第1章
「三重人格であることで苦労したことはありますか」
「いいえ」
「それはどうしてですか?」
「どうしてと言われても」
静止軌道上のニューワールド(居住用宇宙船)に住む新世界人の一人である加那は困っていた。アンケートに答えれば月にあるかぐや王国に移住できる権利が与えられるというので喜んで受けたのはいいものの、アンケートの意味が分からない。袈裟を着た女性インタビュアーがため息をつく。
「では、かぐや王国の三つの掟はご存知ですか?」
「老人をいたわること。無理難題にめげないこと。そして、大好きな兎を絶対になにがあろうとも愛し続けること」
「その通りです。では、答えてください。どうしてですか?」
「加菜は勉強が得意で、加奈は私の相談役。私のために私を成り立たせてくれる優しいパートナーだから、苦労どころか感謝しています」
「いいでしょう」
初めて見せた笑顔は甘ったるい。それでも加菜は彼女が満足できたなら良いかと気にしないことにした。
「かぐや王国ではそういった無理難題があなたを襲うでしょうが怯んではいけません。絶対に答えはあるのです」
加那は握手をして頷いた。月だろうが宇宙船だろうが挨拶が変わらないという事実がごく微小に加那を安心させた。
コミュニティホールには次の予定が入っているだろうから用事が済めばすぐに出ないといけない。加那はドアから退出するが、インタビュアーは月の人間なのでワープループから退出する。この黄色い輪っかをTB社は短距離ワープできるフラフープでワープループと名付けたらしいが、それならワープフープなのではないかという苦情が殺到したらしい。うるさい。黙って使え。当時の社長が全国放送でそう怒り散らしたので皆どうでも良くなって今に至る。
ニューワールド内はSFを意識して銀色で統一するというお決まりごとがあるので、銀色恐怖症の者は住むこともままならないが、幸い加那は銀色が大好きなのでなにも感じない。やっと月に移住できることを家族に教えてあげるために地球に電話をかけた。
「ママ! 久しぶり。私だよ。加那だよ」
「加那! 久しぶりね。元気?」
「えぇ、もちろんよ。この通り」
加那はシュシュっとパンチを空に打つ。ハンズフリーであることを存分に活かしたステップが花奈に伝わるわけがない。
「加菜も?」
「お母さま勿論です」
「よかったわ。加奈も?」
「ハーイ! あいらぶ花奈デス」
加那は代わる代わる目の奥のカラーを切り替える。加那の表情筋が人よりも柔らかいのは三人分動くからだろう。
「ママ、報告があるの」
「報告?」
母はひび割れた古いマンションの一室で、シワシワの手で受話器を持つ。はがれた壁の向こうにはベッドがあって最愛の夫が死の際で眠る。彼の腕に繋がれた点滴はエナジードリンクを混ぜ合わせたみたいな灰色で、元気になる未来は到底見えない。三百日が曇天で、食べ物が栄養剤だけになっても住み続けるのは変わり者ぐらいだ。しかし、そういったなにかしらの理由があって地球に残った変わり者たちがまだ数万人ほどいるとされている。荒廃が遅れている地域では、地球歴でいうと、西暦一六〇〇年代ぐらいの暮らしを営めるらしいが、少なくとも日本は違った。老夫婦が生きるには環境が過酷すぎる。インフラ整備も自給自足もままならなくなっていた。
「私ね、月にあるかぐや王国に行けることになったの」
「良かったじゃない。かぐや王国は掟さえ守ることが出来ればとても楽しい国だと聞くわ」
「そうよ、年長者をいたわる国。ねえ、だから……」
言いづらそうに口ごもる。加那はこのとき母の大切にしていた洋服を汚した思い出をふっと思い出していた。
「なに?」
「だから、私と一緒に月にいかない? 私が先に行って様子を見てくるからそれでいい国だったら、」
存外言い出してしまえば滑らかに続けるもので、銀色の床に文字を滑らす。しかし、花奈は遮るように、
「無理よ。お父さんがいるもの」
「そりゃそうかもしれないけど。でも、パパはもう七年も目を覚まさないじゃない。そのまま地球にいたらママだって」
彼女らの父は、また夫は病気で意識を失った。身体も動かないので身体も失ったと表現してもいいのだが、それは余りにも可哀そうすぎる。家族全員でニューワールドに移住できるチャンスは幾らでもあったのに、加那以外は地球に残った。父が銀色恐怖症であるために拒んだのだ。言うまでもないが、父の意識は無いわけなので父を想って妻の花奈は移住をしなかったということになる。夫が安心できる場所で看病がしたい。花奈は優しい女であった。
