ミツバチクリーニング
尾八原ジュージ
ミツバチクリーニング
クソおやじが連れてきた怪しい男に、「あんたでもそこそこ稼げる仕事があるんだ」と言われて家から連れ出されたとき、あたしはこりゃ死んだなと思った。あたしはブスだから、きっと場末の汚い、病気になってもほっとくような売春宿で働かされるんだろうと思ったのだ。
ところが連れていかれた先は、帝都のど真ん中の、変な看板とかも出ていない普通のビルだった。小さいけど清潔なオフィスで、青いツナギを着た男の人が書類仕事をしていた。それが社長だった。
「こないだ入れた新人が逃げちまってな。悪いけどバリバリ働いてもらうよ、姉ちゃん」
社長はあたしを見てそう言った。
「うちは清掃業だよ。だから掃除が仕事。ただしニッチな特技があって、そこそこ太い客がついている。だから……」
そのときデスクの上で電話が鳴った。社長が受話器をとり、「はい、ミツバチクリーニングです」と名乗った。社長の顔は恐いのに社名はかわいいんだな、と少しおかしくなったのを覚えている。
「さっそく仕事だ、姉ちゃん」
電話を切った社長はあたしに言った。
「いきなり実地だが、仕事は教えてやる。何があっても逃げるなよ。それからお客さんに失礼のないように。とりあえず黙って頭下げとけ」
下手うったら死ぬぞ、と社長は付け加えた。
ネオンサインが並ぶ帝都の歓楽街が、窓の外をどんどん流れていく。社名の入ったバンに乗って、大量の雑巾や洗剤やモップと共に連れていかれたのは、死ぬまで一度も泊まる機会のなさそうな一流ホテルだった。入り口に「ホテル・ブリジット」と書かれているのを横目で見ながら、社長とお揃いのツナギを着たあたしは、彼の後にくっついて裏口から中に入った。
「裏からお願いしますよ、裏から」
紺色の制服をビシッと着たホテルマンが、ぶつぶつ言いながら廊下を歩いてくる。「わかってるよ兄さん。俺らだってはじめてじゃないんだから」と、宥めるような声がそれに続いた。
ホテルマンと一緒にやってきたのは、何人かの男たちだった。先頭に眼鏡をかけ、ストライプ柄のスーツを着た若い男がいて、軽そうな口調でホテルマンと話をしていた。彼だけでなく、みんなやけに目付きが鋭い。
彼らはブルーシートをぐるぐる巻きにして作った芋虫のようなものをいくつか運んでいた。その一団とすれ違いざま、あたしの耳元で芋虫がモゴモゴとうなった。何を言ったのかわからなかったけど、たぶん男の声だった。
この人たちが運んでいるのは人間なのだ。社長が言った「下手うったら死ぬぞ」という言葉の意味が、さっそくあたしにもわかった気がした。
一団から少し遅れて、高そうなスーツを着こなした体格のいい男の人が歩いてきた。もう若くはないけど全身に精気が満ちていて、やけに迫力がある。そしてそれに半歩ほど遅れて、長い黒髪を後ろでくくった、まだ十代半ばくらいの男の子がついてきた。
あたしは思わずギョッとした。その子の右頬から右腕全体、それから腰の辺りにかけて、べっとりと赤い血にまみれている。「じろじろ見るな」と社長が釘を刺し、あたしは辛うじて頷いた。
「掃除屋」
ドスの効いた声がした。スーツの男の人だった。「はい」と社長が応えた。
「また部下が変わったな」
男の人はそう言ってあたしの方を見た。
「はい」
「世話かけるな」
それだけ言うと、ふたりは裏口の方に歩き去った。意外と丁寧な感じのひとだな、とあたしは思った。社長がふーっと溜息をついた。
「相変わらずいかれてるよ」
「そうなんですか。ちゃんとした人に見えたけど」
「ちゃんとした人が、あんな血まみれのガキ連れて平気な顔で歩くかよ。あいつらは殺し屋だ」
いつの間にかあたしたちの後ろに、さっきのホテルマンが立っていた。
「こっちの部屋だ」
案内された先は、ちょっとしたパーティーが開けそうな豪華な部屋だった。客室ではなさそうで、中央に大きなテーブルがひとつと、揃いの椅子が何脚か置かれている。もっとも今そんなことはどうでもよく、あたしはその有様を見て、これからしなきゃならないお掃除の仕事がどんなものかを理解した。
たぶんゴージャスで綺麗だっただろう部屋の中は、ひどい有様だった。ペンキをぶちまけたような血が壁どころか天井まで飛び散り、壁には銃弾のものらしい穴がいくつも空いている。分厚いカーペットを踏むと、じわ、と血液が盛り上がってきた。
