「あ、久しぶり」
と改札を通り過ぎたら声をかけられた。思わず振り返ってしまったが、人ごみの中に〈久しぶり〉の人間なんていなかった。しばらく辺りを探しても見つからなかった。きっと私じゃない誰かが呼ばれたんだろうと踵を返そうとすると、改札の向こうから、こちらに小走りで来る女性が見えた。女性の視線は明らかに私に向けられていた。
「おー、待って、すぐ行くから」
せかせかとポケットからPASMOを出し、読み取り部にそれを叩きつけ、女性は改札を通り過ぎた。そして私の前に立つとニカッと笑った。
「おっす! 久しぶり!」
「……はあ」
背は高く、何かスポーツをやっているみたいな肩幅、日に焼けている肌、それに似合わない童顔……改めて見ても、全く見覚えのない人だった。
「……あのう、誰かと間違えてませんか?」
「えっ? あははぁ! マジ! 忘れたの?」と女性は言った。「あたしだよ! 田中だよ!」
女性は馴れ馴れしく肩に手を置いてきた。服の皺と一緒に皮膚までよじれるのを感じた。
「ほら、昔一緒に遊んだじゃん」
「遊んだ……?」
「ほら、放課後にカラオケとか。ってマジで忘れてんの?」
口をすぼませ、女性は不満そうに言った。
「忘れてるとか……そんなんじゃないと思いますが」
記憶にそもそもない。
私の交友関係には、このように初対面の人間にグイグイ来るタイプの、言ってしまえばチャラい人間は存在しない。
「うっそマジで! スイパラとか行ったじゃん」
「知りませんよ。行ってないです」
歩き出せば離れていくだろうと思い、肩を掴まれたまま歩き出すと、女性もそのままついてきた。その間ずっと「いやーマジかぁ」とか「田中だよ、知ってるっしょ?」とか言って、駅を離れ、バスロータリーを抜けてもついてきた。いつまで経っても離れてくれる気配がなかった。この田中とかいう女性は、ひょっとして家までついてくる気なのだろうか。しかし得体の知れない田中に恐怖するより、いい加減しつこいという怒りが勝った。
信号がちょうど切り替わるタイミングで私は、「もういいですか?」と言って女性の手をはねのけた。そして振り返らずに、駆け出した。
背中から「あ、ちょ、ひでえなあ」という声が聞こえ、振り切ることに成功した。
家に帰って卒業アルバムを広げ、田中の顔を探した。
幼稚園生から高校生、そして大学生である現在に至るまで、田中性の人と同級生にも友達にもなったことがないのだ。〈鈴木〉とか〈佐藤〉とか〈高橋〉の友達はいるから、かえって〈田中〉だけいないことが印象に残っている。
ペラペラめくって3年1組のページで手を止める。集合写真には日焼けした肌の、あの女性が映っていた。笑みを浮かべている。
じっとアルバムを見る。
たしかに、まるきり関わりがないというわけでもないらしい。でも、同じ高校の同じ学年だったというだけだ。昔遊んだというようなことを言っていたが、やっぱりただの、向こうの勘違いだったのではないか。それにしても知り合いでもない人に怠い絡まれ方をしたら、あれほど鬱陶しいとは思わなかった。私は自分が冷静な方だと思っていたが、それは間違いだったようだ。
「また会うんじゃないの……」
そんな言葉が口をついていた。
それがよくなかったのか翌日、大学帰りにまた〈田中〉と会った。
「なんで昨日逃げたんだよー」
田中は私を咎めるように言った。
「いや逃げますよ」
「えーなんで」
「調べましたけど、あなたと私、知り合いでもなんでもないじゃないですか。嘘吐いて何が目的なんですか?」
「えー、別にまた遊ぼうと思っただけだし」田中は言った。「ほら、大学違うしうちら疎遠になっちゃったじゃん? 懐かしー顔見ちゃって、何つーか、ノスタルジーっつうのになっちゃって」
「……だから、あなたのことなんて知らないって言ってるじゃないですか」
自分でも語気が強くなっていくのがわかった。その時だった。「あー、久しぶりー」と声がした。振り返るとデニムのジャケットを羽織った女性が手を振っていた。全く知らない人だった。
「おーミサ」
「おいーっす、二人ともどうしたの? こんなとこで?」
「美羽と駄弁ってた」
「バイト終わり?」
「うん」
「あ、そう」とミサと呼ばれた女性が私の方を向いた。「美羽〜久しぶり〜」
「え……」
私は不覚にも固まってしまっていた。
名前なんて教えてない。
この人たちは誰だ?
行き場をなくした思考の中、おかしそうに笑う声だけが聞こえる。え? 覚えてないの〜? 三好だけど〜。こいつひどいんだよ、あたしのことも忘れてたし。ええ〜? そうなの〜? でも昔からそういうとこあるよね美羽は〜。うんうん、そうそう美羽って忘れっぽいんだよなあ、さすがに泣ける。この後暇〜? うん暇暇。遊ばない? お、遊ぶ遊ぶ。お前も遊ぶっしょ、美羽?
