第十回 「天意、心のままに」




 薄暗い宿屋の食堂に、水音だけが響いていた。


 深夜のことで、本当なら痛いほどの静けさに包まれているはずの場である。


 それが、今はひとりの少女によって荒らされている。


 音の主を遠巻きに見ながら、ミドラとイリオラはものも言えず立ち尽くしていた。


 気を、静めようとしている。


 何度も、桶に溜まった冷水で顔をぬぐい、濡れた紫髪から雫をしたたらせ、それでもまたわめきたくなりそうになって、抑え付けるように水をすくう。


 後ろの二人に、早く何かを言わなければ、とは思っていた。


 ただ、今の自分が口を開けば、感情のままに要らぬことまで言ってしまいそうだった。




「……見苦しいところを」




 しばらく経ってから、上衣の袖で雑に顔を拭って、クロエは振り向いた。


 気を遣って声を掛けないでくれていた二人に、近くの椅子を勧められる。


 どこから持ち出したのか、一度奥に消えたミドラが、両手に透き通ったびんを携えて戻ってきた。


 長卓に並べられた数本の内、ツィトの果実酒を見つけて、クロエはそれを手に取った。




「良いものを選んだな。おっと、王国産じゃないのも高得点だ。あたしも、昔はそいつをよく飲んだ」


「あなたのようなが、弱い酒を飲んでいるのは、何というか――想像できませんね」


「イリオラ、これはどうだ? 地竜の血酒だと。色はどす黒くて、何か、どろどろしてる。——お前にぴったり」


「それじゃあ、とびきり上物ですね」




 平素と変わらないやり取りをする二人をありがたく思いながら、クロエは杯をあおった。


 苦味が、口内に広がる。


 渇きを覚えて、クロエは無言で杯を重ねた。


 あっという間に、一本が空になる。




「——出発までは、自由行動でしたよね」




 二本目の中身が半ばになった頃、クロエはぼそりと呟いた。




「おいおい、本気か」




 返事を寄越したミドラは、クロエが何を言うか、とっくに分かっていた風だった。


 イリオラも、黙ってクロエを見つめている。




「わたしには、どうしてもあの二人をあのままにしておけません」


「どうにかしてやりたいのは、あたしも同じさ。だがね、あんなに腕の立つ連中が、揃ってよそ者に救いを乞わなきゃいかんほどの相手だぞ。この前の馬賊とは、訳が違う」


「すべては、魔術師の存在によるものです。いくら手練れの武芸者でも、数を揃えた魔術師の段列には苦戦して当然です。まして、守城ならば」


「そうかも知れんがね。相手は、魔術師だけじゃない。その周りに、どれだけ賊徒が取り巻いてるのか分からんぞ」


「大軍、と言ってましたが」


「ひとつの集落を落とそうというほどの数です。まず、百人は下らないでしょう」




 イリオラが、低い声で言った。


 指摘されるまでもなく、無茶なことを考えている。


 それは、分かっていた。


 だが、どれだけ理を説かれても、考え直そうという気にはならないのだ。


 焦っている。


 何故かは、考えたくなかった。




「多勢を恐れて、見捨てるような真似はしたくありません」


「それで、あなたが死んでしまってはどうしようもない」




 イリオラの眼に、子供をたしなめるような色はなかった。


 できることなら、イリオラも、ミドラだって、あの二人のために動きたいのだ。


 それ以上に、クロエの身を案じてくれている。


 ありがたいが、どうしても譲れないところだった。






「——ここで往かなければ、クロエ・ルルーは死にます。戦わずして、大切なものを失ってしまう。それは、今のわたしにとってどんなむごい死よりもえがたい苦痛です」






 居住まいを正して、クロエは二人を見据えた。


 重なるように、影が自分の傍に居る。


 自分は、それを振り払いたいだけなのかもしれない。


