レッサーハムスターの憂鬱

 曇った窓の向こう、卵みたいに黄色い月が昇っている。ワイヤーに吊るされて。わたしはあれが紙でできているのを知っている。触ったことはないけれど。

 桟に手を掛けてわたしは風の音を聴く。この部屋はいつだって嵐の気配に満ちていた。今にも壊れそうな窓硝子の振動が好き。

 建物の周りに空以外は何もない。覗き込んでも濃度の高い闇が沈殿しているだけだった。きっと王子様の口笛も聞こえないだろう。もっとも、わたしを監禁している悪い魔女はいないし、わたしは王子様を必要としていないけれど。

 どんなに走った所でここからは逃れられない。ハムスターが回し車で走るように。しかしそんなことはどうでもいい。このケージはわたしを守るための仕組みだ。わたし自身がそう望んだ。どこにもでていきたくない、と。魔女がいるならそれはわたし。

 わたしは振り返る。月光に照らし出された何十もの本棚が、台形の影を規則正しく描いていた。書き物机に乗ったカンテラに火を入れてその間を歩く。ずらりと並んだ重厚な背表紙は何か大きな怪物の歯のように見えた。

 悪趣味、と他人はいう。

 かつてはわたしも誰かにこの部屋を明渡し、相手の気に入るように調度を変えてもみた。だがそれは想像以上の負担だった。いつしか相手のことすら受け入れられなくなってしまう。嫌いになったわけではなかったのだけれど、どの人も悲しみを深く刻んだ笑顔で去っていった。きっとわたしのことを恨んでいるだろう。仕方のないことだ。

 嫌われたくない気持ちが他者を遠ざけてしまうのであれば、いっそ好いてしまうのをやめてしまえばいい。そうは思うのにそれもできない。

 心と精神と肉体はまるでバラバラだ。心が死を望んだとしても、肉体は生きたいと願う。精神がまだ走りたいといっても、心が首を振る。

 わたしはわたし自身を扱いあぐねて、少しのあいだ床に倒れ伏していた。糸の切れた操り人形のように。

 わたしはわたしの中にわたしも知らない自分が隠れていることを知っている。放し飼いの自意識がわたしの表面を横切る時、人は底知れぬ恐怖を感じるようだ。やがてその不安が攻撃に転じていく。

 可哀相な人たち。

 秩序を持たないのは自らだと知らないのだ。大きな秩序さえあれば、個人に潜む矛盾など瑣末なことだ。

 わたしには自分自身を守る義務がある。罪悪感の理由は脆い精神を矢面に立たせることだ。彼らに対する引け目などはなかった。こんな頑なな態度が人を遠ざけてしまうのも知っている。

 寂しい、と呟けば許されることはわかっているのだ。本当は寂しい、だから"あなた"の力を借りたい——と。

 彼らは気付いていない。自分以外の人間を鏡にして自分の姿がみたいだけなのだと。わたしを通じて自分を愛したいだけなのだと。悪いことだとは思わない。自らを愛せない人間がどうして他人に愛されよう。

 しかし、傷ついた時のわたしが求めるのはわたしの内から湧いてくる力だった。誰かの優しい仕草も大切だけれど、包帯だってギプスだって治療の補助しかしてくれない。薬ですら。

 わたしはずっと世界と自分の間に修正しがたい歪みを見ていた。時折自らの視界に酔いそうになりながら、ふらふらと生きてきたのだ。このまま真っ直ぐ歩けない気がしていた。——彼女に会うまでは。

 彼女はわたしと同じ心の持ち主だ。わたしよりも完成していて、美しい。どんな穢れも寄せ付けない張り詰めた空気と、優しい言葉を持ち合わせた慈愛の天使。わたしの、わたしだけの。

 月が青く燃え始めた。床の上に格子柄の影が落ちている。わたしはカンテラを消し、床に丸まった。暖かな日差しを背中に感じながら、やがてわたしは消えていく。


Inspired by

the pillows/レッサーハムスターの憂鬱

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