これが夢なら
物心がついた時から悪い夢を見続けている。
今日も急に思い出した、いつだったかの出来事を。怒れる人格に支配された僕は、硬く握った拳で女の横っ面を殴り飛ばした。思い出すのも怖気の走る言葉を叫んで、執拗に殴りつけた。許しを乞う彼女の啜り泣きが、耳にこびりついて取れない。
僕を知っている人はこういうだろう。
「君のような人がそんなことをするわけない」
だけど僕は知ってしまっている。僕はそういうことをする人間だ。論理の上では。
そうじゃなくたって、僕は酷い人間だ。誰かが思うほど優しくはなく、賢くもない。
今日も一日何もしていないのに、疲れきってベッドに潜り込む。
この世界に、僕は本当に存在しているのだろうか。世界の片隅に捨て去られた記憶のデータが、継ぎ接ぎになって人の形をしているだけじゃないのか。
眠りに墜ちて行く意識の中で、微かに願いを掛ける。
せめて夢の中では心静かに暮らしてみたい。
彼女は麻のハンモックから転げ落ちて、天井のモビールが回るのを眺めていた。
銅で出来た薄っぺらい馬と馬車がお互いを追い掛け回し、カチャカチャとせわしない音を立てる。寝ぼけた頭を掻き乱すように。
鏡の前で長い黒髪を梳きながら考える。なんだかとてもひどい夢を見ていた気がする。内容はまるで思い出せないけれど。
彼女はふと思う。
——そういえば、わたしってこんな顔だったかしら?
小動物のように黒目がちの眼が、鏡の向こうから不思議そうに見返してくる。見慣れているはずの自分の顔なのに、時々、彼女には不自然に感じられるのだった。
馬鹿げたことではあるけれど、他の人はこんなことを考えたりはしないのだろうか。例えば自分の存在や生活が誰かの見ている夢で、本当の自分はどこかで眠っている全くの別人だとか。
よく見ようと鏡に顔を近づけた瞬間、栗色の髪と緑の瞳をした少女が、猫みたいな表情で笑った。彼女は短い悲鳴を上げる。取り落としたブラシを拾い上げて、もう一度鏡を覗き込めば、不安げな自分の顔が映っていた。
——今日のわたし、なんだかおかしいわ。
きっと変な目覚め方をしたからだ、彼女はそう思うことにした。
恋人に会えば、こんな気分も消えてなくなるに違いない。今日はデートだ。
丁寧にメイクをする。仕上げはベビーピンクのリップ。あどけない顔立ちがとびきり可愛く見える、お気に入りだ。下ろしたてのワンピースに袖を通して、アイロンで髪を巻く。香水をスカートの裾にひと吹き。
彼とは人目を避けるように、少し離れた町で会っていた。彼女は成人していたが、彼はまだ少年だったから。
きみは幼く見えるから、おれと歩いてたって高校生のカップルにしか見えないよ、と彼はいうけれど。
信号待ちで止まっていた、赤い車に目を奪われる。
あれは自分の車だ。特徴的なバンパーの傷、ナンバーだって覚えている。もうヴィンテージといってもいい古い車種で、燃費が悪く、メンテナンスにやたらと手がかかることも。
けれど、ここにいる彼女は車を運転できないし、その資格も持っていない。運転手を見ようとしたが、信号が変わって走り去ってしまった。
「どうかしたの?」
側を歩く恋人が、彼女の顔を覗き込んだ。今日はなんだか上の空じゃない、少し拗ねた口ぶりで問う。
「ごめんなさい。あなたのせいじゃないの」
変な話をするけれど、と彼女は前置く。
「わたし、時々不安になるの。この世界が本物じゃないような気がして」
「ふーん?」
「目が覚めたらわたしは全然別の誰かかもしれなくて。きっと、あなたのことも覚えてない」
愛しいはずの人が、どんな顔かわからないのは何故だろうか。輪郭も目も鼻も口も、目には映っているはずなのに、それを認識できなかった。
それに、今日、二人はどこで待ち合わせて、何をしたのか。彼女には思い出せなかった。
おそらくは何もなかったのだ、本当に。
「きみのいうこと、よくわからないけどさ」
恋人は彼女を抱き寄せる。布越しに伝わる湿ったぬくもり。まだ出来上がっていない、少年の細い骨格。
「おれはどこにも行かないし、きみを忘れたりもしないよ。大丈夫」
心地のいい言葉は、その時には真実であるが、次の瞬間に嘘になってしまう。彼女はそれを誰よりもよく知っていたが、何故知っているのかを知らなかった。
「嘘でしょ。……わたし、あなたの名前も知らないのに」
彼女の頭の隅で、誰かが囁く声がした。
「だって、夢だからさ」
眠りに落ちる瞬間、僕は楽しい夢を見たいと願う。美しい世界に連れ出して欲しいと思う。
だけど、僕の善意はこう考える。こんなに楽しい夢を見た僕が目を覚ました時、現実に打ちひしがれてしまうのではないか? だから僕は、朝が訪れると全ての楽しい思い出を手放してしまう。
そうして僕は夜毎悪夢に苛まれてばかりいるのだけれど、それが僕自身にとって最善の策だと僕は信じて疑わない。
僕が願ってやまないのは、現実のなかで僕が楽しく生きていくことに他ならないのだから。
僕は薄明かりの中で目を覚まし、相変わらずの寝覚めの悪さに落胆する。
それでもゆっくりと身体を起こして、現実世界に意識をインストールする。今日は昨日より少しはマシかもしれない、と思いながら。
Inspired by
ストレイテナー/『ライヴズ』
時点描 三次空地 @geniuswaltz
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