第6話 地の底の願い
額に落ちた水滴で目を覚ます。発光する鉱石の灯りだけの薄暗い洞窟に、叶は身震いした。
後ろに手を置くと無機質な感触がある。そこにあったものを見て小さい悲鳴が漏れた。
「これ……骨?」
人骨に驚くが、よく考えると骨の騎士のものだと理解した。どうやら落下の際に叶の下敷きになったことで、叶の命を生かして身代わりになったようだ。
とりあえず、どうにかここから脱出しなくてはならない。そのために現状の把握だ。叶は、アビスの階層そのものに鑑定の魔法を使ってみる。
【深淵邪神神殿アビス地下三百階層(最下層)】
邪神の神殿を封印したダンジョンの最下層。出現する魔物の力は凄まじく、英雄級の存在でもなければ生還は絶望的。
取得した情報に叶の背筋が凍り付く。三百階層まで落ちて生きていることに驚きながら、同時に生還は絶望的との情報に恐怖した。
それでも、諦めずに上に繋がる階段を探すことにする。運がよければ魔物に見つかることなく逃げることができるかもしれない。わずかなその希望に賭ける。
「こんなところで死なない……死にたくない……」
隠密のスキルを使って気配を消して移動する。どこまで効果があるのか分からないが、何も使わないよりはいくらかマシのはずだ。
当てもなく洞窟を歩き回る。すると、物音が聞こえたので叶は止まった。岩一つ挟んだ向こうから何者かの鳴き声が聞こえる。隠密の力をさらに強くして顔を覗かせた。
見えたのは可愛いハムスターだった。予想外の存在を見て思わず油断しそうになるが、念のためにハムスターを鑑定する。
「ひっ!」
そして絶句した。迂闊に近づかなかった自分の判断を賞賛する。
【イビルハムスター】
種族〈魔物〉 性別〈女〉 総合レベル380 ジョブ〈捕食者レベル227〉
完全に別次元の存在だった。天地がひっくり返っても今の叶が勝てるはずもない。
気づかれないようにそっと後ずさりする。だが、運悪く小石を踏んで砕いてしまった。洞窟に反響した音でハムスターが叶に気がつく。
「あ、しまった!」
ハムスターが笑って体を肥大化させた。真っ赤な瞳が叶を捉え、口から涎を垂らしながらハムスターとは思えない咆哮を轟かせる。
『グギャアアアアア!!!』
「きゃあああああ!!」
叶が一目散に逃げ出す。捕まったら殺されるというのは瞬時に理解できた。何も考えず、ただひたすら逃げることを意識して走る。
しかし、ここはアビスの最下層。そんな獲物を逃がすほど甘い魔物が生息しているはずがない。
ハムスターは強く地面を踏むと、一蹴りで加速して一瞬で叶に追いついた。背後から体当たりして叶の体を弾き飛ばす。何度も地面に打ち付けられた叶が呻いた。
それでも逃げるために立ち上がろうとする。が、違和感とともにバランスを崩して転倒してしまった。
「立ち上がれない!? なんで、足の感覚が……」
自分の足を確認した叶が言葉を失った。そこにあるはずの足がどちらもない。
ハムスターは満足そうになにかを咀嚼している。牙の隙間から叶が履いていた靴が見えたことで、ようやくハムスターに足を食べられたのだと理解し、痛みが襲ってくる。
「あああぁぁああぁぁぁ!! 痛い! 痛い痛い痛い痛い痛い!!」
噴水のように血が溢れ出し、歩くこともできない叶はもう死を待つだけの存在となった。
何度も死にたいと願ったことはあったが、現実の死がこんなにも恐ろしくて痛いものだと初めて知る。当然、彼女が次に願うのは死にたくないというただ純粋なことだった。
腕の力だけで逃げようとする。痛みと恐怖でおかしくなりそうになりながらも地面を這って逃げる。
「助けて……誰か助けて……っ! 死にたくない……死にたくないよぉ……!」
視界が涙で滲む。周りがよく見えないまま感覚だけを頼りに這う。
叶の足を食べきったハムスターがまたしても加速し、叶を押さえつけた。ハムスターは正面に移動し、叶の両肩を掴むと大きく口を開ける。どうやら生きたまま食べるつもりのようだ。
抵抗することも許されず叶の体はハムスターの口の中へ。全身がすっぽりと収まると咀嚼が始まった。
体中を牙に刺され、想像を絶する激痛から悲鳴を発する力すら湧いてこない。グチャグチャと自分の体が分解されていく音を聞きながら絶望に意識を沈める。赤く滲んだ視界に牙が迫り、右目を突き刺して眼球を抉り取った。飲み込まれていく目を見て、いよいよ意識が朦朧とする。
(痛いよぉ……助けて……聖……助けてぇ……)
全身の感覚はもう残っていない。もうすぐ完食されるということを察し、遂に完全に壊れようとしていた。
(どうして私ばっかりこんな目に……魔物に食べられて死ぬなんて……嫌だ……)
心臓に鋭い痛みが走った時、最後の言葉を発する。
「たす……けて…………」
「――いいだろう。その願い、この俺が聞き届けた」
何者かの声が聞こえた。その瞬間、暗闇に覆われていた叶に光が戻ってくる。
うっすらとした、それでも叶にとっては今まで感じたことがないほどの光が。
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