第9話 侵略されてました
シェルトが来て約1ヶ月のある晩、私は知ってしまった。
いつも通り夕飯を食べ終え、シェルトが屋根裏部屋に登っていくのを見届けてからシャワーを浴びた。
シャワーついでに下着を洗い干したら、いつもなら髪をかわかしてすぐに寝るのだけれど、その晩は急にホットミルクが飲みたくなった。
この程度でシェルトを呼び戻すのも申し訳ないので自分で作ることにしたのだが……
「あれ、これ飲んでも大丈夫かな?」
冷蔵庫のミルク瓶が二種類あって悩み、量が多く残っている方を選ぶ。気を取り直してコップを選ぼうとするけど…………
「ん? こんなカップあったっけ……使って良いかな」
食器棚はおしゃれな食器で埋まり、昔のカップが見つからない。仕方ないので使っても良さそうな安そうなカップを選んだ。次にミルクを温める鍋を探すのだけど……
「…………どれ?」
鍋を使おうと台所の下収納を開けたのだけれど、新品の鍋が重なりどれがミルクパンかもう分からない。
小さい鍋は4つあって、どれも素材が違うのだ。
シェルトがこだわって使い分けていて、私が間違って鍋を台無しにするかもしれない恐怖が手を止めさせた。
ジャックがそういうタイプで、テキトーに使ったマスターと喧嘩をしたことを思い出す。臨時休業までに及んだ修羅場だった……
私はとりあえず全て元の場所に戻し、唖然と台所を眺めた。
「私のアパート……だよね?」
シェルトが来て2週間ほど経った頃から鍋とか食器を買い足しているなぁとは思っていたけれど、総入れ換えされているのは想定外だった。それに見たこともない調味料のラインナップに包丁も6本ある。
にゃんこ亭もビックリの充実したプロのキッチンが完成していた。
気付いたときには既に遅し。屋根裏部屋の楽園に続き、私の
「ははは、寝ようかな」
私は考えることを止め、そのまま寝た。
✽ ✽ ✽
「もう寝れない……」
今日は休みでゆっくり寝ようと思っていたのに、いつもの時間に目を覚ましてしまった。
ぐぅーっ
私の胃袋は正直なもので、早く起きてしまったらいつものように空腹を訴えてくる。寝起きに漂う朝御飯の香りがないのが寂しい。
「何か自分で作ろうかな?」
と、自然と足は台所に向かい冷蔵庫を開けて思い出す。
ここは彼の聖域。
この聖域があるからこそ毎日美味しいご飯が食べられると思うと、やはり手が出せない。でもお腹は空いていて……
「ふぁ~あれ? おはようアメリー」
台所を睨んでいたら、聖域の持ち主シェルトが起きてきた。
ふわふわした髪の毛先を外にはねさせ、手で口元を隠しながら大きなあくびをする無防備な姿だ。その大型犬のような姿に親近感が湧き、ふわふわの髪に自然と手が伸びる。
「寝癖ついてるわ、ここ」
見た目の通りシェルトの髪はふわふわで、でも少し芯のある触り心地が本当にわんこのよう。
わしゃわしゃしたくなってたわ。
「はい、ここまでです」
撫でていた手を止められ、優しく下ろされる。彼の顔は少し朱がさし、少し恥ずかしそうだ。いつも鉄壁の微笑みばかり見ているから私としては新鮮だわ。
「ふふふ」
「――っ」
思わず笑いが溢れてしまうと、ついにシェルトは両手で顔を隠してしまった。
でも片目だけ指の隙間からこちらの様子を盗み見ようとしていて、バレバレなのがなお面白い。
「アメリーは何が楽しいんですか? そんなに寝癖変ですか?」
「うちのワンコは可愛いなって、ふふふ」
「……はぁ、可愛いのはアメリーの方ですよ? 素敵な前髪さん」
「へ?」
「お先に使いまーす」
私のおでこを指でトンとつつくと、彼は拗ねて先に洗面台に向かってしまった。
私は慌てて手鏡で前髪をチェックすると、真ん中の前髪のひと房だけ重力に逆らい、天に伸びるという芸術的な寝癖が存在をアピールしていた。
「何これ。シェルト! 早く交代して~」
「だーめーでーすー! 順番です!」
「シェルトさーん」
「あと少し待ってください。それにアメリーはどんな前髪でも可愛いから大丈夫ですよ……ぶふっ」
「面白がってるじゃないのよ!」
シェルトの吹き出すような笑いが聞こえ、前髪を押さえながら脱衣場の半開きの扉越しに彼を睨む。
そういえば昨日は現実逃避してしまい、髪を乾かすのを途中でやめて寝てしまっていたのだわ。それもこれもシェルトが台所を支配したせいで!