 あるいは、ハルヴァたちほどに、誰かを守ろうと懸命になれる姿をうらやんでいるのか。


 今更なのだ、とクロエは心中でうなった。




「大切なもの、だって? 勘違いするなよ、クロエ。いくら連中に同情したって、あたしらはどこまでいっても部外者だ。それが、何を失うってのさ?」




 ミドラが、僅かに身を乗り出す。


 試されているのだ、と何となく分かった。


 返答如何では、どうあっても往かせないつもりだろう。


 汗が、胸元を伝っていく。






「——すべて、です」



「どういう意味だ?」






 言ってから、に落ちるものを感じている自分に気付いた。


 酒杯に映る自分の顔を見遣って、クロエは胸を張った。




「わたしが、こうして生きながらえている意味。わたしの、幼い頃からの夢。わたしが、強くなろうと決めた誓い。クロエ・ルルーを、そうたらしめていることのすべてが、何の価値もないものになってしまう。だから、わたしは往かなければならない」



「けど、往ったところで――」



「わたしひとりの力で、賊徒を打ち払えるとは言いません。ハルヴァさんたちと協同して勝機を探ったとしても、かなわないかもしれない。大軍の前では、わたしはたったひとりの魔術師に過ぎません。それでも、わたしは戦いたい。今度こそ、戦いたいんです。自分のやりたいように、この身と命を懸けたい。相手が、どれだけ大勢であっても。誰にも、わたしの心を好きにはさせない」




 杯を引っ掴んで、クロエは勢いよく呷った。


 そうだ。


 無理も道理も知ったことか。



 ここに居るのは、ただひとり、魔術師クロエ・ルルーなのだ。



 抗いがたいものが、自分を呼んでいる。



 それこそを、天命と人は言うのではないか。




「——ははァ、清々しいまでにわがままだ」




 ややあって、ミドラが笑みを浮かべた。



「自分じゃ、まだ若い方だと思ってたんだがね。どうにも、歳を取ると変に慎重になっちまっていけない。てめえが、何者かも忘れるところだった。いや、そうじゃなくちゃね」




 くつくつと笑いながら、ミドラは杯を干して、口元を拭った。


 それから、たん、と酒杯を長卓に置いて、クロエと真っ向に眼を合わせ、右手を胸に当てる。




「いいさ。このミドラ・ハリアスと、間抜けな仲間たちも連れて行きな」


「無茶をしないように引き止めてみせる、と息巻いてたのは何だったんですか? 筆頭」


「仕方ないだろうよ。――放っときゃ、自分ひとりでも斬り込みに行っちまう、ってつらしてやがるんだから」




 半眼になったイリオラに、ミドラが肩をすくめる。


 呆れた、という表情を浮かべているが、イリオラもこれ以上何か言うつもりはなさそうだった。


 付いて来てくれなくてもいい、と言い掛けて、クロエは思い止まった。


 つい先ほども、それでさとされたばかりであるし、正直、勝手に死ね、と言われなかったことへの安堵もあった。


 自分を信じて見捨てないでいてくれるミドラたちに応えるためにも、彼女たちの傍で、誰ひとり欠けさせることなく戦う。


 そして、ハルヴァたちと、その集落を救うために戦う。


 クロエは、そう決めた。


 どちらも、守るための戦いなのだ。


 自分が、守り切ってみせる。


 そのための力を、養ってきた。




「……自惚うぬぼれてるんでしょうか、わたしは」




 空になった酒瓶を見つめながら、ふと、クロエは問いとも独白ともつかぬことを漏らしていた。




「自惚れた連中ばかりだよ、冒険者なんざ」




 酒を注ぎながら、ミドラが言った。




「理屈に合わんことも、やりたかったら平然とやる。どいつも、自分の中にてめえの道理を持ってやがって、そいつが、世界で一等大事だと本気で思ってるからだ。真面目にお堅く、利口に生きようってんなら、そもそもこんな稼業は選ばないさ。……だから、往々にしてあっさり、馬鹿みたいにおっ死んじまうってわけだがね」


