バビルサの牙
杜侍音
バビルサの牙
大学で気になる女性がいた。
名前は知らない。ひとまず代名詞の彼女で通させてもらう。
彼女は週に二度、授業で見かける。
一つは火曜四限の日本史の授業。もう一つは木曜二限の美術の授業でだ。
どちらも数百人が入るほどの大教室で行われており、授業内容は、まぁ、出欠票を出せば単位が貰えるようなカモ科目である。
そのためほとんどの生徒は、寝ていたり、スマホを弄っていたり、隣の人間とお喋りしたり(この場合は他に迷惑かけるとして怒られたりすることが多いが)で適当に授業を受けている。
ただその中で、彼女は一番前に席を陣取り、一睡することも余所見することもなく真剣に授業を受けていた。
優秀かつ真面目なのだろう。実際の成績は知らないが。
最初はこのようなイメージでいた。
だが、毎回彼女を見るたびに思う。ここで冒頭に戻る気になることなのだが、彼女はどんな時であれマスクを付けていた。
初回の授業で教室に入った時、センター最前列に目元がとても可愛い子──つまり彼女を見かけた際は、あの子かわいいなぁ、花粉症なのかな? と思っていた。
だが、夏の暑い日でも警報寸前の豪雨だろうとマスクを外すことはなかった。
数年前に新型感染症の影響で世界中の人間がマスクをしていた時期があったが、ワクチンも開発されて感染率や致死率がグンッと減った今、マスク姿は時代錯誤さえ感じる。
僕はどうして彼女がマスクを付け続けるのか、そして可愛らしい彼女のマスク下の素顔が気になっていた。
「声でもかけりゃいいじゃねぇか」
このことを伝えると、友達は簡単に返事する。
僕には難しい。中高男子校だったから、女子と話すのは慣れていない。
僕の友達は今までに何人も彼女がいる、俗に言うモテ男だ。
こういうの慣れているだろうから代わりに話しかけて欲しいと頼んでみるが、断られた。
「気になる女の子は自分から声をかけろ」
彼なりの気遣いと優しさ、そして女性と付き合うにあたってのポリシーなのだろうが、今はそんなのはいらない。
けれども、一度誰かに彼女について話してしまったことで、余計に気になるようになってしまった。
だから僕は木曜二限の授業後、こっそり彼女の後を付いていくことにした。
ストーカー行為だと思われるだろうし、実際そうなのだろうが、学内までなら大丈夫だろうと自己暗示をかける。
この授業後は約1時間の昼休みだ。大抵の人はここで食事をとる。
彼女も大多数の人と同じで、昼ご飯を食べるために食堂へ向かった。
この大学には大きな食堂は二つあり、彼女が向かったのは僕がいつも使う食堂ではない方だった。そりゃ、昼ご飯時に見かけたことはないと思っていた。
彼女はカレーライスを頼み、三人後ろに並んでいた僕も真似するようにカレーライスにした。少し見栄を張って大盛りにはしてみた。
彼女は食堂の隅の席で、壁の方に向かって食べている。
なんとかして自然に見られるように、同じ席列の少し離れた斜向かいに座った。
ここから角度鋭めの斜め方向に彼女の様子を伺える。
だが、マスク下を拝めることはなかった。
彼女は食事中も外すことはなく、マスク下の隙間からカレーを入れて食べていた。
少しでも手元が狂えば、白いマスクにカレーが付着し、悲惨なことになるに違いないが、彼女は手慣れているのかそのようなミスを犯すことなく、無事に食べ終わった。
そして長居せずに、彼女は食堂を出て行く。
僕は大盛りを頼んだが、食事スピードは遅いので食べ終わっていなかった。なので、追いかけるなんてことは叶わなかった。
次の週、通常授業はこれで最終だ。
もう来期はほとんど授業を取らなくても卒業できる単位数だから、大学にはほとんど来ることはない。
彼女に会えるのもこれで最後かもしれない。
というのも、ここまで彼女の名前も知らなければ、学部や学科も知らないからだ。
受けている授業は全学部開講。二万人近くもいるこの巨大な私立大学では、喋らずしてまた出会うことは、ないにも等しい。
彼女が誰かと一緒にいるところも今までに見たことがないから、手掛かりを掴むこともできない。
とりあえず、同じ学部学科ではないんだろうけど。
──仕方ない。友達が最初に言っていたことに従おう。
どうしてもこの見たいという欲求を止められそうになかった。
「あの、すみません……」
授業後、彼女に話しかける。
彼女は自分を尋ねているのだとすぐに気付き、振り返る。見返り美人図とはこのことだろう。
「はい、なんですか?」
彼女の声はとても可愛らしかった。
声優を目指していますと言われても納得するほどの可愛い声だった。
僕の数ヶ月かけて作った色眼鏡のせいかもしれないが、心の中で彼女の素顔に期待が高まる。
「えっと……なんですか?」
あ、会話がもう止まっていた。
というより何を話そうと思ったんだっけ、えっと……
「あ、ど、どうして、ずっとマスクを付けているんですか? その、蒸れません?」
直接的なような間接的なような、初対面の相手からされるような質問ではないとは自分でも分かっていた。
彼女も分かりやすく困惑している。
「まぁ、蒸れますよ。それはもちろん、夏ですし」
きっとこの答え以外なく、かつ最適解であろう答えだった。
もう不審に思われているだろう。けど、どうしても聞きたいし、見たい。
どうせこれで最後だしもう勢いつけて直球的に聞こう。
「ずっと、マスクの下が気になっていたんです。見せてくれることは可能ですか?」
