第6章

 加菜は玄関に立って茫然と外を見つめていた。発射台に向かって黄色い移住用ミサイルが去っていった方向をいつまでも。自分の身体に比べたら全然大事ではない血の繋がらない祖父母のはずなのに、心は悲しいと泣き喚くから胸を抑える。その心は加菜の心なのだろうか。加那の心が泣いているのを加菜は錯覚しているのだろうか。加菜はそれを確かめるために苦悶の表情を浮かべながら目を閉じた。

 真っ黒の鏡の前に全裸の加菜が立つ。二人。鏡の前に立つのは加菜一人なのに鏡には全く同じ身体を、顔を持つかなが二人写っている。

「加那ね。それに加奈も」

 鏡の二人の口は自らの意思を持って勝手に喋りだす。

「うん」

「そうヨ」

「言いたいことがあるから出てきたんでしょ?」

 加奈は黙って加那を見る。伏し目がちな加那の煮え切らない態度に痺れを切らした加菜が言う。

「文句があるなら言いなさいよ!」

「ごめん。ごめんね」

 真っ黒の鏡の中で、真っ黒の加那が真っ黒の涙を流す。頬を伝う加那の二筋の涙。

「私がしっかりしていれば加菜に辛い想いをさせることは無かったよね。勝手に助け合いながら生きていると思っていたの。でも、本当は私がいつも助けられてばかり。損な役回りばっかり押しつけてごめんね」

「違うわ。加那は全然分かってない。加那はまるで私たちかなが三人であるかのように話す。どれもこれもあなたがしたことなのに他人事みたいに傍観を決め込む。その根性が気に食わないのよ!」

 荒げる口の端から黒い筋が垂れる。どこまでも黒い血。

「分かっているよ。加奈に言われて気づいたの。加菜も加奈も私なんだよね。私がお父さんとお母さんを見捨てたの。私がステファニーを裏切ったの。私がお爺ちゃんとお婆ちゃんを移住用ミサイルの中にいれたの」

「そうよ。あなたがやったの。身体が同じという点からみても、私はあなたなのよ。加菜という名のあなたが自分の身体を最優先に生かすために他人を犠牲にしたの。全部あなた。全部加那がやったことなのよ」

 加奈は言う。

「それで加菜は満足ナノ?」

「私は加那が心の奥底で臨むことを実行しただけだもの。加那の身体を想ってやっただけだもの」

「じゃあなんでこの身体は震えているノ? この身体は嬉しがっているノ?」

「……。」

「加菜、私は辛い。愛する翁と媼がいなくなることが耐え難くて震えているのも私。でも、自分のことを最優先に可愛がって、翁と媼がいつか邪魔になると考えているのも私。全部私だってやっと気づいたの」

 加菜は答えない。

「信じてもらえないかもしれないけど、これからは強く生きていく。『わたし』として強く」加奈はその言葉を待っていたんだとばかりに満足げに、

「加菜、もう私たちに出来ることはナイ。加那は強くなれるカラ」

 加菜はうなだれるように崩れ落ちた。それは深い悲しみと希望を帯びた脱力感。

「私はもういらないの?」

「ううん、必要よ。わたし分かったの。いらない人なんていない。加菜と加奈がいたから私は今まで生きてこられた。加菜はどのかなも身体が同じであるのだから、人格が変われども加那なんだって思っているでしょ? でも、身体が同じだから私たちは『加那』なのかな? 私は違うんじゃないかなって思う。もしかしたら、皆加那で、ライで、ママで、パパなのかも。ママがパパをいつまでも介護するのは、ママにとってパパはもうママの一部分なっている、つまりはママとパパは一心同体になっているからじゃないかな。ライだってそう。ライにとって祖父は自分自身と変わらないほど大切な存在になっている。多分、ママたちにとってパパは他人ではなく、『わたし』なのよ。身体の違いなんて関係ない。わたしたちはその人のことを大切に想ったら、他人ではなく同一の自己である『わたし』になるの。だから、わたしのためにわたし(パパ、または祖父)の幸せを望むの。誰かを大切に想った時点でその人はわたしになる。私はママが大切で、加菜と加奈を愛していて、ライが好き。反対に、ママは私を愛してくれているし、加菜と加奈は私を大切だと思ってくれていて、ライは私を好いてくれている。おそらく、全人類は心の奥底で多重人格であるだけで、互いに愛し合うことができたなら私たちはみんな『わたし』という一つの人格なんだわ。無駄な人や人格という概念は存在しない。両親や友人、祖父母や近所のお兄さんまで誰一人欠けてはいけない。皆が支えあって、それぞれの存在が『わたし』を作り上げるために必要不可欠なんだ」