あぁ、でも美味しいご飯を得るための犠牲と考えたら仕方ない……いやいや、駄目だよね? うーん。
「朝から表情豊かですね。お次どうぞ」
くすくすと笑うシェルトの髪からふわふわの寝癖がなくなり、サラッと整えられていた。わんこ要素が薄れ少し残念な気分もするが、今は前髪!
タオルを抱えて洗面台のある脱衣場に飛び込んだ。
頑固な寝癖に勝利を納め、リビングに戻るとシェルトは台所に立っていた。真新しい鍋は火にかけられ、そのなかに白いボールが入れられるとジュワーと音を立てる。するとほんのり甘い香りが漂ってきた。
「ドーナツ?」
「いえいえ、ウインナーケーキです。レーベンスにおける昔ながらの子供のおやつです」
「そんなのがあるのね」
まだレーベンス在住歴2年の私は見知らぬおやつにワクワクしてしまう。
「魚肉ソーセージをドーナツ生地で包んで揚げたものです。ケチャップやマスタードも美味しいですが、子供にはシュガーが人気です」
「ソーセージにシュガー……意外すぎるわ」
ですよね~と話す彼の台所に立つ姿は非常に馴染んでいる。まるで何年も使っているような光景。おそるおそる疑問を投げかけてみる。
「ねぇ、台所なんだけど……私の物どこかしら?」
「あぁ、屋根裏部屋にきちんと収納してあります。使うものがあれば戻しますが……どうかしましたか?」
まずは捨てられていないことに安堵する。シェルトが引っ越してしまったら、ご飯が作れなくなる所だった。
いえ、こんなに調理器具が揃っていても昨日の私はミルク一杯も温められなかったんだけど……
「昨日ミルクを温めようとしたけど、どの鍋を使って良いか分からなくて……」
「なら俺を呼んで下さい。そのための俺なんですから。ミルクも種類があってどれが良いか分からなかったのでは?」
私は素直に頷いた。
「では、決まりですね。次からは遠慮なく俺を呼ぶこと。待ってますね」
「え、あ、うん……ありがとう」
ミルクについて頷いたつもりだったが、呼ぶことも決定してしまった。どの鍋を使えば良いか聞こうとも思ったが、彼の妙に嬉しそうな顔とブンブン振られる幻覚の尻尾を見て言葉を飲み込んだ。
「熱いのでやけどに気を付けてくださいね。とりあえず、伝統に倣ってシュガー味でどうぞ」
「ありがとう」
あら熱がとれた物を選び乗せた器とフォークを手渡してくれる。そして何も言わずとも昨夜飲めなかったホットミルクもテーブルに置かれた。
シェルトは日に日に私に甘くなっている気がする。無遠慮に私生活に踏み込まれているのに、許してしまう私も彼に甘くなっている自覚がある。今の口の中にあるウインナーケーキのようだ。
ほんのり塩味の効いたウィンナーに合わないはずの甘いシュガーが寄り添う、そんな不思議な感覚。
「ごちそうさま。想像と違って美味しかったわ。子供が好きなのも納得ね」
「お粗末様。また作りますね。ねぇアメリー、これから予定ありますか?」
「洗濯物くらいかしら」
「では下着以外は明日にでも僕が洗うので、俺と買い物に出掛けませんか?」
「そうね、良いわよ」
そうして軽い気持ちで了承したのだが、休日に滅多に私が洗濯をすることはなくなった 。次の休日を迎えたときには下着以外の洗濯が終わってしまっているのだ。そして、休日はシェルトと一緒に買い物にいくのが恒例になった。
一方のシェルトは仕事が増えてしまったのに、何故か彼からでる幸せオーラは増えている。
彼は仕事中毒者なのだろうか……相変わらず仕事を見つけて引っ越す気配はないけど。
それとも尽くしたい病なのかしら。
実は貴族のお嬢様の執事をやっていたのでは? と予想をつける。
だから年頃のレディである私に手をださず、料理も上手で、お茶の淹れかたも完璧で面倒見が良いのよ。そして尽くすことが生き甲斐。
けど没落して、屋敷から追い出されて、放浪して私の家にたどり着いた。このストーリーが正解な気がしてきたわ。
だとしたら執事として新しい就職先を探すのは相当難しい。でもその事実にホッとする自分に首を傾ける。
もしシェルトが新しい仕事を見つけて別な女の子に尽くしていたら? そう想像すると胃もたれしたように胸が重くなる。
何故だか分からない。きっと食べすぎたのだわ……と今はその気持ちを流すことにした。
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