「説得力があります」


「どういう意味だ、イリオラ? この通り、五体満足だぞ」


「よく言う。私があなたの無茶をかばうのに、どれだけ苦心しているか。私が居なければ、五回は死んでます」


「あたしは、十回はお前を助けたさ。そいつでだな」




 元々、我の強い者が冒険者に向いているとは聞く。


 自分の心の望むまま、やりたいようにふるまって、時には傍目からは賊とほとんど区別のつかない者も当然のように出る。


 考えるべきは、ただ自分の信念に合っているかどうか。


 それで、己の限界を超えた時に、死ぬ。


 実に明快で好ましい生き方だ、とクロエは思った。




「とまァ、無茶も上等の生き方だ。特に若い内はな。クロエ、お前のことだ。……そんで、そんな奴らが早死にしないようにしてやるのが、あたしらの役割さ。——クロエ、お前のケツは、あたしらが持ってやる」


「……はい! 存分に、拭ってください」


「冒険者とはいえ、年頃の娘としてはぎりぎり失格の発言ですね」




 拱手の礼を取って、クロエはうなづいた。


 影は、いつの間にか姿を消している。


 ミドラの持ってきた酒瓶がすべて空になってから、クロエは立ち上がった。


 戻ってきてから、それほど時間が経っているわけではない。


 だが、ずいぶんと長い間、話し込んでいた気がする。


 夜の空気が、そう思わせているのか。


 裏庭に通じる扉を開ける。


 最後に振り返って見た時から一歩と動いていないハルヴァたちの顔が、提灯もないのにぼんやりと見える。


 遠くの空が、もう明るみ始めていた。


 クロエの姿を認めて、ハルヴァが居住まいを正す。


 その傍まで歩みを進めて、クロエは足を止めた。






「——賊を、討ちに往きましょう」






 見上げてくるハルヴァに、クロエはそれだけを言った。


 それが、彼女の何より欲している言葉だと思ったのだ。




「クロエ・ルルー殿ッ——————‼」




 気早きばやにも感涙をにじませるハルヴァと、歓声を上げたガトラシャに、クロエも叫びたい気分に駆られた。


 天命を知る、とはこういう心地なのか。


 剣を抜けば、夜明けの空までもひと振りに両断してしまえそうだった。











 完全に日が昇ってから、ミドラが仲間を全員集めた。


 はじめはハルヴァたちの姿に驚いていた者も、クロエやミドラが丁寧に説明すると、乗り気かそうじゃないかは別として、概ね納得してくれた。


 ルルディアのように、義憤を隠そうともしない者も居る。


 やはり、ミドラの仲間だけあって、人の良い者ばかりなのだ。




「単純というか、何も考えてないだけだと思いますが」




 イリオラの声は、聞こえなかったことにした。




「よし。それじゃ、全員支度したくに掛かれ。マルルモの旦那に気付かれる前にこの町をつぞ」


「え? 何も言わずに行くんですか?」




 心持ち声をひそめて言ったミドラに、クロエは思わず聞き返した。


 それは、さすがに心配されるのではないだろうか。




「馬鹿クロエ。あの頑固爺の生業なりわいが何か忘れたのか?」


「商人、です」


「そう。私たち冒険者とは、考え方が違う。商人には、利の道というものがあるのです」




 傍に立っていたイリオラが、したり顔で引き継いだ。




「利、ですか?」


「商人ってのは、まず情なんぞに左右されない合理のかたまりみたいな生き物だ。何をするにも、てめえの損得が唯一の価値観。それ以外は、まるで眼中にないのさ。まァ、旦那は多少まともな部類だが、それにしたって、だ。雇った護衛が揃いも揃って関係のない揉め事に首突っ込もうとしてんのを、笑顔で見送るような男じゃないだろうよ」