 鏡から抜け出た加那の腕は優しく労るように加菜を包む。加菜の頬を伝う涙は一瞬ごとに薄まっていって、完全な透明になった。私は一つなのだ。

「じゃあ、私は加那だけじゃなくて、『わたし』のために必要な存在なの?」

「えぇ、そうよ。ね、加奈」

「ウン」

 黒い鏡は割れた。三人を隔てる障害物は何も無くなり、一つに合わさるように抱きしめあった。三つの像はブレはじめ、六つの像、そして、無量大数の像になった後、一つの『わたし』へと昇華されていく。さんざめく星空に投げ出されたわたしの心と身体は宙に舞う。

「だからこそ、かぐや様を止めにいかなきゃ。私たちは助け合わなきゃ! 皆で月の危機を乗り越えないと、わたしは死んでしまう。財政難とか、食料難よりも先に心が無くなってしまえば元も子もないわ」

 加那は走り出した。加那の人生で出会った全ての人も、顔も知らないあの子たちが加那の身体で混ざり合っていく。今までの私が剥がれ落ちて美しい虹色になっていく。中空の月の空を覆う大きな虹の架け橋はまっすぐ城へと繋がった。


 かぐや十四世は美しい彼女に見惚れる。いつの間にか夜空を覆っていた虹を我が物顔ではべらせる加那は、かぐやの十二単なんかよりも遥かに美しく見えた。一歩も動けない門番たちをすり抜けて、

「かぐや様! お話があります」

 勢いよく突き抜けるその美声は、銀色に光る一本の剣を連想させる。目のカラーはただ煌めく確固たる自信の象徴。

「かぐや様、この計画は中止にしましょう。月が幸せになるには誰一人欠けちゃいけないんです」

「どういうことだ」

「月の皆の心はこのままだと死んでしまうんです。要らなくなった人なんていないのに、物的生産性が無いことを理由に追放すれば、皆の心は荒んでしまう。媼も翁も紛れもなくわたしたちであって精神的支柱なんです」

 眉をひそめて小首を傾げる。

「心が荒む? このまま介護を続けたって心は荒む。財政的に余裕の無い生活が皆を苦しめる」

「違います。身体はどんなに辛くとも愛する人のために頑張れる。物質的な生産性は二の次でいい。ただ隣にいてくれるだけでいいんです。全人類の幸せで、やっと私の心は満たされる。幸せでお腹いっぱいになるんです」

 かぐやは、加那が全て言い終わるその前に扇子を振るって宙を叩いた。

「甘い! 犠牲の無い幸せなど存在しない」

 加那は一歩も引かず、

「私たちは互いを愛することができたなら、一つのわたしになれる。逆に、皆がわたしであるという意識を持つことができたなら、互いに愛することができるのではないでしょうか」

 それは逆転の発想であった。荒唐無稽とも思える考えであるが,加那の瞳の虹色が圧倒的な希望となってかぐやを包む.

「私はわたしを愛したい」

 加那の周りを兎が覆いつくす。生産性を持たずにただ跳ね回るだけの彼らなのに、光って見える。その理由は一人一人の心の中にあった。加那はそのうちの一匹を抱きかかえてかぐや十四世に差し出した。

「大好きな兎は皆わたしであって、不必要なあなたではない」

 ――かぐやの口から零れたのは瑠璃色の明るいため息。信じてみたくなったから。あぁ、第三の掟。

「『大好きな兎を愛し続けること』とはそういうことであったのか。私たちに恩恵など何ひとつ与えてくれはしないのに、兎をどうして可愛がらねばならんのか。それは傲慢な問いであったのか。兎も老人も私も揃って一つのわたしなのか。私はわたしを追放しようとしていたのか。私の心となって支えてくれていたわたしを殺そうとしていたのか」

 かぐやは兎を抱える。クリクリとした目玉は愛おしい。白い、白い毛を労るように撫でれば兎は嬉しそうにその目をしぱたかせる。愛でお腹いっぱいになった感覚はすぐそばにあった。

『大好きな兎を愛し続けること』

  ⇕

『大好きなわたしを愛し続けること』

 花奈はまだ温かい夫の手を握り続けて離さない。加那にとって意味の分からなかった母の愚行は今や美しい輝きを持って胸に刺さる。

 移住用ミサイルは回収されて月は元のレゴリスまみれの銀色になった。月の財政が厳しいことは相変わらずであったが、心なしか皆晴れ晴れとした穏やかな表情をしているように見える。恐らくそれでいいのだ。愛する人がそばにいる。愛する人を守ってあげる。その愛する人は間違いなくわたしであるので、私たちはわたしたちのためにわたしを介護するのだ。


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