第二回 「王都出奔」




 日が暮れて、一階の酒場は受験者たちで活気に満ちていた。


 卓の有る無しに関係なく、あちこちで体格の良い男たちが杯を片手に騒がしくしている。


 クロエは、端の方の席でツィトの果実酒をちびちびと飲みつつ、どうにも場違いな奴、という視線を無視するのに努めていた。


 ざっと、二、三十人といったところか。


 見渡す限り、壮年の男ばかりである。若者は数人だけで、やはりみな男だ。


 指定の宿泊所は他にもいくつかあるらしいので、もしかしたらそちらに希望はあるかもしれないが、とにかくこの空間に限っては、クロエの孤独さは確固たるものだった。




「おい、聞いたか? ペリエナウのダンタンも来てるらしいぜ。もうひとつ行った先の宿所で見た奴が居るってよ」


「不死身のダンタンか⁉ 心臓を魔術で撃ち抜かれても死ななかったっていう⁉」


「馬鹿な、奴は魔獣一万頭と取っ組み合いになって死んだといううわさだったぞ⁉」


「そりゃデマだ! 本当は役人を殺っちまって身を隠してるそうだ!」




 何者なんだダンタン。


 門兵の忠告通り、男たちは控えめに言っても柄のよろしくない連中だった。


 酒の入っていることもあって、声は大きいし、料理はこぼすし、喧嘩はするし、自分が店主だったらみせしめに一人くらい斬っていたかもしれない。


 忙しなく動き回っているリディアを見遣って、クロエは同情の念を禁じ得なかった。


 当の本人は、酔っ払いの相手など慣れたものなのか、どうということもなくさばいている。




「——しっかし、何だって急に勇者様の出征なんて言い出したんだろうな」


「それよ。俺も考えてたんだが、どうにも分からん。どこかに攻められてるわけでもなし」


「前に国を挙げて勇者一行が招集されたのは、俺らのじいさんの世代の話だしな」


「理由などどうでもいい! 金、金じゃあー! どいつもこいつ、狙っておるのはそれだけだろうがー!」




 次々とお題が変わる男たちの話にも、時々はクロエの興味をくものがある。


 それらに自分なりの考えを巡らせていると、退屈とは無縁で居られた。


 酒も、料理も尽きることなく出てくる。


 何をどれだけ飲み食いしても、クロエのふところはまったく痛まない。


 すべて、国が代金を払ってくれるというのだから太っ腹というしかなかった。


 宿代も同様である。




「おい、誰か来やがったぜ」




 肉料理を切り分けていたクロエの傍で、つと声が上がった。


 入口を見遣れば、なるほど確かに若い男が数人、足音も荒く入ってくるところだった。


 同時に、クロエは違和感を覚えた。


 新顔の男たちは、揃いの長剣を腰にいて、華美な意匠の衣装に身を包んでいる。


 どよめきにも似たものが、室内に伝播していった。




「どこの者だ、ありゃァ」




 にわかに身構える辺りの男たちとは、雰囲気からしてまるで違った。


 王都で、堂々と佩剣を許されている者など、そう多くはない。


 それに、気位の高そうな顔つきが、特徴的な男たちである。




「我々は、クラルヴァイン家の御当主様に仕える者である」




 中央にまで足を進めて、先頭の二人——うり二つの顔から、おそらく双子なのだろう——が、周囲を見回しながら言った。




「我々も、此度の出征に参加する。国王陛下よりの募兵に応じ、こうして王都に集ってくれた諸君らの忠心に、感謝を示したい」


「忠心と来たぞ。堪んねェな」


「国王大好き」




 傍らの男たちの軽口を聞きながら、クロエは手元の肉を一切れ口に含む。


 詰まるところ、勇者の旗本を務める貴族の子息が、集まった人材を下見がてらに慰問に来た、ということだ。


 場の反応は、真っ二つに分かれた。


 一方は、わざわざ足を運んできた貴族たちの真意をいぶかしんで、遠巻きに様子を見る者。


 これには、荒くれ者特有の貴族嫌いも含まれているはずだ。


 もう一方は、相手が勇者と縁のある貴族と分かって、歓迎の意を示しつつ自分を売り込み始める者。


 勇者本人ならともかく、その旗本の貴族におもねったところで、どうにかなるというものではないと思うが――。


 いや、どこの世界にも、ああいう手合いは居る。


 クロエは、そうではないというだけだ。




「おい見ろ。店主の親父が慌ててお出ましだ」


「そりゃそうだろ。貴族サマがこんなとこに来たことあるかよ」




 相変わらず軽口を叩きながら酒を飲んでいる二人が、奥を見遣った。


 リディアを伴った中年の男が、両手を広げながら進み出て、卓に着いた貴族たちに挨拶を述べた。


 せた小男で、脚を組んだ貴族たちに何度も頭を下げている。


 直後、傍らに控えていたリディアをわざとらしくしかり付け、酒と料理を持ってくるように言い付けた。




「看板娘ってのも、かわいそうなもんだ」


「俺ならグレてる」


「お前は、まっとうに育ってよかったな」


「あァ、みんな俺を見習えばいいんだ」




 リディアが理不尽に怒鳴られているのが面白くなくて、クロエは新しく注いだ果実酒をぐいとあおった。


 クロエは、王都の南東、ブカラエ山脈を越えた先に位置する田舎町・リットメウの出身である。


 更にいえば、その郊外の丘陵地に建てられた孤児院で暮らしていた。


 長年戦乱もなく穏やかな土地だが、国内に網の目のように整備されている主要な街道からも遠く離れ、行商の交易路からも外れた場所。


 当然、軍事上の要衝というわけでもなく、駐屯する騎士も、ほとんど平民と変わらないほどに没落した貴族か、左遷された者、あるいはそれこそ平民出身の民兵部隊長が居るだけだ。