「……なんで名前知ってるの」
かろうじて言えたのがそれだけだった。
二人はキョトンとした顔になった。まるで私が非常識なことでも言ったかのようだった。
「なんでって友達じゃん」
私は逃げ出した。
交番では若い男性が対応してくれた。私はしどろもどろになりながら、昨日から起きていることを話した。心当たりはあるのかと問われたがそんなものあるわけなかった。私はとにかく一刻も早く、ストーカー規制法かなんかで、あの田中を捕まえて欲しかった。だというのに警官は唸りながら首を傾げた。
「うーん。本当に知り合いとかじゃないの?」
「違うって言ってるじゃないですか」
何回も繰り返されたやり取りに舌打ちしてしまいそうだった。
「女の子同士だし、それに、まだ危害を加えられそうになってるわけでもなさそうだしね。どうしたら良いもんかなあ」
「どうしたらって、じゃあ本人に注意してきてくださいよ」
「うーん。そう言ってもね、まだ二回しか付きまとわれてないんでしょ? ストーカー行為的にも反復性を認められなさそうだしねえ。うーん、僕としてもねえ、あんまり大事にするのはどうかって思うし」警官は首の骨を鳴らした。「ねえ、君、本当に知り合いじゃないの?」
「違います」
「でもねえ、その田中さん以外にも君のことを知っている人がいるわけじゃないですか。それで知り合いではないっていうのも、おかしい話と言いますか。最近じゃあストーカー被害の相談も多いですし、申し訳ないですがご友人に付き添ってもらって一度田中さんとしっかりと話し合いをしたらどうでしょうか。ひょっとしたら誤解による行き違いがあるかもしれませんし、それでも付きまとわれるといったことがありましたら、もう一度交番に来てもらってということで」
「ちょ、困ります!」
警官が話を終えようとしていることがわかり、私は叫んだ。
「でもねえ……あ、佐野さん」
奥の扉が開いて別の警官が出て来た。腹回りが太い、中年の警官だった。
「どうしたんだよ木崎。あっ」私を見た瞬間に佐野が言った。「美羽ちゃんだよね? 久しぶり! どうしたの?」
「あれっ佐野さんの知り合いですか?」
木崎が言うと佐野は頷いた。
「知り合いというか、小さい頃面倒見てたんだよ。いやー懐かしいなあ。親御さんと友達でさ、まだ小学1年とかだったっけな。仕事が忙しいとかで放課後、預かってたんだよ」人懐っこそうに笑いながら佐野は言った。「美羽ちゃん、俺のこと覚えてる?」
頭がくらくらする。
私の知らない人たちが私の知り合いということになっている。
どうしてだろう。
「あの……あなたって本当に警官ですか?」
え、と佐野が驚いた顔をする。
「これってなんかの企画なんですか? 知り合いのふりしたら本当に知り合いと思ってしまう説、みたいな」
「え、なに言ってんの美羽ちゃん」
佐野はまばたきを何度もしながら私を見る。本気で驚いている、ように見える。でも演技かもしれない。私は辺りにカメラがないか探す。部屋の片隅、机の裏、ゴミ箱の外側、ポスターの裏側、それらをひっくり返し、剥がし、叩き、全部を見た。だけどなにも見つからなかった。
佐野は痛ましそうな顔をしていた。
「美羽ちゃん疲れてるのかもしれないね。大学生だもんね、いろいろあるよ……」
「あの、本当のこと、言ってください」
「ごめんね。これが本当」申し訳なさそうに佐野が言った。「美羽ちゃん送ろうか?」
「結構です」
交番を出ると外は真っ暗になっていた。まっすぐ家に帰ろうとしたが、足元がおぼつかなくて、道路にしゃがみ込んでしまった。電信柱に寄りかかって嗚咽した。上の方でカナブンがぶつかり合っていた。
私がおかしいのだろうか。
増えた知り合いは私が忘れてしまっているだけで本当に知り合いなのだろうか。
でもこんなのおかしい。変なことが起こっている。私が忘れているはずない。
コツコツと足音が聞こえて来る。私の背後からだ。足音が止まり、私を影で覆い尽くす。腕の形をした影が伸びてくる。私は振り返らないで言った。
「どうせあなたも知り合いなんですよね。言わなくてもどうせそうなんです」
「あの、立てますか? 大丈夫ですか?」
見てはいけない、そう思ったが、私は横目で声の主を確認してしまった。スーツを着た初老の男性だった。眼鏡をかけて、どこにでもいそうな普通の人。でも私にとっては普通ではないのだ。
「あの、知り合いなんですよね、そうですよね?」
「はい?」スーツの男性は手を伸ばした格好のまま、言った。「違いますけど」
「本当!?」私はすがりつくように言った。「私の知り合いじゃないですよね!? 久しぶりとか言わないですよね!?」
「え、はあ。まあ、知り合いではないと思いますけど。あの……大丈夫ですか?」
私は全身の力が抜けて立てなくなってしまった。
「はい……ちょっと……」
「立てますか?」
心配そうに言うこの人はきっといい人なんだろう。私なんかよりもずっと。私は曖昧に微笑んで電信柱に手をつきながら、なんとか立ち上がった。
スーツの男性に付き添われながら少し歩いた。十字路にさしかかり、その頃にはふらふらとした感覚も消えたのでもう大丈夫だと判断した。
顔を合わせお礼を言うと、スーツの男性は「いえいえ、特に何もしていないですから」と言って首を傾げ私の顔をまじまじと見て、「あれ、美羽さん?」
やめて、と思った。
「美羽さんですよね僕ですよ僕。小泉です。いやあ暗くてわかりませんでしたよ。ほら昔、沢ノ淵中学で担任だった、小泉ですよ。いやあ懐かしい。久しぶりです。先生会えて嬉しいですよ。積もる話もありますし、せっかくだから送っていきますよいやあ偶然ってあるものだなあほんとうに久しぶりですよ久しぶり久しぶり久しぶり久しぶり久しぶり久しぶり久しぶり久しぶり久しぶり久しぶり久しぶり久しぶり久しぶり」
絶叫する声が聞こえ、それが自分のものであるとわかり、目の前が真っ暗になった。
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