「え、いや、それは……どうしてですか?」
「その、一目惚れと言いますか……」
「……はぁ」
溜息混じりのような返事をする彼女。
一瞬、間があり──
「わかりました。いいですよ。けれどここじゃ恥ずかしいので、人目がつかないところに移動しましょうか」
と、許可をもらった。
僕はちょっと食い気味に返事をしてしまった。
気味悪がられただろうが、とにかく僕は舞い上がってしまった。
とうとう彼女の素顔が見られる。それに、人目の付かないところでって……いや、変な期待はしないでおこう。さすがにその考えは気持ち悪過ぎる。
人目が付かないであろう建物の間。裏道程度に舗装されているが、足場も悪く特に近道ですらもないので、人が通ることは滅多にない場所。
ここに来るのは大学四年目の僕ですら初めてだ。
「私、コンプレックスがあるんです」
「コンプレックス……ですか?」
着いてすぐ、彼女は語り出した。
可愛い容貌と声。スタイルも男性受けが良いだろうし、髪型もみんな大好き黒髪のロングヘアだ。
一見すると誰もが憧れる完璧美少女だと思うが、そんな彼女にも悩んでいたコンプレックスがそのマスクの下には隠されているのだろう。
「はい。その……出っ歯なんです……」
「あ、あぁ、そうなんですね」
この時はなんて返事したら正解なんだろうか。
友達に聞いておけば良かったと後悔する。
「じゃあ、見せますね……」
彼女はマスクの紐に手をかける。
この時の興奮は忘れられなかった。
ずっと拝みたいと思っていた彼女の素顔。
それは、ブラジャーを外す時やパンツを脱ぐ姿を眺めるに匹敵するものがあった。
僕は生で見たことはもちろんないけども、きっとあの友達ならそう表現してくれるはずだ。
彼女は出っ歯だと言っていたが、それくらい特段恥ずべきことではない。お金はかかるが矯正で治すことはできるし、出っ歯でお笑い界の頂点に君臨する人もいるではないか。
何より僕がそんなに気にすることではなかった。
コンプレックスの基準は人それぞれだ。
きっと完璧な彼女だからこそ、より高みを目指す上でのコンプレックス──そう思っていた。
頬から段々と口元が見えてくる。
そしてキラリと輝く白い歯。歯磨き粉のCMに抜擢されるに違いない純白の前歯二本が、人中にドッシリと構えていた。
そうそう、人中とは鼻の下にある窪みのことで──え?
「私、この通り出っ歯なんです」
「いや、その……出っ歯って前に突き出ているのではなくて……?」
「はい。鼻と上唇の間から突き出ているんです」
あ……えっと、え……? どういうことだろう……。
そんな、人がこの世にいるの、いや捜せばいるかもしれないか……現に目の前にいるし。
「バビルサっていう動物を知っていますか? イノシシの仲間で、すごく長い牙があるのが特徴なんです。通常は下に伸びる上顎の犬歯ですが、バビルサの場合は上向きに伸びて、皮膚を突き破って頭部まで伸びるんです」
急に動物の知識を語り始めた……。
「つまり、それと同じです」
どういうこと⁉︎
「それでは、私はこれで」
再びマスクを付けて去って行く彼女の背中に声をかけることはできず、僕はただ見送ることしかできなかった。動揺で、暫く動けなかった。
その後、誰かにこのことを話すことはなかった。言っても信じてもらえないだろう。
また、彼女と出会うことはなかった。
一体何だったんだろうか……真実を知ったはずなのに、疑問は深まるばかりであった。
◇ ◇ ◇
「ふぅ、無事に騙せたかな」
と、彼女はマスク下に手を伸ばし、ビリッと二つほど白いピースを剥がす。
そう、あの歯はダミー。
彼女が男にナンパされた時に、自分を守るためのグッズの一つである。
彼女は類稀なる美貌のせいで、昔から男子に言い寄られたり、おじさんから変な目で見られたり、それどころか危うく事件に巻き込まれかけたことまである。
今までは女子中高一貫校へと通っていたが、社会人になってしまえば、有無も言わさず男もいる世界へと放り出されてしまう。
いきなりは難しいので、その前段階として共学への道を進むことにした。
しかし彼女の両親は、欲望渦巻く大学へと一人娘を入れるのを不安に感じ、自衛のためのテクニックや道具をいくつも教え込んでいた。
バビルサの牙はその内の一つである。
もちろんバレてしまう可能性も十分にあるが、その時でもヤベー奴として向こうから避けられるだろう。
こんな奇抜な策ではなく、他にもダサい格好をしたり、誰かと話す時はデスボイスを出してみたりなども
「けど、そうすると友達までできないからね」
という彼女には友達はいない。
警戒をし過ぎた結果、誰一人として近寄って来ることはないまま、大学一年目を過ごした。
今までは向こうから話しかけてくれていたから、彼女の方から誰かに話しかけるという考えには至らず、気付けば大学ボッチを決めていた。
まぁ、彼女はそれをコンプレックスなどとは思ってもいない。
「お母さんは男はみんな
外したバビルサの牙を見つめながら、そう彼女は考えていた。
──もし次に会えた時に変わらず接してくれるなら……
ただ、偶然なのか必然なのか、二人は今後大学で会うことはなく、各々、相手のことは片隅に置きつつ学生生活を送ることになる。
バビルサの牙 杜侍音 @nekousagi
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