 その前に住んでいたところでは、影も形もなかった。


 だから、圧倒的な権勢を誇る貴族というものに、実感が湧かない。




「このまま、楽しく酒を飲んだだけでお開きになるといいな。お互いに」


「そんな貴族は居ない。何か狙いがあるはずだ」


「貴族サマが何をご所望だって? ここには間抜け面のゴロツキか、底抜けの馬鹿か、どーしようもねェくず野郎しか居ねェぞ」


「そうでもない」




 左手に腰掛けている男の視線を、もう一人が追って、クロエも僅かに遅れてその先を見遣る。


 両手に料理と木杯を携えたリディアが、厨房と貴族たちの卓を行ったり来たりしていた。




「彼女が?」


「俺ならそうするってだけだ。少し若いが、別嬪べっぴんで――尻の形も良さそうだ」


「あんたの好みが通用するかよ。たかが近所で知られた看板娘だ」


「まァ見てろ」




 しばらく、三人で様子を見ていた。


 貴族たちは、出された料理にはろくに手を付けなかったが、酒だけはそれなりに飲んでいた。


 給仕も掛かりきりになってしまって、クロエたちはすっかり空になった杯を持て余している。


 それでも、三人とも動かなかった。


 リディアの往復が五回を数えた頃、いきなり悲鳴が上がった。




「おっと、これはいけない」


「娘がっ、この方をどなたと心得ている⁉ 自分が何をしたか分かっているのか⁉」


「ご、ごめんなさい! 今、誰かに足を掛けられて――」


「無礼者が! 口答えを!」




 床に倒れ込んだリディアに、双子が声を荒げ、手を振り上げている。


 卓の中央、明らかに一人だけ格上な雰囲気をまとっている男の腰に、リディアが運んでいた杯を傾けたらしい。


 あまりにも、露骨だった。




「ほら見ろ。やっぱりやった」


「くそっ、こんなのありかよ」


「やり慣れてる感じだった。ご立派な趣味をお持ちなんだろうさ」




 二人が肩をすくめた。


 男の言を信じるならば、あの貴族たち――というより、あの中央の貴族は、初めからリディアに難癖を付けるために酒場を訪れてきたということになる。


 どうして、わざわざ部下を引き連れてまでそんなことを、という疑念が湧いて出た。


 眼の前の出来事が腹立たしくも、クロエにはとっさにそれが分からない。


 手前の二人は見当が付いているらしく、束の間、クロエは訳を尋ねようかと迷ったが、次の貴族たちの挙動で大半は腑に落ちた。




「お前ら、そう事を荒立てるな。お嬢さんだってわざとじゃあない。そうだろう?」


「しかし……!」


「この程度は、責めるほどの無礼じゃない。誰にだって間違いはある。……とはいえ、これでは屋敷まで戻れない。そこで、だ。お嬢さん――君が、いてくれ」




 中央の貴族が、開けっ広げに股を開いた。




「は、はい。すぐに清潔な布を――」


「そうじゃない。もう一度言うぞ。




 さっ、とリディアの顔から色が抜けて固まった。


 リディアは、未だ床に膝をついたまま、貴族を見上げている。


 何を示唆しているのか、そういった物事にうといクロエにも、さすがに理解できた。


 瞬間、総身から怒気が噴き出した。


 たとえ貴族とて、これほどの無道が通せるものか。


 あの親切で優しいリディアが、これほどの屈辱を受けねばならない道理がどこにある。


 怒りのままに飛び出そうとするよりも早く、リディアたちの周囲で歓声が上がった。


 貴族たちに取り入っていたゴロツキたちが、はやし立てるように指笛を鳴らし、下卑た笑い声を響かせる。


 それを、店主も苦笑いで促しているばかりか、貴族様の寛大さに感謝します、とやたらに腰を折る始末。


 店内が、異様な空気に包まれていた。


 腹の底で、気持ちの悪いものがとぐろを巻いている。


 ひたすらに、熱かった。


 なのに、手足は血の失せたように冷え切っている。


 気付けば、拳を握り込んでいた。


 やがて、囃し立てにされて、リディアが緩慢に動きを見せた。






「——『ここは、家畜小屋のような臭いで満ちている‼』」






 狂気じみた掛け声の合唱を引き裂いて、はげしく、よく通った一声が投げ掛けられた。


 店中の者が、その出所を求めて首を巡らせる。


 すぐに、数十の視線が一点に集まった。




「誰だ⁉ 今言ったのは⁉」


「お前、言ったのか?」


「いいや、俺じゃない。あんたか?」


「俺でもない」




 手前の二人が、とぼけたふりをしてから振り返る。




「小娘。下らんことをほざいたのはお前か」




 立ち上がったクロエが、そこに居た。


 貴族の問い掛けに答えないまま、正面へ歩き出す。




「おい、嬢ちゃん。やめとけ」


「面倒なことになる。気持ちは分かるが落ち着け」




 後ろで、二人が立ち上がる気配がした。


 クロエが口にしたのは、王国では大衆劇や吟遊詩人のために人口に膾炙かいしゃしている成句で、劇中では主に貴族の子息などがすわ決闘をしようという場面でよく発せられるものだった。


 実際に王都で行われていた慣習を模倣したもので、通例この言葉を投げ掛けられた相手は、立ち上がって酒などの杯を手に取り、発言者にその中身をき散らすことで、決闘の承諾とするのだ。


 双方の屈辱をすすぐ手段として、用いられるのが決闘である。


 詰まるところ、当世においては半ば定型化している侮蔑と挑発の合図であった。




「小娘。名を名乗れ」


「何の罪もない者をおとしめて、弱者をなぶるのが貴族の在り方か」


「名を、名乗れ」


「生まれ持った地位におごり、力にものを言わせて、それを、不義無道というのではないのか」


「名乗るんだ、今すぐ!」


して、勇者に関わろうという者が――‼」




 気を吐いた。


 最後の一歩を踏み込んだクロエと、貴族の男が向かい合う。


 こうして並ぶと、クロエが小柄だということを差し引いても、男は長身の偉丈夫だった。


 人格は、推して知るべし、といった感じだが。




「俺は、身の程をわきまえぬ女と、俺に従わぬ女、それと小生意気な無礼者には心底腹が立つ」




 にらみ上げたクロエの頭上で、酒がぶち撒けられた。


 その後、勢いよく叩き付けられる空の杯を打ち払ったクロエの腕を、男が捕まえる。




「それも、こんな小娘が!」


「わたしは、魔術師、クロエ・ルルー」


「平民が、俺をののしったのだな」


「二名持ちは、普通平民だ。そっちは、名乗る名もないのか」


「ほざくな。俺は、アーノルド・ライナルツ・クラルヴァイン。五大貴族筆頭の、クラルヴァイン家次期当主だ」


「御大層な名に負けてる。まるでしつけのなってない坊やだ」




 掴まれた右腕を振り払おうとしたところで、アーノルドが握り込む力を強めた。


 魔術師と名乗ってはいるが、剣術の鍛錬も積んできたクロエの膂力りょりょくであれば、問題なく振り解けるはずだった。


 然るに、未だ自由になっていない自分の右腕は、あることを物語っている。




「どうした、お嬢さん?」


「王都の中で、魔術を使うのは、法に反しているのでは」




 魔力による、身体強化の魔術。


 騎士や剣士なら、当然修めておくべきものだ。


 だが、国の中枢たる王都では、騒乱防止を目的として、魔術の類一切を行使禁止する旨が言い渡されている。


 入城の際に、佩剣禁止と共に注意されることで、クロエもそれを聞いてから一度も魔術を使っていない。




「平民が、俺に国法を説くか。高貴なるこの俺に」


「法の下に、貴族も平民もない。罪人か、そうでない者が居るだけだ」


「いーや、違う。国を、俺たちを、貴族を守るために法がある。そういう風に、俺たちが作ったんだからな。有利なように。お前らの野蛮な先祖があんまり騒いで面倒だから、平等だか自由だかのお題目が記してある。ただの建前、それだけだ。それだけで、お前らみたいな馬鹿は納得して黙る。そこらを見回してみろ。どこに、平等なんてものがある」




 嘲笑を浮かべて、アーノルドが更に力を強めた。


 手首に走る痛みに顔をしかめるクロエを、のぞき込むように顔を近付けてくる。




「クロエ! もういいの! 私は、大丈夫だから!」




 呆然と見守っていたリディアが、クロエにまでるいを及ぼすまい、と思ったのか、悲鳴のような声を上げた。




「ふー、泣かせるね。平民同士でかばい合いだ。……土下座して、みじめったらしくびろ。無知な小娘が、身の程も弁えずに馬鹿げた真似をしました、となァ。さもなければ、殺す」


「……言うべきじゃなかった」


「はァ? 今更だろうが! さっさとかがめ! ったく、余興を台無しにしやがって――」


「——自分で、首を絞めたな」




 吐き捨てるや、クロエは自身の右腕にさっと魔力を走らせた。




「その建前こそが、自分たちを守っているとも気付かずに! 自分から鎧を脱いで、斬られぬ道理はない……‼」


「なっ、無礼だぞ、匹婦ひっぷ……!」


「その言葉、そっくりそのまま返してやる――‼」




 勢いよく、クロエは腕を振り払う。


 練り込まれた魔力が、アーノルドのそれを上回った。



 と、ここでひとつ、クロエにも予想外の出来事が起きた。



 クロエを侮って上体を屈めていたアーノルドのあごに、拳の先端が僅かに触れたのだ。


 つまり、かすった。


 不意打ちのように、思い切り脳を揺さぶられたアーノルドは、ややあって姿勢を保てずにクロエにもたれ掛かってきた。


 とっさのことで、また受け止める義理もない。 


 身をかわそうと脚を動かしたクロエを、またしても不運が見舞った。


 先ほど被った酒が床を濡らしていたので、踏み出した片脚を取られたのだ。


 倒れまい、とすべる脚に魔力を込め、同時に逆の脚を振り上げてを取ろうとしたところへ、アーノルドが崩れてきた。






「——おい、マジか」



げたな。痛そうだ」






 脚撃一閃。


 クロエの膝は、正確にアーノルドの腰、正面を打ち抜いていた。


 加えて悲劇的なことに、焦りが手伝って、クロエは思わず魔力を走らせてしまっていたのだ。


 卓や椅子を巻き込んで、アーノルドの巨体が吹き飛んでいく。


 束の間、信じられないものを見たとばかりに静まり返っていた店内が、にわかに騒然とする。




「あ、アーノルド様が! がやられた!」


「警士! 出合え! 叛逆者だ!」




 双子や、一緒に来ていた若い貴族たちが、店の外で待機していたらしい護衛兵たちをわめくように呼び込んだ。


 これには、クロエの驚くまいことか。




「勇、者……? はい⁉ 勇者って、今のが――⁉」


「クロエ、逃げて!」




 貴族たちが剣を抜き払ったのを見て、リディアが駆け寄ってくる。


 殺到した衛兵が、二人の周りを取り囲んだ。




「勇者様に手を出すとは! 貴様、さては刺客だな⁉」


「あの小娘を、逮捕しろ! どこから送り込まれたか、聞き出さねばならん!」


「いやいやいや、待って待って待って⁉ わたしは――」


「問答無用! 暗殺者が失敗して、五体満足に帰れると思うな!」




 貴族たちの命を受けて、衛兵が一斉に打ち掛かってきた。


 とっさに、クロエはリディアの腰に腕を回して飛び退いた。


 次々に突き出される長剣や棍棒を、舞うように回りながら避け続ける。


 卓の上をねるクロエに、衛兵たちも躍起になって得物を振り回した。


 説得はできそうになく、かといって魔術で反撃すれば自ら賊と認めたと取られかねない。


 焦るクロエの耳に、双子の声が飛んできた。




「何をしている! ……おい、お前たちも手伝え! あいつを捕まえた者には、賞金を取らせるぞ!」


「俺だ!」


「いや、俺のもんだァ!」


「てめえら引っ込んでやがれ! 貴族様、多少手荒になってもよろしいか⁉」




 見物に回っていたゴロツキたちが、喚声を上げて向かってきた。


 ただでさえ衛兵に苦労しているというのに、素手とはいえ更に数十人が加われば、さすがのクロエも逃げ場にきゅうする。


 やがて、クロエとその腕に抱かれたリディアは、店の一角に追い詰められた。




「ここまでだ、賊めが! 大人しく降れ!」


「わたしは、刺客なんかじゃありません!」


「黙れ! どうあれ勇者様を害した以上、貴様は国賊だ! この場で斬られないだけでも、ありがたいと思え!」




 長剣を突き付けて、双子の片割れが言った。


 それで、ためらっていたクロエの腹も、ここに至ってついにわった。


 勇者の供などと口が裂けても言えない野卑なゴロツキに、傲慢で身勝手な貴族たちだ。



 自分たちで不法を働いたのは棚に上げて、人を賊呼ばわりするとは。




 極めつけは、あの勇者たるアーノルドの暴戻ぼうれいぶり!



 もう、我慢ならぬ!



 ここは、クロエ・ルルーの居場所ではない――‼






「この、分からずやどもめが――‼」






 気合一声、クロエは手近な卓を蹴り上げた。


 どよめきと共に、包囲の輪が少しだけ下がる。


 天板を垂直に落ちてきた卓の脚に、クロエは上げたままだった右脚を勢いよく振り下ろした。


 乾いた音。


 折れ飛んで宙を舞う卓脚を、つかみ取る。


 片腕よりも長く、木剣代わりには手頃なものだ。




「お前たちのように破廉恥な卑劣漢と、このクロエの道が交わることはない!」




 卓脚を突き出すように構えて、叫んだ。




「道を、開けィ――‼」




 リディアを背に追いやって、クロエは駆け出した。


 怒号を上げて向かってきた衛兵と、打ち合いになる。


 次の瞬間、相手の得物がすっぽ抜けて天井に突き刺さった。




「な、何だッ⁉」


「邪魔だああああ!」




 魔力の外力変化、風系魔術のひとつ、装風槍ハスティス・ウェンテッリ


 卓脚にまとわりつくように、魔力の風が渦を巻いていた。


 相手の武器は、本体に届くよりも前にこの風に巻き取られて弾かれてしまったのだ。


 うろたえた衛兵を、そのまま卓脚で弾き飛ばす。




退けええええええ!」




 剣を振るように敵の塊をぎ払えば、それだけで敵が吹き飛ばされていく。


 風がうなりを上げるたびに、相手はまともに立っていられないほどの力が加わり、回転に抗えず引き倒される。


 クロエの切っ先が向くところ、おびえた敵兵は海を割るかのようにあと退ずさった。




「ぐっ⁉ ひるむな! 相手はたった一人だ!」




 敵の包囲が崩れたところで、貴族の怒声が上がった。


 さすがに訓練を受けた衛兵たちが、飛ばされないよう仲間同士で重みを作り、じりじりと間合いを詰める手を取った。


 周到なことに、出入口にはかなりの数の人の壁ができている。


 なりふり構わずに向かってくるゴロツキたちも、数だけは揃っていた。


 しかも、店の外には続々と警備兵や旗本が集まってきている気配がする。




「——クロエ!」




 一挙に突破するしかない、と魔力を練り直しかけたクロエの後ろから、リディアの声が掛かった。


 振り返れば、先ほどの男たち二人が、窓の硝子がらすに椅子を放り投げてぶち割っている。




「嬢ちゃん、こっちだ! あとは、俺たちが上手くやってやる」


「リディアさんを」


「あァ、任せろ。楽しい夜だった。達者でな」




 駄目押しに卓脚を薙ぎ払い、クロエは窓に向かって駆けた。


 自分がこの場を離れれば、罪のないリディアのことなど、貴族たちも二の次にするだろう。


 多少の追及はあるだろうが、そこはあとの二人に任せるしかない。




「恩に着ます――!」




 すれ違いざま、クロエは男たちに声を投げ、壊れた窓に向かって跳躍した。


 瞬間、リディアと眼が合う。


 リディアは、笑っていた。


 多少、引きつってはいたが。


 大きくうなずいて親指を立てたリディアに背を押され、クロエは夜の街に飛び出した。




「さて、どうする?」


「良い考えあるか?」


「そうだな。とりあえず、勇者だかの仕事は降りよう」


「大賛成」




 後ろから聞こえてきた声を気にする間もなく、辺りが魔術の光で埋め尽くされる。


 追手には、かなりの数の魔術師が交じっているようだった。


 迅速な対応に舌を巻きつつ、クロエは両脚に魔力を送って建物の屋根を飛び跳ねる。


 まさか、こんなことになってしまうとは。


 自分の行動が間違いだったなどとは決して思っていないが、それにしてもついてない。


 もっとも、あんな勇者と旗本たちの仲間になったとしても、きっと納得はできなかったはずで、いつかは似たようなことになっていただろう。


 遅いか早いかの差で、無駄に試験を受けずに済んだだけよかったのかもしれない。


 いや、よかった。


 あとは、リディアたちに迷惑を掛けるようなことにならないかだけが気掛かりだが、それも今は気にしても仕方なかった。


 とにかく、王都を脱出することだけを考えるしかない。


 舞い降りた路地を抜けた先で、空の馬車が停められているのが見えた。




「借ります!」




 クロエはすぐさま駆け寄って、端の馬一頭だけ綱を切り放し、そのまままたがった。


 いななきも高らかに、黒馬が手綱に従って駆け出す。


 散々逃げ回っている間に、偶然見覚えのある大通りに出てきていたらしい。


 馬首を巡らして、昼間に歩いた道のりをさかのぼる。


 夜中の割には人通りもあったが、元々が馬車数台並走できるような広さだ。


 両端の露店から声が掛かる。


 怒号や、歓声もあった。


 何かの催しものだと思われているのか、あるいは王都では日常茶飯事なのか。


 追手の魔術弾を躱しにかわし、クロエはようやく城門が見えるところまでたどり着いた。


 夜間のことで、通用門とて既に固く閉ざされている。


 門兵に事情を話して、開けてもらう時間はない。


 というか、絶対に開けてもらえない。


 ならば、取れる手段はひとつだけだ。




「——ドミナ・メアエ我が主デア・メアエ我が神よ! 来たれ、雷神の鍛えし一槍! 烈風をまといて荒れ狂え! 其は我がかいなより放たれて、雲霞の如き万軍を打ち払う!」




 頭上に掲げたクロエの右腕に、まばゆい光が集まる。


 やがてそれは、巨大な槍の形を取った。


 穂先から下の部分に、竜巻を思わせる暴風が渦になってまとわりついている。




雷の投槍ランカ・トルニトゥリ——‼」




 クロエは、紫電を放つそれを、城門に向かって思い切り投げ付けた。


 夜番だった門兵たちが、慌てて逃げ出す。


 閃光。


 轟音と共に、分厚い城門が吹き飛ばされ、その周りの城壁をもき崩した。


 粉塵が舞う中を、クロエは駆け抜けた。


 城門があった辺りで、顔見知りの門兵が腰を抜かしているのが見えた。


 壮年の兵士と二人、唖然としてこちらを見上げている。






「クロエ・ルルー、訳あって王都を出ます! 命が惜しくば、追われぬよう――‼」






 叫んで、クロエはついに城外に出た。


 無人の闇の中を、ひたすらに駆け走る。


 後ろからは、追手の気配が途絶えることなく続いている。


 長く、過酷な夜になりそうだった。




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