公園で黄昏る子供 3

「それでは、最後の最後でようやく、は不審者としての本領を発揮して、子供に話しかけることが出来たのですね。明日以降警察の方のお手を煩わせないとも限りませんが、ひとまず今日捕まらなかったことに彬奈は一安心です」


 瞳をライトグレーに進化させた彬奈が言う。


「ようやく話しかけられたという達成感が半分と、ようやくこの義務感から開放されるって安堵が半分くらいだね」


 あまり、普段顧みない良心なんかに囚われるものじゃないと、素知らぬ顔をしながら、久遠は自身の行動を笑う。何事も無かったように戻れる日常を喜ぶ。





 そして、そんな気晴らしは無駄に終わった。


 朝、ここ数日と同じ時間に出て、公園に子供がいなかったことで感じられた、自身の不要さが、心配する必要なんてなかったのだという安心が、帰りに公園を見た時に、壊された。


 そこに居たのは、この数日ですっかり見慣れてしまった子どもの姿。あどけない顔立ちと、サラサラの髪と、薄手のシャツと短パンを身につけ、よれた紺のランドセルを背負っている姿。男の子に見えるが、女の子だと言われても納得できるような、この、性差の少ない年頃だからこそ判断に困る子供の姿。


 そんな子供は、片手に防犯ブザーをしっかり握りしめた状態でベンチに座り、久遠がやってくる方向を警戒した様子で見ている。


「こんばんは、ここにいるってことは何か話してくれるってことでいいのかな?」


「……コーヒー牛乳」


 久遠が近づきながら声をかけると、印籠を見せるように防犯ブザーを掲げた子供は、ぼそりと飲み物の催促をする。


 安心して帰りたかった久遠は、自身から突っ込んだとはいえ面倒くさいことになっていることと、節約中なのに出費がかさんでしまったことから、内心帰りたいと思いながら自販機でジュースを買う。


「それ持って、早く来て」


 買ったはいいけれどどうやって渡そうか悩みながら、とりあえず恐怖を与えないようにゆっくり近付く久遠に対して焦れた子供は早くこっちにこいと促す。


「そこで止まって、ベンチの端に置いて、反対側に座って」


 久遠は言われたとおりにコーヒー牛乳を置いて、ベンチに腰を掛ける。立ち上がるのに時間がかかるように、持っていた鞄を自身の膝の上に置いたのは、きっと伝わることのない気遣いだ。子供は、ランドセルを背負ったまま、ベンチに座り込むと、そこに置かれたコーヒー牛乳を遠慮することなく美味しそうに飲む。それを見ながら、久遠はペットボトルに入れた水道水を飲んだ。


「……しないんですか、話」


 二人並んでほっと一息着いていると、飲み物をたかりながら何も話していないことに居心地の悪さを覚えたらしい子供が、久遠におずおずと話しかける。


「そうだね。ただ、俺からだと何を聞けばいいのか分からないから君が話したいと思ったところから聞かせて貰えないかな?」


「……ボク、ネグレクトされてるんですよ」


 しょっぱなから飛び出てきたのは思ったよりも重そうな話だった。もっと浅いところからゆっくり進めていくと勝手に思っていた久遠は、その急発進に驚く。


「とはいえ、そんなちゃんとしたネグレクトじゃないんです。ご飯だって毎食ちゃんと買ってきてくれるし、見ての通り服だって着せてもらっている。おじいちゃんがボクを引き取るときに言っていたことは、全部保証してくれているんです」


 一般的に知られているネグレクトとは、少しだけ差異のある子供の言葉。大体の人がネグレクトと聞いてすぐに頭に浮かぶのが衣食住や健康に関しての放棄である以上、この言葉に久遠は違和感を覚えた。


「おじいちゃんには感謝しているんです。お母さんが死んじゃって、暴力を振るうようになったお父さんから助けてくれたから。痛い思いも、怖い思いもしなくなったし、家の中は寒くないし。けどね、おじいちゃんはボクのことを見てくれないし、ボクのことを呼んでくれないの」


