第8話 侵略を進めます
sideシェルト
「シェルト、お手」
彼女の口からその言葉を聞いたとき、俺はひどく動揺した。本気で犬扱いされてショックを受けたのではない。
ずっと彼女に警戒心を持たれないために俺はアメリーに近づかないように、触れないように気を付けていた。
だから犬を口実にアメリーの手に触れられることが嬉しく、嬉しさのあまり頭の中で何度も確認してしまった。
だがこの歓喜の沈黙を彼女は違うように受け止めたようで、手を引こうとした。
「シェルト、今なら止めても」
「わん」
俺はすぐに手を重ねた。犬になりきることに迷いは生まれなかった。重ねた先の彼女の指は長く華奢で、仕事をしている少しカサついた手の平をしていた。頑張る人の美しい手だった。
「おかわり」
「わん」
おかわりまで許してくれるなんて何て良い日なのだろうか。アメリーに触れることができた両手を洗いたくない。
でも変態認定されるわけにはいかないから、今のうちに記憶に焼き付けようとするが、俺としたことがすぐに吹き飛んでしまった。
そのあと俺の言葉を阻止するために、すぐにアメリーが容赦なく俺の口に料理を突っ込んできたのだ。
彼女が一度口をつけた食べ物が、口をつけたフォークが唇に触れた……これはなんのご褒美なんだ?
これは飼い犬への餌付け行動?
だとしたら、本気で犬になりたくなってきた。それを伝えなければと、勿体ないがすぐに飲み込んで畳み掛けた。
そして俺は家の中では飼い犬として、外ではペットシッターとして、アメリーをご主人様にすることができた。
俺のご主人様……俺だけの
捨てられたくない。もうあんな気持ちは味わいたくない。そんな気持ちも積もっていく。
もっとアメリーを染めないといけない。彼女が美味しそうにお豆ハンバーグを頬張る姿を見ながら、次の作戦を練っていった。
✽ ✽ ✽
「アメリー、いってらっしゃい。お仕事頑張って下さいね」
「いってきます!シェルトは新居探し頑張るのよ」
「はーい」
金色に輝く揺れるポニーテールを見つめながら、仕事にいくアメリーを見送る。
もちろん新居探しなんていかず、屋根裏部屋から木材を降ろし、台所に立った。アメリーに美味しい料理を作るために増えた調理器具と調味料、乾燥食材のストックを全てテーブルの上に並べる。
「よし、やるか」
雑貨店で買ってきた木材で作った小さな棚を台所の下収納に置いた。湿気に耐えられるよう防水ニスを施した棚はピッタリ収まっている。奥から大きい鍋、小さい鍋を順番に並べて一番手前にはよく使うフライパンとボウルを並べる。
収納扉の内側には細いピンで包丁ホルダーを打ち付けていく。小さいピンを使用しているので退去時に抜けばバレないはずだ。
次にコンロ下を覗く。床に直接コンロ用の魔石のストック袋があるが、それでもスペースは余っている。すのこを敷いて魔石を置き、隣に棚を追加して芋などの常温野菜を置いた。最後に食器棚に段を増やして、食器を戻せば完成だ。
「これで効率よく美味しいものが作れるな!」
俺は完成した台所を満足げに眺めた。
実は台所にはアメリーが使っていた調理器具はひとつもなく、既に俺が揃えたものばかり。食器もアメリーのお気に入りであろうティーセットだけを残して、入れ換えてある。
調理器具はアメリーの物が少なすぎたので、思いきって全て自分仕様で揃えた。食器は足りてはいたが、アメリーとお揃いの皿で食べたくてペア食器を買ってしまった。
もちろん彼女が無意識に受け入れられるよう少しずつ入れ換え、まだ指摘されてない。順調に台所は征服したと言って良いだろう。
今までアメリーが使っていたものはどうするかって?