「——よく分かっておるではないか」




 いきなり、背後から声が掛かった。


 宿に背を向ける形で立っていた一同が、一斉に振り返る。




「げえっ⁉ 旦那……‼」


「朝も早くから、雁首揃えて悪だくみか。精が出るな、ハリアスよ」




 裏口のところに、マルルモが従者と立っていた。




「くそっ、抜かった。考えてみりゃ、じじいが無駄に早起きなのは当然か」


「ふん。若い娘が夜更かしをするのもな」




 開き直って悪態をつくミドラに返しつつ、マルルモがハルヴァたちに一べつをくれる。




「まァ、聞いてたんなら話が早い。なに、どうせあと数日はこの町に留まるんだろう? その間に、野暮用を済ませてくるだけさ」


「それで、お前さんたちが一人も帰って来なかったら?」


「へえ、心配してくれてんのかい?」


「馬鹿を言うな。無駄金払いを恐れておるのだ」


「がめついな。あたしらだって、むざむざ死にに行くつもりはない」


「つもりはなくとも、死ぬ時はあっけなく死ぬものだ」


「あー、よォく心得てるよ。だがね、あたしも、クロエも、行くと言った。もう言っちまったんだ。あたしらの稼業じゃ、どんなことであれ一度吐いたもんを呑み込むのはそう簡単じゃない」


「保護者役もまともにできぬくせに、言い様だけは大層ではないか」


「いいや、戦場までひっ付いてくんだ。むしろ、過保護と言ってもらってもいいぐらいだと思うがね」




 クロエは、ミドラの傍で、じっとマルルモの顔を見ていた。


 しわの深い、険しい表情をしている。


 白くなった眉やひげが、一層頑固さを際立たせていた。


 だがそれは、いつものことである。


 そう、いつも通りなのだ。




「マルルモさん。何をお考えなんです?」




 横から声を上げたクロエを、一同が見遣る。


 止めに来たのではない、とクロエは思っていた。


 嫌味を言うことも多く、極めて頑固ではあるが、マルルモは決して意地悪ではない。


 拾われたクロエが言うのだから、それは間違いない。


 物言いは偏屈そのものだが、その実、意味のないことはあまりしない男である。


 そして、遠慮などはなから頭にもない言動が目立つだけに、決定的な一言さえ出さずにミドラを舌先で弄んでいるかのような態度は、らしいようでらしくない。






「分かり切ったことを聞くでない。儂は、この無謀に手足が生えたような考えなしの猪女をいさめてやっておるのだ。一応、雇用主だからな」


「そうだぞ、クロエ。この若い女に嫌味を言うのだけが楽しみの老い先短い変態じじいが、考えなんて上等なもん持ってるわけがないだろうさ」


「やっぱり、お前さんだけは帰って来なくてもよいぞ」


「いやいや、旦那も来ればいいんだ。そのまんま。丸腰で」




「あの老人も、戦えるのですか?」


「子供のけんかですよ」




 真面目な顔でハルヴァに尋ねられ、イリオラが肩を竦めている。


 いつものことだが、今は状況が状況だ。


 両腕を広げて、クロエは睨み合っている二人の間に割って入った。




「マルルモさん」




 あごひげでながら、マルルモがこちらに視線を寄越す。




「おっしゃる通り、今のままじゃ無謀もいいところです。ですが、あなたには考えがある」


「ほォ。何を根拠に」


「まだ一度も、行くな、とは言われてません」




 呆気に取られるミドラたちに構わず、クロエはマルルモの眼を見つめた。


 策のひとつでも、この状況では千金の価値を持つ。


 ハルヴァたちの立場と自分たちの戦力を思えば、できる限りの手は打っておくべきだ。


 問題は、クロエにしても、また他の者にしても、武辺一辺倒なばかりで実際に賊と戦うこと以外の策については、であるということに尽きた。


 ここは、今こそ老巧の発揮されるところだろう。


 というか、この偏屈な老漢にしても、それを言いに出てきた感がある。


 黙って見つめ返していたマルルモが、やがて面白くなさそうに手を打った。




「カイウス。今すぐ、町へ出て『クロエ・ルルーが広場で何か始めるらしい』と触れて回れ」




 後ろに控えていた従者が、頷いて駆け去っていく。




「お前さんらも、さっさとそのだらしない身なりを整えよ。特にクロエ、剣を佩くのを忘れるな」


「何をする気です?」


「商人には、商人なりのやり方というものがあるのだ。それを、ひとつ見せてやろう」




 首を傾げる一同に、マルルモはしたり顔でてのひらを突き出し開いて見せた。




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