霧の道を歩く



 ミチルは失敗した。私はそれを残念に思う。黄泉の国から死者を連れて帰るには、幻影に惑わされることなく正解を選ばなくてはならなかった。だけれど、ミチルは間違えてしまった。キノハは地獄に落ちることが決定してしまったし、ミチルもそうなることになった。本当に残念で仕方がない。二人は帰るべきだったのだ。

「どうしたの? キノハ」

 濃い霧の中、私の半歩先を歩むミチルが振り返った。気付かれたというわけでもないだろう。生前のキノハはあまり表情を変えない子だったし、誕生日でもぶすくれた顔をしていたくらいだ。ではなぜだろう。そう思っているとミチルは目を伏せながら自嘲しているかのように微笑んだ。

「足が重そうだわ。まるで帰りたくないみたい」

「帰りたいに決まってる」

 私は鼻を鳴らした。キノハの癖だった。

「君とは違うんだ。やりたいことが山ほどある」

「そうね……」

「そうだ」私はまた鼻を鳴らした。

 ミチルは頷くと霧の道を再び歩み始めた。


「ねえキノハ」ミチルは言った。「恨んでる? 私のこと?」

「別に」私は答える。「君みたいなのをいちいち恨んでたらキリがない」

「ねえ……それ本当?」

 ミチルの声は震えていた。精一杯震えを隠そうとしていたが、丸分かりだった。仕方がないことではある。そもそもキノハが死んだのはミチルのせいなのだ。

「嘘よ……うんざりしてなきゃおかしいわ」

「君の泣き言を聞くことにか?」

 そう言うとミチルは俯いた。

「ひどい……」

「私がひどい人間だというのはとっくに知っているはずだが?」

「知ってるけど……」と言いかけて不意にミチルが鼻を鳴らした。「何かにおわない?」

「におわないが」

「あの……腐った肉みたいな……」

「生と死の狭間を歩いているんだ。そういうこともあるだろう」

「でも死別官のところにいた時には何も感じなかったわ」

「出口が近いということだろう。何も不思議じゃない」

「そ、そうね。そうだわ。まっすぐ行けば着くのよね……光が見えてきたら終わりなのよね?」

「そうだ」

 ミチルが足を止めた。額には汗が浮かんでいた。私のことをじっと見つめてきた。

「何で知ってるの? あなたは霧の道の説明を受けてないはずなのに。あそこには私しかいなかったはずなのに」

 気付いたか? 幻影の姿は本物と全く変わらないはずだが。

 私は屹然とミチルを見返した。いやそうではない。私の言動から無意識に違和感を感じ取っただけで、ミチルはまだ確信に至ってはいない。ただ確かめたいだけだ。

「死別官は私たちに時々そういう話をするんだ。きっと現世を思い出させるためだろうね。全く意地の悪いやつだよ」

「そうなの……」ミチルは言った。「私は正しいあなたを選んだのね? そうよね?」

 私は頷いた。

「でもどこまで歩けばいいのかしら……」

 深い霧はどこまでも続いている。数メートル先さえ見えない。

「わからない。とにかく進まなきゃ」

「ええ……」


 それからしばらく無言だった。霧の中を互いに顔を伏せ、歩き続けた。次第に強まっていく腐った肉のようなにおいが気になるようで、ミチルは時折鼻を鳴らした。そうしていると、一瞬、霧の向こう側に赤い光点がきらめいた。ミチルは気づかなかったようだが、先ほどから注意していた私にはわかった。

 出口は近い。私は自分の仕事を果たせそうで何よりだった。

 ぽつりとミチルが呟いた。

「あなたを巻き込むだなんて……私はもう二度と自殺なんてしないわ……あんなこと……」

 私はキノハの死因を思い返した。彼女はマンションの屋上から飛び降りたミチルの下敷きになって死んだのだ。首がストローみたいに折れ曲がってしまったのだという。ミチルの方は肋骨が何本か折れ、頭蓋骨にヒビが入ったこと以外はたいしたことがなかった。

「でも今になって思うの。自分の部屋で一人で死んでいればって。そうしたらあなたは……」

「キノハは君を助けたかったんだと思うよ」

「え……?」

 信じられないといった表情をミチルはした。

「どうして……私なんかのためにキノハが……そんなことするはずがないわ」

 ミチルの瞳は揺れていた。

「でもそうした」

「……わからないわ。あなたは私のこと嫌いなはずだったのに」

「キノハはそうは思っていなかったよ」

「でも」

「キノハはそうじゃない」

 ミチルが何かに気づいたように息を呑み、足を止めた。そしてかすれた声で私に言った。

「……私は間違えたの?」

「……」

「ねえ」

「……君がここに来た時、キノハは悲しんでいたけど、喜んでもいた」

 前方には赤い光がはっきりと見えていた。血のように赤いその光は、門の形をしていた。腐臭もそこから漂ってきている。

 ミチルが戻ろうとしたのか、背後を振り返った。しかし霧はもう存在していなかった。代わりにはあったのは暗黒だった。気がつくと門の周囲はまるで明かりのスイッチを消したみたいに闇に染まっていた。赤い光だけが私たちを照らしている。

「どうしてなの……?」ミチルはその場にへたり込んだ。「なんでこうなってしまうの?」

「これは決まりなんだよ。仕方がないことだ」

「でも……こんなのって……」

「さあ、行こう。出口はすぐそこだ」

 私はミチルの脇を抱え、起き上がらせた。ミチルは嗚咽していた。

「ごめんなさい……キノハ。あなたを選べなくて……ごめんね……ごめんね……」

「泣くなよ。キノハが鬱陶しがるぞ」

 キノハと同じ顔をした私の胸の中で、ミチルは泣き続けた。私は地獄でも二人が一緒になれることを願うばかりである。








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