第2章

 ワープループを抜けると月であった。夜の底がレゴリスになった。加那は、私にとって大きな一歩だ、と呟きながら久しぶりの大地を踏みしめた。月の砂漠の真ん中にある入国ゲートは漢王朝時代を彷彿とさせる煌びやかな宮殿になっていて,加那は朱色に引き込まれるように一列に並んだ。加那の前に並んでいる者たちは、半分が加那と同じ入国前診断合格している烙印ありの者たちであったが、もう半分は完全な飛び入り参加であった。月に行くチャンスを与えて、ニューワールドを援助するべきだ。抽選で選ばれた者は飛び入りで入国検査を受けることが出来る。優しいかぐや十三世が十二世の反対を押し切って作成した法は今でも続く。ただ十三世の頃とは違って飛び入り参加組はほとんど落ちてしまうので、真っ当な人間なら会社を休んでまで来ない。つまり、ここにいる飛び入り組は真っ当な人間ではないわけで、次々と月の門番にワープループで送り返されてしまうのだった。

 加那は自分の番がくるまでココナッツミルクガムを噛みながら、かぐや王国での生活を夢想していた。加那は両親想いの女なので、やはり描く未来は三人での生活であった。六分の一の重力で飛び跳ねる花奈と加那。父は寝たまま高く宙に舞う。月の兎の肉をフライパンで炒めるとどんなソースをかけても美味しい。半開きになった父の口に肉を放り込めば、より一層長く舞うのだ。加那が思春期の頃にほとんど死んだ父。ちょうど父の匂いが嫌いになったあの日、脳の血管が詰まってこの世を捉えることが出来なくなるとは悲惨にもほどがある。嫌いだった父は時が経つほど大好きになっていったが、今はすでに厄介になっている。一つの命が二つの命を奪うことになるのなら愛はとんでもない大罪である気がした。花奈は加那との手は離したくせに父との手だけは絶対に離さない。たとえ握り返されることが無くても絶対に離すことはないのだ。正しい重力で沈んでいく花奈と父。六分の一の重力に逆らって上がっていく加那。やっぱり未来を考えることは辞めておくべきだった。

「次の者、前へ!」

 丸を半分にかち割ったみたいなヘルメットを被り、金色の袈裟を着る門番が加那を見て言う。本当は言わなくても来るのが普通であるので、門番は声が裏返ってしまった。

「あ、はい!」

 加菜は加那が心配だった。よりによって検査前にナイーブになってしまうとは予想できなくて、自分が代わりに加那の身体を借りようと思ったものの、加奈に精神の袖を引っ張られてしまった。

「お前は飛び入りではないな」

「えぇ」

「では、振るい落としの儀はパスしよう」

 明らかに人を殺せそうな道具が回収されていく。月に入国したいなら腕を献上しなさい。多分、そう言われれば誰もがブルブル震えてそれを持つことは出来ないだろう。それが回収されるのを門番は確認すると言った。

「では、最後の課題を出題する!」

『月の兎を撫でてみなさい。ただし、月の兎は月にしかいません』

 加那は笑った。気づいたからだ。入国前診断を通過した者はほとんど入国が出来たようなものだという意味をやっと。おそらくインタビュアーから渡された過去問題集にも注意書きがあったはずだ。ただし、蓬莱の玉の枝は月にしかありません、と。しかし、加那は生来焦り症であったために問題集の下に書いてあった注意書きを読み飛ばしていたに違いなかった。

「口頭で問題を出すなら分かっちゃうよ~」

 気の抜けた返事をしながら門番のおでこにキスをした。感謝の証。挨拶のキス。加那は優しい女だった。

「月の兎を撫でるために、かぐや王国への入国を許可してください!」

「許可する!」

 扉が開いた。加那の足元の扉が。皆、張りぼての宮殿には興味が無い。急降下。月の地下にあるかぐや王国へは五分もかからなかった。


 かぐや十四世は悩んでいた。三つのルールがこの国の首を絞めているのは明白であったから。千年前、かぐや一世は後悔していた。自責の念は羽衣の効果を封じた。思い出しては袖を濡らす。父と母のような存在の老夫婦を地球に置いてきたことを。絶望が彼らを襲ったに違いない。娘を奪った月を夜な夜な見上げては悔し涙を流したに違いない。媼はもう一度かぐやに会いたいと言いながら老衰し、翁は竹藪の中で生を求め続けて命尽きた。一度与えられた希望の味のせいで、絶望の味がより一層際立った壮絶な最後であった。