「いいの。私はお父さんの面倒見ないといけないから」
「でも、」
「あなたは私のことを気にしないで幸せになりなさい」
何が主成分か分からない雨を見つめて花奈は笑う。垂れ下がった眉は悲しそうなのになぜ笑う? あぁ、雨季が始まる。
「そんなこと…… そんなことできるわけがない!」
加那は電話を切った。当然涙を流していたが、その涙は自分ではなく母を想う涙。美しい涙だった。宇宙にいるからといってシャボン玉のように上に浮かんでいきはしない。ニューワールドは地球と同じ重力で保たれていた。加那の涙は北欧人の血が究極に薄まった日本人の顔に対して良いアクセントとなって下にゆっくり落ちていく。悲しい、はそうでないといけなかった。銀の床は途切れることなく、永遠につながってゆく。空は無い。そこには天井があって勿論銀色だった。
加那は明日に迫る移住の準備をしていた。地球からニューワールドに行くにはロケットが必要なのに、ニューワールドから月に行くにはワープループでいける。最初の入国手続きをしてしまえば簡単に行き来できるので、正直用意することなんて何もない。じゃあ、加那は何の準備をしていたかというと、それは入国手続きの練習だ。昨日インタビュアーから合格を頂き、回答者の烙印を肩に押して貰っているのでほとんど入国手続きは完了しているが、最後の課題が残っている。加那はあの日からほとんど一日中自分の部屋でインタビュアーから貰った入国審査過去問題集を見て勉強している。加那の住んでいるヨーデル区は子供が多く賑やかなところなので、勉強するには最適ではないが仕方がない。マリノー区の真空無音ルームの一室を借りることも出来ないほどに金が無かった。残念なことに地球産まれは差別されがちであり、学も能力もない加那は先日の派遣仕事もクビになったのでギリギリの生活していた。だからこそ、ここでかぐや王国に移住して一発逆転を狙うしかない。二十二ページを開く。一昨年前の第一問は以下だ。
『蓬莱の玉の枝を持ってきなさい』
加那は思った。馬鹿馬鹿しい、と。かの竹取物語で、かぐや姫に求婚したくらもちの皇子と同じ課題を課されたわけだ。当然そんな代物はたとえ宇宙世紀となったいまでも存在しないので、こんなものは千年経とうが無理難題である。それでも加那はこの問題の答えを必死に探す。時間は刻々と過ぎていき、目が覚めると夕刻だった。焦りや不安を覚えるよりも笑いが先にきてしまうのは加那の良いところ。腹が減っては戦は出来ぬ、と料理を始めた加那は閃いた。くらもちの皇子がそうしたように自分もどうにか偽物でも作って誤魔化してやればいい。宇宙世紀ともなれば皇子よりも精巧な偽物を創ることなど簡単だろう。加那はいそいそと冷蔵庫を開けて中を見た。玉ねぎでいいか。蓬莱の玉の枝でも本当の玉ねぎでもほとんど変わらないだろう。加那は先ほど述べた通り楽観的な性格だった。玉ねぎの皮をむくと丸々鍋にぶち込んだ。綺麗に見せた方が蓬莱感がある気がするヨ、と加奈がアドバイスしてくれたので鮮やかなチーズも一瓶入れた。煮込みの間に加那は次の問題に進む。
『マジで、蓬莱の玉の枝を持ってきなさい。次ふざけたら王国入れないよ。マジで! これ本当のやつだから!』
はて、どういうことだろうかと首をかしげる加那の中で加菜は呆れるように問題を眺めていた。無理もない。加菜は頭が良くて常識人であるから、加那も加奈も問題もふざけているようにしか見えない。そもそも加菜はかぐや王国に行くのは反対なのだが、加那が行きたがるからしょうがなく付き合っている。加菜はため息をついた。加那はため息をついた。分からないことがこんなに苦しいことだとは知らなかったから。投げ出したペンは床に弾かれ転がっていく。一問目の答えが本当の玉ねぎのチーズトッピングでないのであれば他に何があるだろう。真四角の銀世界から見える月は輝いている。窓の景色だけが良いところのこの部屋。月の兎を夢見ていると、突然来客ダンスミュージックが始まった。
「加那! 加那! 早く出て来てちょうだい」
外モニターに目を通すとステファニーが恥ずかしそうにタンゴを踊っている。練習不足が酷いせいかまともにステップを踏めていない。
「どうしたのよ」
意地悪く加那はモニター前から動かない。後に加那はこの時の心情を、好きな子をいじめたくなる男子の気持ちと解説している。
「いいから、まずは出てきなさい!」
想像していたよりもステファニーが怒るので慌てて加那はドアを開いた。後に加那はこのときの心情を、好きな子に構ってほしかっただけなのに泣かせて嫌われた男子の気持ちと解説している。