おまけに部屋の中には、四人の男が転がったままだった。こちらに背を向けて倒れている一人の首には千切れそうなほどの切れ込みが入っていて、マカロニみたいな血管がはみ出しているのが見えた。
「また派手にやりましたな」と社長が言うと、ホテルマンは深い溜息をついた。
「チンピラがオオムカデに手を出して大怪我だ。七、八人で囲んでベレッタでぶち込んだらしいが、あっという間に返り討ちにあってご覧の有様だよ。うちがこれ込みで商売やってるのは確かなんだが、こう頻繁だとかなわん」
「こりゃカーペットは総とっかえだ。それからこっちの壁紙も。カーテンは洗えばいけるでしょう。あとはよく見てみなきゃわかりませんが」
「後で見積もり作って持ってってくれ」
「わかりました」
ホテルマンが渋い顔で立ち去ると、社長は「さて」と一呼吸入れてからあたしの方を見た。
「俺たちの仕事はこの部屋の掃除だ。まずはその辺の死体をどかす。できるな」
あたしは肩をぐりぐり回した。「できます。力仕事は得意ですから」
社長はちょっと驚いたような顔になったけど、すぐに嬉しそうに笑った。
「そいつはいい。初仕事でゲロまかなかった新人はひさしぶりだ。頼りにしてるよ」
何も特別なことはなかった。要するに掃除だ。掃除をすればいい。
できたてほやほやの死体をシートに包んで運び出してしまったら、机を動かしてカーペットをはがし、カーテンを外し、壊れたものや汚れたもののリストを作る。社長が見積もりを作る傍ら、あたしは天井にモップをこすりつけ、眼を皿のようにして壁紙についた血痕を探し、見つけるとすぐ専用の洗剤をつけて丁寧に拭いた。床に染みてしまった血液も落とし、クロスをはがした壁の穴にパテをすり込んで平らにならした。
「このホテルは物騒な連中の御用達で、こういうことは織り込み済みなのさ」
メモを書きながら社長はあたしに教えてくれた。
「そら、窓ガラスは防弾だし、部屋の壁は厚くて音を漏らさない。この部屋の中でドンパチがあっても、ホテルの他の客は気づかないってわけだ。それがここのウリでもある」
「そして、うちの上得意ってわけですね」
「そうさ。誰かが掃除しなきゃならないからな。姉ちゃんは本当に神経が太い。これは誉め言葉だが」
「あたしの父親が、しょっちゅう死体を拾ってきましたからね」
うちはド田舎のド貧乏で、おまけに近くに自殺の名所になってる森があった。クソおやじは「宝探しだ」と言って、それはもう嬉しそうな顔で死体を拾ってくるのだ。身ぐるみ剥いで捨ててしまうのもあれば、ダッチワイフの代わりになるやつもあった。髪を切って売ったこともある。肉をそいで食おうとしたこともあったけれど、案外可食部が少なかったので長続きしなかった。
「あんたも苦労が多いな」
「ええ。でもその父親のおかげでこうやって都会に出られたし、仕事にもありつけましたから」
「俺はあんたが気に入ったよ。その調子で頼む」
一通り作業が終わったときには、もう朝になっていた。へとへとだったけれど、結構心地よい疲れ方だった。少なくともクソおやじが拾ってきた死体を裏庭に埋めさせられたときよりは、だいぶマシな気分だった。
「どうだい、続きそうか?」
事務所に帰るバンの中で、社長があたしに尋ねた。
「はい」
「そりゃありがたい。頼りにしてるよ」
朝の帝都はきれいだった。あたしが住んでいたところは人間が少なくて、早朝なんかまるで人類が死に絶えてしまったみたいに思えたものだ。でもここは違う。
「なんで他の人は、この仕事を辞めちゃうんでしょう」
疑問がふと、あたしの口からぽろっと出た。不思議だった。こんなまっとうな仕事なのに、どうして続けていけないのだろうと心から思った。
社長はハンドルを握りながら、ちらっとあたしを見て目を剥いてみせた。
「姉ちゃん、あんた本当に神経が太いよ」
「ありがとうございます」
「うん。でもね、俺だってこの仕事が嫌になるときはあるよ。昔、金持ちがあそこのスイートで遊び半分に殺した人間を片付けたときなんか嫌だったね。うん、買い方がわかれば、身寄りのない人間なんていくらでも買えるんだ。そういう死体を片付けながら何もかもが嫌になっちゃって、こんな街出て遠くへ行きてぇなって思ったよ」
でも社長は遠くへ行かなかったんですね、とあたしは心の中で言った。
