ドストエフスキー風うっせぇわ

鳥取の人

ドストエフスキー風うっせぇわ

 1


 先日、同僚のイワン・パーヴロヴィチは私に訊ねたものだ。

「まったく、君はシラフでいるときがあるのかい?」

 私はなにも答えなかったが──実のところ酒など大して飲まないのだが──私が皆からおかしな人間と見られているのももっともなことだ。事実、私はおかしな人間である。とはいえ、こんな時代に於いて狂人と評されるのはむしろ名誉なことではないだろうか?

 何しろ現代では正しいことと間違ったことが混同され、愚かな人びとがインテリゲンツィヤと呼ばれる──むろん、これは連中がわざとやったことなのだが──始末なのだから! 今のご時世、〈正しさとは、愚かさとは?〉などと問うてみたところで鼻で笑われるのが相場というものだろう。しかし私はどうしても、正しさとは何か、愚かさとは何か、それを公衆の面前に引き出し、諸君に見せつけてやりたい。そういうわけで今こうしてペンを走らせているという次第なのである。


 2


 私はまだ小さいうちにモスクワの寄宿学校に送られ、フランス語だのラテン語だの、その他愚にもつかない教科の数々を教え込まれた。

 私は学校ではずっと優等生だった。真面目なフリをして勉学をこなし、試験に合格し、気づけばロクでもない大人になっていたというわけだ。ただ勉強が人並み以上にできるというだけで、ナイフのような思考回路など持ち合わせるわけもない、ペテルブルグの片隅で細々と暮らす月給15ルーブリのつまらない小役人になったのである。

「しかし」と諸君は思うかもしれない。「お前だって全然遊んでこなかったということもあるまい。寄宿学校に入っていたくらいだ、多少は遊ぶ金もあっただろう!」

 いや、たしかに私だって遊びもした。ところが、何と言ったものかどうにも遊び足りないのだ。そう、何か足りない! 困ったことだが──諸君は狂人の妄想だと考えることだろう──これは必ずやのせいだと確信している。毎日、あてもなくただ混乱するばかり。実に困ったことだ!

 しかし、よく考えてみれば、それもそのはずである。

 私だって最近流行の文学については当然把握している。朝、役所へ向かう途中、ネフスキー大通りで呼売りの少年から新聞を買い、経済の動向にも目を通す。〈純情な精神〉──どんな〈精神〉だか知らないが、上司の前ではこう言っておかねばならないらしい──で役所勤めとなり、毎日与えられた仕事をこなす。こういったことすべて、私の上司──あんな俗物が四等文官の〈閣下〉とは!──によれば、〈C'est de rigueur〉(訳注 フランス語で「それがきまりのようなものなのだ」の意)ということである。

 それにしても、私が狂人であるというのはたしかにその通りらしい。この頃始まったことなのだが、こういった下らない世間の〈きまりのようなもの〉について思い返すたび、怒りや軽蔑を覚えるとともに、何か奇妙な声が聞こえてくるようになったのだ。まるで誰かが傍にいて、「うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ!」と言っているようなのである。

 こんなことを書くと、きっと神経の病気に罹っているのだとか、肝臓が悪いせいではないかなどと言われるに違いない。だか、お生憎様! 私は諸君が思うより健康だ(病気を自慢のタネにするなんて、まさしく愚かなことではないか!)。もっとも、凡庸極まる諸君には分からないかもしれないがね!

 いや、まさに凡庸な連中ばかりだ! 流行りのロマンス歌曲の可もなく不可もない旋律がよく似合う……。おや、また聞こえてきた! 「うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ!」

 何にせよ、私はあんな連中とは頭の出来が違うのである。そうだ、問題など何一つありはしない!


 3


 ところで、諸君は私をひどく怒りっぽい性分の人物だと思ったかもしれない。しかしながら、こんな文章を書いてきたものの、私はいたって模範的な市民なのである。相手が気に入らないからといってその汚い歯をぶち抜くなんて御免蒙る。その代わり、言葉の銃口──三文文士が書く檄文もどきにあるような表現を使うが、失礼──を奴らの顳顬こめかみに突きつけて引き金を引くのだ……。

 いや、実に結構なことだ! むろん、今さら止まれるわけもない。私という人間は一生涯不平不満ばかり垂れて、その成れの果てがこのざまなのだから! かつての(かつてあったとすればだが)〈純情な精神〉とやらを思い出してみるといい。かのサド侯爵(訳注 1740年〜1814年。変態的な嗜虐趣味で知られる)もかくやというほどの変わりようじゃないか!

 しかし、返す返すもけたくそ悪い話だ! 例の〈閣下〉が部下一同を引き連れて(私もお供しないわけにはいかなかった)メシチャンスカヤ街の薄汚れた料理店に行ったことがある。あの俗物ときたら、「ウォトカが空いたグラスがあればすぐに注げ」「皆がつまみやすいようにシャシリク(訳注 串焼き料理)の串を外せ」「会計や注文は先陣を切れ」──しかもそれが不文律最低限のマナーだと言う(不文律とは、いかにも愚鈍なお偉方が好みそうな言葉ではないか)。

 ああ、まただ──。「うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ!」……そうだ、人類は蒸気機関だの電信だのよりも、あの連中の悪臭ふんぷんたる口を塞ぐ方策を発明すべきだったのだ! こっちはもう限界だというのに! これがはたして極端な意見だろうか? いや、むしろ私こそが現代の代弁者ではないか。うむ、絶対にそうだ……!

 この際言わせてもらうが、「私は現代の理想を深く理解し、青年たちに同情しているのだ」とでも言わんばかりに気取った作家連ときたら、結局何一つ分かってはいないのである。私はとうに見飽きた、あんな気取り屋共の書くものは! ツルゲーネフ(訳注 本作が書かれる前年、ドストエフスキーはツルゲーネフと衝突している)とそのお仲間が書くような、偉大な先人たちが打ち建てた金字塔の二番煎じでしかない、詩だか小説だか──。あんなものはすべてプーシキンやゴーゴリのパロディ(それも果てしなく劣化したパロディ!)にすぎない。

 どうやらまた聞こえてくるようだ……。「うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ!」ふむ、考えてみればこれはなかなか気の利いたフレーズじゃないか? 〈高尚な文体〉ばかり気にする作家連の書く下手な詩なんぞより断然良い。何にしても、奴らの肉のだぶついた顔に〈Non!〉と大書きしてやりたいものだ……。


 4


 再びあの声が聞こえてくる。遠くからも近くからも……。

「うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ!」

「うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ!」

 ……収まってきたようだ。そう、私自身の話をしよう。

 私は俗に言う(この俗に言う、というところが重要な点なのだが)天才なのである。いや、本当にそうなのだ。本来ならばナポレオンと同じ列に加えられるべき種類の人間なのであって……またあれだ!

「うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ!」

 いや、決して私は病気ではない。まったくもって、諸君が思うより健康なのだ。前にも述べたように、凡庸な諸君には分からないかもしれないが……。

 ああ、つまらない! あのペテン師ども、同じ話を何回聞かせるんだ!

「うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ!」

 ……どうやら私は長々と書きすぎたようだ。まあしかし、正しさについては何とも言いかねるが、愚かさに関しては私も大概だからな! ここに書き散らしたことなど全部どうだっていいことである。最初から問題などありはしなかったのだ!


 終




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