「あんたいい加減にダンスミュージック設定を解きなさい!」
「でも、楽しいでしょ?」
「楽しいのは宇宙産まれの馬鹿どもだけよ」
金色のちぢれ髪を左右に振りまきながら怒る。ニューワールドにおいて呼び鈴がダンスミュージックに設定されていた場合には、来訪者は玄関でその音楽に適したダンスを踊って待たなければならない。加那は,今週はタンゴを設定していたためにツービートの音楽が流れたのだ。
「こんなのが流行るなんてやっぱりニューワールドはどうかしている。握手で満足できないからって踊るなんて発想に普通は至らないわよ」
「そうかな、私は結構好きよ。怖いおじさんが躍るフラダンスは滑稽だもの」
「薄気味悪いわ」
ステファニーは五年ほど前にニューワールドに行く際の定期移住便で知り合った加那の友人である。皆が見捨てた地球を元の綺麗な惑星に戻すためにNASAで働くスーパーエリートだ。たった五十年前のことであるのに、ニューワールドに住む者は地球にあまり関心が無くなってしまっていた。核戦争の影響で、人類は三十万人程度になり、地球を再生させるよりも、この広大な宇宙のどこかにあるだろう元々綺麗な星、そう例えば月のような星に移住するほうが簡単であると考える人のほうが多かったからだ。すなわち、ステファニーはマイノリティだった。彼女は衰退の影響とはいえ、自分たちが壊した地球を見捨てて外に行きたがる新世界人が許せなかった。なかでも地球の歴史を地球史などという造語を作って過去の遺物としようとするニューワールド産まれが、特別に嫌いだった。そんな激しい嫌悪を糧に生きている彼女であったが、性格が汚いわけではない。むしろお節介焼の姉御肌だ。だからこそ、加那は彼女を好いているし、ほかのかなもおなじなのだ。
どんぐりのように大きな目と、ピラミッドのように高い鼻を近づけて彼女は聞いた。
「あんた、かぐや王国に行くの?」
「えぇ、そうなの。明日から憧れの国民になれる。どうしてそれを知っているの?」
「明日の月移住者リストにあんたの名前があったからよ。私はNASAの職員よ」
「あら、そういえばそうだったねぇ」
のろけ話を話すが如く加那がニコニコ笑うものだからステファニーは再び怒ってしまう。
「月は無慈悲な夜の女王よ!」
加那は理解できないから押し黙る。わなわな震える唇に目を奪われるのに性的な意味はない。ニューワールド嫌いなステファニーは月がこの上なく嫌いだった。貧しい地球やニューワールドに対して知らん顔して豊かに生きる彼らの態度も考え方も無慈悲な味で、その最たる女王のかぐや十四世は殺したくて仕方がないほど嫌いだった。数少ない友人であろうが月に行ってしまえば裏切り者にしか見えなくなる。ステファニーは加那が月の色に染まることは許せなかった。
「でも、良い国だって隣のおばさんに聞いたよ」
「見せかけだけよ。それにあそこはね、無理難題が解けないと暮らしていけないのよ」
「大丈夫だよ。加那は謎謎得意だもん!」
「あんたってもう本当にどうしようもない。じゃあ、入国審査の過去問は解けるの? あれは月での難解な常識を理解してないと解けないそうよ」
ステファニーが呆れるように見つめると加那は得意げな顔で待っていて、と言った。煮込みに必要な最低時間はとっくに過ぎていたので蓬莱の玉の枝が完成しているだろう。加那は二問目で問題集に怒られたのをすっかり忘れていて、蓬莱の玉の枝は本当の玉ねぎであると錯覚していた。
「というか、なんでそもそもあんたは入国前診断に通過できたのよ」
玄関前でぐちぐち文句を言うステファニーの目の前に大鍋が来た。底にはグニャグニャの透明な物体に黄色いチーズらしきものがかぶさっている。
「ほら、これが蓬莱の玉の枝だよ」
ステファニーは茫然として見つめ返すが、加那は得意げな顔をするだけで説明はない。踊って怒って茫然として。なんだか笑いが込み上げてくる。どうでも良くなったのだろう。加那は加那だ。地球に居てもニューワールドに居ても加那なのだから、月に行っても加那であり続けることが分かってしまった。大丈夫だろう。月の全てが嫌いになったとしてもステファニーが加那を嫌いになることはないだろう。それに、加那にはかながついている。心配する必要などなかった。ステファニーはひとしきり笑うと、玉ねぎを二口食べて帰ってしまった。感想はまずいでも美味しいでもなく気持ち悪いであったが、どうみても気持ちよさそうだった。
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