都会だろうが田舎だろうが、その金持ちやあたしのクソおやじのような人間はいるのだ。どんなに遠くへ行ったって無駄だから、社長はまだこの街にいるのだろう。
事務所に帰ると、社長は作った手書きの見積もりをコピー機にかけ、出てきたものを一通り確認すると社判を押して封筒に入れた。
「俺はちょっと、これを渡してくる。あんたは仮眠をとって……」
そのとき、電話が鳴った。社長は受話器をとって少しの間話し込んでいたが、やがて渋い顔をして電話を切った。
「ちょっと急用だ。俺は今から出なきゃならなくなった。いや、参ったな……」
社長は手に持った封筒を眺めながら、ぶつぶつと言った。
「じゃあ、あたしが見積もりを渡してきましょうか? 渡すだけならできるでしょう」
「うーん……」
それはそうなんだが、と社長は渋った。でも思い切ったようにうんと頷いて、あたしに封筒を差し出した。
「じゃあ頼んだ。急ぐから、タクシーを捕まえて俺のいう住所まで行け」
「さっきのホテルじゃないんですか?」
社長はまた渋い顔になった。
「ホテルじゃねぇんだ。昨晩見た連中のとこだよ」
あたしの頭の中に、もごもごという芋虫の声が響いた。
高級住宅街の入り口でタクシーを下りたあたしは、社長に教わったとおりの道順を辿って目的地に向かった。目の前に現れた建物は、やっぱりここもホテルなんじゃないかと思うほど大きなお屋敷で、高い塀と鉄条網が周りをぐるりと囲んでいた。
インターホンを押すと、少し間が空いて『はい』と平べったい声がした。
「ミツバチクリーニングです。見積もりをお届けに参りました」
『ちょっと待って』
インターホンの前でぼんやり立っていると、大きな門の隣にある小さなドアがガチャッと開いて、見覚えのある眼鏡のお兄さんが顔を出した。
「新人のお姉さんか。お疲れさん」
「これ、見積もりです」
あたしはお兄さんに封筒を手渡した。お兄さんは封筒を手にしたまま、あたしの顔をちょっと時間をかけて眺めた。
「お姉さん、うちが何なのか社長に聞いたろ?」
またしても「下手うったら死ぬぞ」という言葉を思い出しながら、あたしはとにかく嘘をつくのはまずいと思った。
「はい、聞きました」
「それでその態度かぁ。あんた、肝が据わってるなぁ」
「ありがとうございます」
「そうだ、ちょうどいいや」
とお兄さんは手を打った。「お姉さん、ちょっと時間ある? 頼みたいことがあるんだよ。なーに、ほんの5分か10分くらいで済むし、簡単なことなんだ」
それくらいの時間なら、大抵何をされても我慢できそうだとあたしは踏んだ。
「大丈夫です」
「いいの? ありがたいねぇ。それじゃあこれ、頼むよ」
そう言ってお兄さんが差し出したのは、黒くて細長い布きれだった。
あたしは布切れで目隠しをされ、お兄さんに腕をとられて門の中に入った。足の下に石畳を踏む感触があったけれど、それが滑らかな床に変わって、周囲がざわめきに包まれた。何人もの人が周りにいるみたいだった。それからエレベーターに乗せられ、また少し歩いたところで目隠しを外してもらった。
「ああ。今更だけど、ここで見たことは誰にも言っちゃダメだよ」
「はい」
「あんた、ほんとすげぇなぁ」
お兄さんは目の前の、不愛想な鉄のドアを開けた。その途端、むっと血の匂いが漂ってきた。
そこはコンクリート打ちっぱなしの無機質な部屋だった。天井から太い鎖がいくつも下がっており、床に血が広がっている。青白い電灯が、天井から辺りを冷たく照らしていた。
部屋の中央に、男が一人座り込んでいた。真っ青な顔で、ひどく気分が悪そうだ。両目がカッと見開かれ、その前に生首が置かれていた。あたしのところからは顔が見えなかったけれど、それで幸運だったと思う。
「おい、どういうことだ?」
ドスの効いた低い声が響いた。あたしはその時ようやく、部屋の端っこに、昼間見かけた体格のいい男の人と、髪をくくった男の子がいるのに気づいた。男の子はもう血まみれではなく、きれいな服を着てお人形さんみたいに立っていた。
「掃除屋のお姉さんですよ、ファーザー。この人ならフェアでしょう?」
あたしを連れてきたお兄さんが言った。「ファーザー」と呼ばれた男の人は溜息をついた。
「お前はゲームが好きだな」
「ははは、ご存じのとおりで。ね、この人なら二人とも信用できるでしょ? 今日ミツバチに入ったばかりで、俺たちのうち、誰の味方でもなければ敵でもないって人だ」
