バビロン、天使の囁き

 僕は白い世界に現れた。

 肌の色がすっかり溶け込んで、自分の輪郭を失ったような気がする。

 小さな白い箱を抱えていた。中から泣き声が聞こえる。腹立ち紛れに壁をける振動が僕の胸に突き刺さる。助けて欲しいんだ。

 なんとかして開けようと思うけれど、箱は固くて蓋のような部分はない。拳で小突いてみる。天井へ向かって何か巨大なものがぶつかるような鈍い衝撃が走った。僕はしばらくじっと天井を見詰め、もう一度箱を叩く。今度は側面を平手で。不穏な振動と共に壁が軋む。外側へ向かって。

 そうか。僕がのだ。

 それがどういうことなのか僕が理解する必要はない。なぜなら僕がそう"感じた"瞬間に世界が作られているから。でも、僕には僕が感じることをコントロールすることはできない。それならいったい、誰がこの世界を操っているのか? ——そんなこと知らない。

「またこんな所に閉じこもってるの」

 振り向くと裸の女の子が立っていた。どこかで見たような。なんとなく懐かしいような。でもそれが何なのか僕にはわからない。

 彼女は僕の手を取って歩き出した。真っ黒な長い髪が白い世界に亀裂を走らせている。僕は彼女の髪を踏まないよう、そろりそろりとついていく。床は固くもなく柔らかくもない。

「俺は閉じこもってたわけじゃない」

「そうね。別の誰かがそう願っているだけだわ」

「誰が?」

「わたしよ」

「君が俺を閉じ込めたの」

「違うわ。あなたが出ていったから、そこに他の誰かが入ってきただけよ。でも、閉じこもっていたいのはわたし」

 ハスキーな吐息だけの笑い声。僕の大好きな女の子と同じ笑いかた。大人をバカにしたような仕種を窘めて、僕はいつも胸の奥にくすぐったさを感じてる。少しだけ泣きたいのを我慢しながら。

「わたしはわたし以外の何者にもなりたくないわ。でも——あなたはあなた自身になることすら嫌なのよ」

「俺は自分の正体がわからない」

「何だっていいじゃない」

「不安なんだ」

「じゃあ教えてあげる。とっても冷たい人だわ。笑ってたってつまらない。怒って見せても心の中は平静そのもの。あなたの『好き』ってどこまでが本当かしら。意味深に黙りこくって、相手が不安になるのまで計算のうちだわ。それを悟られたくなくて馬鹿なふりまでしてる」

 そうかもしれない。僕にはそういう所がある。意識しないと感情を動かせない。心で考える『僕』と口から出てくる『俺』だって何かずれてる。

 だって、僕は知ってしまっている。どういう風な表情で、どんな声色で、どんな言葉を使えば相手に強烈な印象を残せるか。心なしで満足させるなんて訳なかった。裏返せば傷つけることだって簡単だ。でもやらない。自分自身に責められることがいちばん恐ろしいことも知っているから。僕が優しくすればするほど相手は自分の冷たさに耐えられなくなる。

 それを楽しんでいなかったなんていったら、嘘だ。

「けれど、誰もあなたのことをそういう人間だと信じようとしない」

 いつも表面だけを取り繕って、感情まで罠に掛けている。だから僕のどうしようもない悪意になんか気がつかない。悲しげな表情の裏でほくそえんでいることも。優しい仮面を被って優しい人の優しい心を切り刻んでいたんだって、誰が見破れるのか。

「たったひとり、あの子を除いてね」

 仮面の下の顔を不躾に覗き込んできて素顔のほうが綺麗だなんて、怖くなるようなことを語る。いや、怖いことしかいわない。天使は真実しか口にしないから。逃げ出したくなるのは僕が汚れている証拠。

「生きている限り、純粋でいるなんて不可能なのよ」

「だから俺は死にたいんだ……」

 立ち止まった彼女は振り返って僕を見つめる。

「そんなこといわないで。——お願いだから」

 彼女の冷たい手が右の頬を撫でる。母親が幼い子供に触れるように。僕は途端に心許ない気持ちになる。

「どうしたらいい?」

「あなたの思うままに生きればいい」

「俺の頭は何も考えてない。感じるだけ」

 目覚めた時、僕はいま見聞きしたことを何も覚えてはいないだろう。感じるって、そういうことだ。それでもここにいる僕は僕といえるのだろうか。

 それとも僕が生きていると思っている瞬間こそ、この僕の見る夢なのか。

「どちらだって同じことよ。あちらが幻ではないとどうして言い切れるの?」

「だって、ここには現実味がない」

「あなたは夢ばかり見るから、夢が見られないのだわ」

 彼女は地面を強く蹴って飛び立った。僕の身体も引きずられるようにして宙に浮く。

「あなたがどこにいたって、わたしはここにいる」

 目の前に苔むした古煉瓦の壁が現れた。絡まった蔦が風に呼応してざわめいている。見上げても頂点が見えない、天を衝く姿はまるでバベルの塔。

 解体されて——同じだからバラバラになっても大丈夫——混乱——何かがわかりそうな気がする。思考がハイスピードで整理され、意味が目の裏にきらめく。昔読んだ本。誰かの言葉。いつか考えてたこと——視界が狭くなってくる。掌の感覚が薄れている。僕はを振り切って呟く。

「君は誰なの」

 黒いもやに侵食された世界の向こうで、赤い唇が動くのが見えた。


Inspired by

the pillows/バビロン 天使の詩

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