第2章

第5話 波乱の船出

「ミコト……? ミコト‼」


「⁉ い、イヤぁぁぁッ‼」


「ミコト⁉」



 ユウトが声をかけると、女性が目を覚ましたとたん後ずさり、自分がいた肉柱の根元に背中をぶつけた。毛布を抱いて身を縮こませる。ひどく怯えている様子だ。


 被害者らが目を覚ました時に怖がらせないよう、ユウトたち兵士はゴーグルとマスクを外して顔をさらしていたが、まだ足りなかったらしい。ユウトはヘルメットも脱いだ。



「安心してミコト、ユウトだ。君の夫だよ」


「なにそれ、気持ち悪い! 誰か助けて‼」


「ッ‼」



 幼少期からの長い付きあい、泣かせたこともケンカしたことも多々あるが、これほど強い恐怖と嫌悪を向けられたのは初めてだった。


 胸が締めつけられる。2年前、ネフィリムに喰われるのを助けられなかったことで自分はミコトの信用を失ってしまったのか。



「(ユウト、替われ!)」



 耳元で囁いたエイトに突きとばされ、ユウトは床を転がった。エイトが女性の前に膝をつく。貴婦人にかしずく騎士のように。



「申しわけありません、レディ」


「えっ⁉ 凄いイケメン……!」


「我々は物々しい格好をしていますが、それは貴女がたを助けるためなのです。彼は貴女に死んだ妻の面影を見て動転しただけ、なにも怖がる必要はありません」


「なぁんだ。そうなんですか~」


「今、女性隊員に運ばせますね」


「はい……♡」



 自分を拒絶した彼女が、エイトにはうっとりとしている。ユウトは妻を奪われた気分だった。


 深淵の底をさまよってきて、光明を見つて手を伸ばしたとたん足下が抜けて、さらなる深みに落ちたようだ。


 駆けつけた女性隊員たちに彼女が運ばれるのを呆然と見送っていると、エイトが隣にやってきた。



「悪かった」


「ああ……」


「彼女を落ちつかせるのを優先したから。女性が裸で、武装した知らない男に迫られたら、ああもなる」


「知らない……?」


「俺とも初対面って反応だった。他人の空似か、本人だが記憶がないか、どちらかだろうな……」







 兵士たちは保護した人々をトラックに乗せ、車ごと近くの川岸でホバークラフトに乗り、ハドソン川を下って海に出て、ローワー湾で待っていた母艦に、その舷側に開いたハッチから入った。


 兵士たち──ユウト、エイト、そして死んだハヤトらを含む彼らは人類統合体の軍隊【人類統合軍】の軍人であり、人類統合軍籍のこの船の乗組員だった。そして、この船の名は──



【強襲揚陸艦ノアザーク】



 全長300m、全幅50m、ほぼ全面が飛行甲板になっている上甲板までの高さは30m。その甲板上に1ヶ所、艦尾にだけ船楼が突きでている。


 寸法や船楼の配置が強襲揚陸艦としては異例で、それは商用タンカーだったのを改装したため。


 〖ノアザーク〗とは英語で〖ノアの箱船〗を意味する〖Noah's Ark〗──ノアズ・アークを縮めて発音したもの。



 その箱船が嵐の中、東へと進んでゆく。



 この大西洋を越え、今はまだ安全なヨーロッパに奪還した人々を送るため。航海中、彼らの検査が艦の軍医によって行われ、それが終わるとユウトは軍医長のグレ マモルに医務室へと呼ばれた。


 戦闘中ではないのでハーネスではなく青い軍服を着て、腰のベルトに軍刀を差した格好で医務室に入ったユウトを、白衣の美女が出迎えた。ユウトは上官である彼女に敬礼した。



「ダイチ・ユウト大尉。参りました」


「いらっしゃい、ダイチ大尉」


「コグレ少佐、小官が呼ばれたわけは」


のことだけど。DNAがあなたの妻、ダイチ・ミコトさんと一致したわ。ミコトさんに一卵性多生児の姉妹はいないし、本人でしょう」


「本当に……」



 ネフィリムが生物を飲みこんだ場合、大抵はそのまま消化吸収してしまうが、稀に体内、そして運んだ先の培養槽で生かすことがある。あとで喰うために。


 その習性は最近、判明した。


 知った時、ユウトは『もしや』と考えた。ミコトもあの場では死なず保存されたかも知れないと。しかし、だとしても2年のあいだに喰われているに決まっていると、考えないようにした。


 安易な希望にすがるほうが、つらいから。


 ニューヨークの巣に大勢の人が囚われていることを人類統合軍の偵察部隊が見つけ、ノアザークに救出命令が下った時も、頭をよぎりはした。


 しかし2年も前に日本で呑まれたミコトが遠きアメリカの地で見つかるなどと期待はできなかった。だが、奇跡は起こった。ユウトの瞳から、とめどなく涙があふれた。



「良かった……!」


「でも、記憶を失ってる。他の人はそんなことないのに。囚われていた期間が他よりずっと長いからなのか、分からないけど」



 コグレ軍医長は気まずそうに告げた。


 ユウトは先にエイトから聞いていたこともあり、その点については心の準備ができていたので冷静さを保てた。



「具体的には、どのように」


「培養槽を出て目を覚ます以前のことを全く思いだせない。自分の名前も。日本語はしゃべれるし一般的な知識もあるから、出来事に関する〖エピソード記憶〗だけない状態よ」


「全生活史健忘、いわゆる記憶喪失ですね」


「ええ。ただしコロナ禍とか社会的な出来事は覚えている──2年前までの知識だけど。2年前、彼女になにが起こって、それから世界がどう変わってしまったかは、もう話したわ」


「小官との関係は」


「それも含めて、公的記録に載ってるプロフィールも話したわ。理解はしたけど、納得はしていない様子だったわね」


「無理もありません」



 今の真っさらな彼女から見れば、自分はいきなり裸の自分に迫ってきて夫を自称したキモイ他人でしかない。傷つくが、彼女はなにも悪くない。



「それで、記憶は戻るのですか」


「分からないわ。記憶喪失には確実な治療法がないのよ。思い出話をして記憶を刺激することや、催眠療法が有効とはされているけど。ずっと戻らない可能性もある」


「……」


「ごめんなさいね、脅かすようなこと言って。例としては自然と戻るほうが多いのよ。でも戻らないケースもあるから、それは伝えておかないと」


「分かりました」



 もちろん、思いだしてほしい。だが最悪、忘れられたままでも構わない。生きていてくれただけで、砂漠から砂一粒を見つけるような幸運だったのだから。


 失望への恐怖から、ユウトは多くを望めなくなっていた。

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