「仕方ない。連れて来ちまったからな……これだ」
お兄さんはファーザーから何かを受け取ると、そのままあたしにそれを手渡した。ずっしりと重たいそれは、リボルバー式の拳銃だった。さすがの鈍感なあたしも血の気がひいた。
「シリンダーを回してくれ。そうだなぁ、三回だ」
お兄さんは手真似をしてみせた。あたしは言われたとおりに拳銃を持ち、右手を添えて「こうですか」と言った。
「そうそう」
あたしは言われたとおりにシリンダーを回した。一回、二回、三回。手が震える。上手くできただろうか。銃ってことは何かを撃つつもりなんだ。一体何を撃つんだろう。
「や、やりました」
「ありがとさん。どうぞ」
お兄さんは拳銃をファーザーに返した。それを受け取ったファーザーは、部屋の真ん中で座り込んでいる男の前に歩いて行った。
「おいお前、ロシアンルーレットを知ってるか……?」
そう言いながら男に拳銃を差し出す。あたしの頭の中で、血の気が引く音がした。
「五回自分で引き金を引いたら、殺さずに帰してやる」とファーザーは続けた。
拳銃を持たされた男の荒い息遣いが、あたしのところまで聞こえた。
「それじゃファーザー、どうします?」
眼鏡のお兄さんが場違いに明るい声を出した。「何発目に出るか、賭けるんでしょ?」
「六発目だ」ファーザーが言って、傷のある唇をニッと歪めた。
「慈悲深いなぁ。ジュージは?」
長い髪をくくった子が、「一発目」と答えた。
「じゃあ俺は三発目だ」お兄さんは嬉しそうに宣言すると、急にあたしの方を向いた。
「お姉さんは?」
おどけた口調とにこやかな顔だった。本当に愉快でたまらないという笑顔だ。今から人間の命がかかった賭けをするのが楽しくてたまらないのだ。
(あいつらがちゃんとした人なもんかね)
社長ならそう言うだろうな、と思った。この人たちは皆まともじゃない。
あたしは必死で、まだ誰も賭けていない数字を思い出そうとした。あんなに焦ったことは人生で一度もない。もし「下手をうったら」、この人たちはあたしひとりくらい、簡単に殺してなかったことにするだろう。目前に近づいてきた死は怖かった。あんなに怖かったことは今まで一度もない。
「……ご、五発目」
ようやく答えた声は震えていた。お兄さんは目を見開くと、笑い出した。
「はははは、お姉さん言うねぇ。いいよ、五発目だ。あんたやっぱり大したもんだ。いいタマだよ」
「おい、とっととそのお嬢さんを帰してこい」
ファーザーが言った。
「何発目で出たか、後で教えてやる」
「えーっ! 俺も見たいなぁ。嘘はなしですよ、嘘は」
「わかったわかった。早く行け」
「はぁーい」
あたしはまた目隠しをさせられ、少し足早になったお兄さんに腕をとられて、また同じ道を逆からたどった。門の外で目隠しをとると、お兄さんは「じゃ!」と言ってさっさとドアを閉めてしまった。ロシアンルーレットの見物に行くのだろう。間に合うかどうかわからないが。
あたしは長い長い悪夢からようやく覚めた気分だった。ふわふわした足取りで、タクシーを拾うのも忘れて歩いた。歩きながらようやく、「いいタマだよ」と言われた意味に思い当たった。
ロシアンルーレットの五発目。あと一発外せば生きて帰れるという瀬戸際の数字。そこにあたしは賭けたのだ。怖ろしいことをしてしまったことにようやく気付くと、手足が一気に冷たくなった。
こんな風に人の生き死にに関わったのは、初めてだった。
ミツバチクリーニングに書留が届いたのは、その次の日の夕方だった。
「おい、あんた宛だぞ」と社長があたしを呼んだ。
「おい、こりゃあ……いや、あんたが開けろ。『大蜈蚣』からだよ、こいつは」
それは映画配給会社の封筒だった。一体何が届いたんだろ……とビクビクしながら開けてみると、中から紙が二枚出てきた。一枚は小切手だった。
「おい、何だこの小切手。大金じゃねえか」
社長が青ざめた顔であたしを問い詰める。
そのとき、あたしはもう一枚の紙を眺めていた。それはありふれた白い便せんで、黒いインクで一言「賭けはあんたの勝ち」とだけ書かれていた。
ミツバチクリーニング 尾八原ジュージ @zi-yon
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