 そこで、子供はぐっとコーヒー牛乳を飲む。そして、少し間をおいてから自嘲するように呟く。


「……なぁんて言っても、こんなのはどうせ、ボクのわがままだってわかっているんです。世の中にはボクよりずっと不幸な子たちがたくさんいるし、そんな子たちと比べたら、お父さんのところにいたボクでさえとっても幸せなんだって。それなら、今のボクなんてすっごく幸せなんだって」


「そのはずなのにね、とっても寂しくて、苦しいんだ。おじいちゃんも、学校のみんなも、だれもボクを見てくれないのが、すっごく切ないの」


「ボクみたいに、話しかけても面白くなくて、運動も苦手で、他の子たちの話についていけないような子なんて誰にも相手にされなくて当然なのに、お父さんしか相手にしてくれないのに、当たり前のはずなのに、つらいの」


 家族を失った子供。虐待されていた子供。ネグレクトを受けていて、周囲に馴染めず、虐待されていた時が一番周囲に認められていたのではないかと思ってしまった子供。


 その言葉は、そんな子供が初めて外に出せたSOSで、初めて告げられた本心だった。


 けれど、それを唯一聞いて、解消の一歩目を踏み出すことができた久遠は、それに対して少し戸惑ってしまう。久遠が想定していたのは、せいぜいが親と喧嘩をしたとか、友達にからかわれたとか、あってもちょっとした反抗期程度のものだった。この子供のように、根が深そうな問題を抱えているだなんて、思ってもみなかった。


 だからこそ、想定外だったからこそ、久遠はすぐに言葉を返すことができず、子供の間違った答えを正して、当然の感情を肯定してあげることができなかった。そのせいで、子供はまた一つ勘違いを進めてしまう。


「……そうだよね、きっと、大人なおじさんからしたら、ボクの悩みなんてすっごくちっぽけで、呆れちゃうようなことなんだよね。……変な話しちゃってごめんなさい、ジュース、ありがとうございました」


 そういって子供は、どこか諦めたような顔をしながら、ベンチから立ち上がってその場を立ち去ろうとする。


「……なんで、話しちゃったんだろ……」


「待ってくれ!」


 子供の言葉を聞いて、とっさに久遠が絞り出せたのはその一言だけだった。このまま子供を帰らせてはいけないと、このままだとこの子に言葉を届けられる人が現れるのはいつになるかわからないと、そんな思いで呼び止めた。もし自身がうまくいかなくても、この子に、人に話すということを諦めさせたらいけないと思って呼び止めた。


「君の言葉に、思いに対して今すぐ何かを言えるようなものは、申し訳ないけど俺は持っていない。でも、その考えが間違っているってことだけは間違いなく言える。だからよかったら、俺に時間をくれないかな?時間さえあれば、君の考えが間違っているってことをきっと納得させて見せる。ただ、今の俺に言えることは誰にも言えるような綺麗事だけだ。だから、明日だ。明日以降に、俺は君の考えに対する反論を考えてくるこの納得できない気持ちを言葉にしてくる。だから、後悔するのは、諦めるのは、明日以降にしてもらえないかな?」


 久遠の、納得できないという気持ち。言いたいことがあるという主張は、幸い、この子供には届く。


「……いいですよ。そんなに言うのであれば、ボクも少しくらいは待ちます。……あの、見知らぬボクのために、そんなに真剣になってくれてありがとうございます。もし明日何も言ってもらえなかったとしても、もし明日おじさんが来てくれなかったとしても、こんな風に言ってもらえたことは、きっとボクの中で大切な思い出になります」


 ただの思い出なんかにはさせないから、きっと、君の心に届けて見せるからと、久遠は言った。そしてその子供はその言葉を聞けただけでも満足とでもいうかのように、満ち足りたような表情でベンチから立ち上がり公園から去っていく。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る