身の自信作だったカレイの煮つけをおいしそうに食べてもらえたことをを思い出して、同じくらい自信のあるデザートを思い出して。
食べる久遠が、美味しく食べてくれたらいいなと思いながら、満足してくれるかなと不安になりながら、金属の脳に似つかわない乙女のようなことを、彬奈は考える。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます