さようなら

「……ん? この人はいったい?」

「魔獣はどこにいるんだ?」


 もっとこう、巨大な怪物みたいなものがいると思っていた。

 拍子抜けしている私とリベラート様をよそに、ベランジェールはけろっとした表情で言う。


「これが魔獣のハイリよ」

「えぇぇっ!?」


 こ、これが魔獣!? どう見ても普通の……ん? よく見ると耳と尻尾がついている。魔獣って、私の想像よりずいぶんかわいらしい見た目をしていたのか。


「ハイリ、久ぶりね」

「ベランジェール! よく来たな……! 相変わらずの美しい黒髪に白い肌……! ああ、会いたかった。もっとよく顔を見せてくれ」


 ハイリは私たちなど視界に入っていないようで、一目散にベランジェールのもとへ駆け寄り恍惚とした表情を浮かべている。……なんだか、私を見つけた時のリベラート様を見ているような気分になった。


「おかしいな。俺が見た時はもっと……巨大な黒い影のような、獣のような姿をしていた気がするんだが」


 顎に手を当て、うーんと唸るリベラート様。


「ハイリは狼の魔獣なのよ。フェンリルって聞いたことないかしら? 魔獣の中では最強クラスを誇る存在なのよ。今はなんでか人型に姿を変えているみたい」

「お前が来るとわかったから、姿をお前に寄せたのだ。このほうが近くでお前の顔を見られるだろう」

「そうねぇ。本来の姿だと大きすぎてたいへんだもの」


 なるほど。これは仮の姿なのか。そう聞くと納得だ。フェンリルは本で見たことあるけど、もっと大きくて狂暴そうな狼だった。……あれが本来の姿だと思っていいのだろう。魔獣って、人型にも姿を変えられるのか。初めて知った。


「ベランジェール、お前はどっちの私が好きだ?」

「どっちにもたいして興味ないわ」

「なっ……! ツレないところも変わっていないな」


 しばらく夫婦漫才のようなふたりのやりとりを見守っていると、突然、ハイリの鋭い金色の瞳が私に向けられた。


「ところで……こいつらは誰だ?」


 ハイリは警戒しているのか、私とリベラート様を交互に睨みつける。


「アタシの友人でただの人間よ。危害を加えるようなことはないわ。したところで、魔獣と魔女相手じゃ敵わないしょう」

「それもそうだが、お前が誰かを連れてくるなんて初めてじゃないか。……なにか理由があるのだろう?」

「くわしい事情なら本人に聞いてちょうだい。アタシはただの仲介役だから」


 ベランジェールはハイリから離れると、私とリベラート様に顎でクイっと合図をし、ハイリと話すよう促した。すると、リベラート様が足早にハイリに近づいて行った。


「ハイリさん、お久しぶりです。といっても、覚えていないでしょうが」

「……いや、その水色の髪、なんだか見覚えがある。はっきりとは思い出せていないが」

「俺の名前はリベラートといいます。十二歳の時この洞窟に足を踏み入れ、その際、あなたに嗅覚を奪われました。今日はその嗅覚を取り戻したく、俺の婚約者であるフランカと、その友人であるベランジェールに協力してもらいここまでやって来ました」

「俺が嗅覚を――そうか、お前はあの時のクソガキ……! ああ、思い出した。思い出したぞおぉぉ!」


 ついさっきまでベランジェールにデレデレだったハイリが、リベラート様の話を聞いた途端、毛を逆立て怒り始めた。


「あらあら。これはマジギレモードね。あなたの婚約者、ただじゃ済まないかもしれないわ」

「そ、そんな、ベランジェール! どうすれば……」

「まぁみてなさい。彼がなにをやらかしたかにもよるわ。大ごとになりそうだったら、その前にアタシが手を打つから」


 私たちがそんな会話をしている内に、ハイリはものすごい殺気を放ちながらリベラート様の胸倉を掴むと、そのままリベラート様の体を持ち上げた。


「うっ……お、俺は、あなたをそこまで怒らせることをしましたかっ!?」


 もがきながらも、リベラート様はハイリに問いかける。


「覚えていないのか! 自分が犯した罪を!」


 こんなに怒らせておいて〝覚えがない〟なんてさすがに無理がある気がするが、リベラート様は本当に心当たりがないようだ。


「お前はあの日……ベランジェールが私に作ってくれた手料理を食べたのだ!」

「俺が、彼女の手料理をっ!?」

「えっ……それがリベラート様の罪?」


 ハイリから告げられた言葉に、私は拍子抜けする。


「……くっだらない」


 ベランジェールは深く長いため息をつくと、リベラート様の胸倉を掴むハイリの腕に、スリットの入った長いワンピースから露わになった美脚で思い切り蹴りをくらわした。

 お陰でリベラート様は解放され、その場に落下すると大きく咳き込んで呼吸を整え始めた。


「なにをするベランジェール! こいつの罪は大罪だ! お前が手間暇かけて私のために作ってくれたビーフシチューを勝手に平らげたのだぞ!」

「ハイリ……あなた、そんなことでひとりの少年から五感のひとつを奪ったってわけ?」


 ベランジェールは呆れている。私はリベラート様のさすりながら体を起こすと、彼にこう問いかけた。


「リベラート様、身に覚えはありますか?」

「言われてみれば……洞窟内で道に迷っていると、どこからともなくすごく美味しそうな香りが漂ってきたんだ。その時の俺は空腹で、そのにおいに誘われるがまま道を進むと鍋でグツグツと煮込まれた、大きな肉がたくさん入ったビーフシチューが置いてあって……なにも考えず食らいついたよ。食べ終えたら黒い影に包まれて、目の前に魔獣が立っていて……目が覚めたら、嗅覚を奪われてたんだ」


 どうしてなにも考えず食らいつくことができるのか……つっこみどころが満載だ。毒でも入っていたらどうしようとか、考えたりしなかったのだろうか。


「そうだ! 俺はその時お前に襲いかかり、嗅覚を奪ってやったんだ! 二度と美味しいにおいに釣られて、つまみ食いができぬようにな!」

「くだらない。何度聞いてもくだらないわ!」

「くだらなくなどない! ベランンジェールの手料理は実に十年ぶりだったんだぞ!」

 

 正直、私もベランジェールに同感だ。つまみ食いでその後五年間も嗅覚を失うことになるなんて、リベラート様も不運だったとしか言いようがない。もちろん勝手に食べるのはよくないし、自業自得なんだけれど。失ったものが大きすぎた気もする。


「それをお前は謝罪するどころか忘れていた挙げ句、嗅覚を返せだと!? 味覚も奪わなかっただけありがたいと思え!」

「……それはたしかに、返す言葉もありません。すみません」

「ふん。いまさら口だけの謝罪など求めていない」


 ハイリは怒って、ふいっとリベラート様から顔を背ける。


「いえ。心から思っています。愛する人の手料理を横取りするなど最低最悪な行為です。許してもらえなくても構いません。ただ謝らせてください。ごめんなさい」


 姿勢を正し、深々と頭を下げるリベラート様。彼のそんな姿を横目で見ながら、ハイリは静かにため息をついた。


「……今さら謝られても意味などない。あの日お前に奪われたビーフシチューは、二度と返ってこないのだから」

「返ってくるわよ。あの日作ったものとまったく同じものを、アタシがまた作るわ。今度はパンもつけてあげる」


 寂し気に呟くハイリに、ベランジェールが言った。


「なっ、いいのか」

「そのかわり、彼にも嗅覚を返してあげて。あなたの力なら容易いでしょう?」

「し、しかし……」


 やはりまだ許せないのか、ハイリは嗅覚を返すことをためらった。

 ベランジェールは私に協力しようとしてくれているんだ。その気持ちに感謝しながら、私もハイリにお願いをした。


「私からもお願いします! リベラート様の未来のために、嗅覚を返してあげてください!」

「う、うぅ……」

 両隣から頼み込まれ、ハイリは肩身が狭そうだ。怖そうに見えて、案外気は弱いのかもしれない。


「ほら。フランカもそう言ってるじゃない。そ・れ・に! 今返してあげるなら、アタシが直接ビーフシチューを〝あーん〟して食べさせてあげるわよ?」

「なに!? わ、わかった! すぐに返そう!」 


 ベランジェールのおかげで、割とあっさり交渉は成立した。


「ベランジェールとこの女に感謝するんだな! クソガキめ!」


 ハイリは地面にぺっと唾を吐きつけリベラート様にそう言うと、右手でリベラート様の額に触れる。

 手から紫色の光が漏れ出すと、ものの数秒で解呪は終わった。


 ――ああ、これで終わったんだ。なにもかも。


「嗅覚を戻してやったぞ。だから、もう二度とここへは来るなよ!」

「……ありがとうございます! ハイリさん! ベランジェールさんも」


 お礼を言うリベラート様に、ベランジェールさんはひらひらと手を振った。


「そしてフランカ、本当にありがとう!」

「きゃっ! なにしてるんですか、ちゃんと戻ってるか確認しないと……」

「嗅覚が戻ったら、最初にフランカを抱きしめると決めていたんだ!」


 そう言って、リベラート様は私の髪に顔を埋めた。その瞬間、彼ははっとした顔をして私を見つめる。 嗅覚か戻り――ずっと求めていた私の香りがもうないことに気がついたのだろう。


「目は覚めましたか? リベラート様」

「……フランカ、君の香りは」


 なにかを言いかけた彼の唇に人差し指を当てて黙らせると、綺麗な青色の瞳が揺れた。


「今までありがとう。そして――さよなら」


 小さな声で私がそう告げた途端――リベラート様は、その場にバタリと倒れた。


「リベラート様!?」

「ちょっとどういうこと!? ハイリ、またなにかしたんじゃないでしょうね?」

「心配ない。嗅覚を奪うという強い呪いをかけていたから、解呪もそれなりに強い力を使うことになる。体に負担がかかって眠っているだけだ。一日もあれば目覚めると思うぞ」


 倒れたリベラート様の状態を確認すると……ハイリの言う通り、すやすやと眠っているだけだった。

 あどけない寝顔を眺めながら、サラサラの髪に触れる。これが、私とリベラート様の最後の時間。


「ベランジェール、リベラート様のこと、頼んでもいいですか?」


 後ろにいるベランジェールに、振り返らないで声をかける。


「……あなたが連れて帰らないの?」

「ええ。嗅覚が戻った今――私はもう、リベラート様の婚約者ではいられませんから」

「……そういうことね。わかったわ」


 さすが私に魔法をかけた張本人。今の言葉だけで、全部わかっちゃうんだもの。


「すみません。本当にいろいろとありがとうございました。また会えることを願っています。……それじゃあ」


 一度も振り返らずに、私はひとりで歩き出した。

 ちゃんとベランジェールとハイリの顔を見て伝えたかったけど無理そうだ。だって――自分で選んだ道なのに、涙が止まらない。


「声、震えてるじゃない。ほんと――不器用な子なんだから」


 最後に聞こえたベランジェールの呟きには聞こえないふりをして、私はひとり、洞窟をあとにした。


 ――リベラート様が目を覚ましたのは、次の日のことだった。私に会うことがないまま、リベラート様は長期任務へと旅立って行った。

手紙はすべて受け取りを拒否し、それからリベラート様と連絡をとることは二度となかった。


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