なんせアメリーが愛用していたものだ。クッション材で包んで、屋根裏部屋で大切に保管してある。
アメリーのテリトリーを自分色に染めていくのも楽しいが、自分の部屋にアメリーの物が増えるのもとても心が満たされるのだと最近気が付いた。
いけない志向に向かっている自覚はあるが、止める気にはなれない。
ゴーン、ゴーン
「もうお昼なのか……今日は外で食べようかな」
時計塔から正午のお知らせの鐘がなる。俺は買い物リストをポケットにいれて外へ出た。
そして気になる少しおしゃれなごはん屋にふらりと入り、メニューを頼む。
「クリームキッシュとパンのセットを」
「はーい。キッシュセット入りましたー!」
女性店員の元気な声が賑わう店内で響く。待っている間は途中で買ってきた新聞を読み始めるが1つの記事で目が止まる。
「レーベンス領主の現レボーク伯爵、嫡男に爵位譲渡は秋頃か……」
世代交代の影響で、この活気溢れる街が変わってしまわないことを祈りつつ新聞を折り畳みテーブルを空けると料理が置かれた。
「お待たせしました!」
「ありがとうございます」
「い、いえ!ごゆっくり」
忙しい中、熱々のうちに料理を運んでくれた店員に微笑んでお礼を言うと、顔を少し赤らませて厨房に入っていった。
お礼を言う客がそんなに珍しかったのだろうか……まぁいいか、と俺はあまり気に止めずすぐ料理に目を落とす。
円を描くパイにシチューのようなクリームが入っている。珍しくタルト生地が土台でないところが興味をそそる。
何より表面にはこんがり焼けたチーズとカラフルな野菜がトッピングされ、アメリーが好きそうなとても美味しそうな香りと見た目だ。自然と期待値があがる。
「いただきます」
ナイフで切ると、中からしっかりとしたホウレン草と黄色い卵生地が顔を見せる。すると表面のクリームがトロリと流れ卵生地を隠した。
更に一口大に切って口にいれるとパイ生地と卵生地に口の水分が奪われそうになるが、クリームが潤しバランスが取れている。
「美味しい……」
最近アメリーが喜ぶ料理の研究で昼は外で食べるようにしていたが、当たりかもしれない。小さい見た目の割には腹持ちも良さそうだが、もう少しだけコクが欲しいところだ。
卵生地にベーコン、クリームに黒胡椒を少しだけ加えてみよう。パイ生地はカロリーが高いから、パン生地にしよう。作るなら早めに帰って発酵させないと――と家で作る過程を頭の中で算段する。
ついでにアパートにある在庫を思い出しながら、買い物するものをメモ帳にリストアップしていく。
料理を食べ終えたら、遠回りしながら市場へと向かう。先程のおしゃれな飲食店ではなく、屋台や夜は居酒屋をやっているような定食屋が並ぶ通りに入っていった。少し歩くと鈴のように響く声が聞こえてくる。
「ありがとうございましたー」
「嬢ちゃん、また来るよ」
「はーい! お待ちしてまーす」
声が聞こえる方を見ると猫のシルエットがプリントされたエプロンを纏い、テラス席で片付けをしながら笑顔で中年のお客さんを見送るアメリーがいた。
あぁ、可愛い。天使がいる。
何度も脳内で連呼しながら、俺は彼女に見つからないよう物影から眺める。
彼女はトレイにたくさんの皿やコップを積み重ね、細い腕なのにひょいと重そうなそれを持ち上げて店内に運んでいった。額に少しだけ汗を浮かべていたが、溌剌とした様子で働いていた姿にきゅんとくる。
か弱く可憐な見た目だと言うのに、意外と力持ちでよく働く女の子だ。そのギャップがまた良い。
「頑張ってアメリー」
窓から見えるアメリーに呟くように声援を送り、断腸の思いでその場を立ち去る。
本当はもっと見ていたい。いや、ずぅぅぅぅぅーっと見ていたいが、頑張って働いて疲れたアメリーを癒すためにも、美味しい料理を作って俺は待たなければいけない。
さぁ今日はどんな顔で食べてくれるだろうか。また唇の角にクリームをつけたまま食べてくれないかな? そうしたら次こそ俺が拭いてあげたい。
今夜のご主人様はどれだけ俺を満たしてくれるだろうか。
あ、そろそろ紅茶のブレンドを変えてみようか。アメリーは台所の変化と違って気が付くかな?
そうやって思考をアメリーのことでいっぱいにしながら、今日もごはんを作っていく。
「ただいまー!わぁ良い香り」
「おかえりなさい、アメリー。今日は野菜たっぷりのクリームキッシュですよ」
「美味しそうね! 楽しみだわ」
帰ってきたアメリーにメニューを伝えただけなのに、彼女は頬を緩ませ満面の笑みを浮かべた。
本当にアメリーの笑顔は魔法のようで……今夜も幸せそうに食べる彼女の笑顔に俺は救われるのだ。
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