『老人をいたわること』

 罪滅ぼし。罪悪感。かぐや一世がこの掟を成立させたのは無理も無かった。彼女の親密な従者たちも同情の顔で了承したし、かぐやの本当の父と母は自分たちのことを想う娘の優しさと勘違いしていた。

 世代交代のとき、次のかぐやに成る者は尼人の部屋に呼ばれる。質素な畳の部屋が先任のかぐやの部屋だ。

「かぐや様、チコでございます。」

「よく来たチコ。お主が次期かぐや候補選で当選した者だな」

「えぇ、その通りです」

 障子挟んで頭を垂れる。正直、老婆と言って差し支えないか細い声だ。若々しいエネルギーに満ち溢れたチコはかぐや十三世の顔を知らない。というのも、かぐや十三世はもう十年も前に表舞台から姿を消して、裏でずっと執政をしてきた。だから、かぐや十三世のお付き人以外は誰も彼女の現在の顔を知らないのだ。

「チコ、お主は誰に育ててもらった?」

「祖父母にございます」

「誰が死なば悲しい?」

「祖父母にございます」

「月のルールは知っておるな」

「勿論でございます」

「老人を労わりなさい。たとえ、これが無理難題であったとしてもめげてはならない。一世は悔やんでおられた。月に父と母を連れて行くという無理難題をこなせなかったことに」

 十三世はまるで一世本人のように悔しがる。チコにはそれがどうしてなのか分からなかったが、長らくかぐやの名を冠した人物であったことに答えがある気がした。チコは力強く言う。引退を労う言葉は自分の決意にあると思ったから。

「そう伝え聞いております。かぐやの名を受け継ぐ以上、私も老人が幸せに暮らせる国に尽力致しましょう」

「ならば、良し。チコ、そなたは明日からかぐや十四世だ」

 小太陽ライトサンが沈む。月面上に住むことなど出来やしない。まさか月がマトリョシカのように内部にもう一つ球形の大地があって更には大気や水が存在することなんて地球人は五十年前まで知らなかった。そして、その中で地球によく似た生態系が作られ、小さい太陽と月が交互に昇ってくることも同様に。まるで小さい宇宙のよう。

 だだっ広い城のベランダで夕焼けにふける若いかぐや十四世はこの国の行く末が心配でならなかった。あの日、かぐやの名を譲り受けたあの日からいつも悩まされている。国の状況は至ってよくない。地球やニューワールドに気付かれないように隠しているだけで、王国の財政は限界を迎えていた。超高齢社会。老人は増え、生産能力は日に日に衰え、若者は老人を労わるために生きる。三十代以下の人口比率は三割を切り、町中に老人が溢れかえっていた。医学や科学がどれだけ発展しても、多少寿命が延びる程度でしかない。人はいつか死ぬ。人体補助具でも支えきれないぐらい衰えてやがては命尽きるのだ。老体を生かすには外部の補助、つまりは若者が介護するほかない。若い命が消えゆく命のために従事する現状の先に未来が無いことぐらい兎でも分かる。全ての老人を労わることはすでに無理難題となっていた。

「かぐや様、お夕食の準備ができました」

 扉の向こうでかしずくのは彼女の従者の内で最も若い女。地球由来のメイドの恰好が似合うのはやはり彼女が若いから。

「お主はなぜ私に仕える?」

「この国の未来を創る女王様だからでございます」

「その未来が破滅の未来だとしてもか」

「えぇ、破滅の未来を創りあげる女王に仕える無理難題もやってみせましょう」

「そうか。ならば、老人を労わり続ける良い国をぶち壊す悪魔の女王に仕える無理難題はどうだ?」

「もちろん、やってみせましょう」

 無理難題は無理難題でも未来に繋ぐ無慈悲な無理難題の方が解きがいがある。かぐや十四世は心に決めた。国の根幹である三つの掟を破る無理難題を解いてみせる、と。

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