どちら様ですか?
ある日の夕暮れ時。
いつものように道場でじい様との稽古を終えた後、腫れた箇所を濡れタオルで冷やしていると、後ろから声をかけられた。
〝……また、おじいちゃんにいじめられたの?〟
声をかけてきたのは黒い髪の小さな女の子だった。
父さんと母さんが命懸けで守り、二人が死んだあの日から妹となった僕の大切な家族。
妹は今にも泣きだしそうな表情で僕の顔をジッと見つめている。
僕は苦笑して、苛められてなんかいないよ、と答える。
〝うそ。だっておにいちゃん、こんなに痛そう〟
妹はむっとなってすぐにそう返してくる。
妹は僕が稽古をしている間はずっと部屋にいるのに、稽古が終わるといつもこうして寂しがりな猫みたいに僕の前に現れる。
妹は心配そうに腫れあがった頬に手を添えた。
少しひんやりとしたその手が熱く腫れあがった頬に心地良かった。
僕は強がって、こんなの平気だよ、と添えられた手に自分の手の平を重ねた。
〝……痛くないの?〟
僕は答える。うん。全然痛くないよ、と。
〝おにいちゃんはどうしてこんなになってまでけいこするの?〟
妹が僕を見上げる。
大きくて綺麗な、黒色の瞳。
この子が僕を慕って、心配してくれるのが嬉しかった。
重ねていた手を解いて、代わりに妹の頭にそっと手を置く。
傷つけないようにゆっくりと撫でつけた。
僕たちが家族になったあの日から、この子が寂しがる度に何度もしてあげた。
この小さな女の子を守りたかった。
父さんと母さんが遺してくれた命。
二人が戦い、生き抜いた証。
世のため人のためになんて考えは、相変わらずよく分からないけど。
ただ目の前にある大切なものだけは守りたかった。
強くなれば、守れると信じていた。
本当に大切で、失いたくなかったから。
この子の前で誓いの言葉を口にする。
これから先どんなに道に迷っても、最初に抱いたこの気持ちを忘れることのないように。
〝――強くなって、守るために〟
それが、
記憶を失った今も消え去ることなく、この胸に輝き続ける宝物のような思い出だった。
†
最初に感じたのは開け放たれた窓から吹いてくる夜風だった。
深い眠りについていたソラはゆっくりと目を開ける。
背中に感じるベッドの感触と微かな消毒液の匂い。
どうやら戦いの後ここ――多分医務室――へ運ばれたらしい、ということを理解するのに数秒かかった。
限界まで魔力を使いきった影響か、身体中がだるくて力が入らない。
寝起きなこともあって、頭が少しだけぼんやりした。
「――目が覚めましたか?」
不意に横から優しい声がかけられる。
ベッド脇で誰かが自分の顔を覗き込んでいた。
「アウローラ……?」
声のした方向に視線を向け、ソラは途中で口を塞いだ。
ベッド横の丸椅子に腰かけていたのはアウローラではなかった。
怪訝な思いもほんの一瞬。
その人物を視界に収めた瞬間、ソラの思考は真っ白に染まった。
ベッド脇にいたのは一人の女性だった。
窓から差し込む月光に照らされて淡く輝く金糸の髪。
自分を真っ直ぐに見つめる青の瞳は無窮の蒼天のようにどこまでも清らか。
神話に語られる女神というのはきっと彼女のような姿だったのではないかとソラは本気で思った。
そんなある種の幻想的な美しさに目を奪われていると、女性はたちまち不機嫌そうに唇を尖らせた。
「……開口一番その名前が出ますか。そんなに声、似てます?」
「え? ああ、いや……そういうわけじゃないんだけど」
むう、とむくれる彼女に、ソラはどう答えていいか分からず困惑してしまう。
というか今更だけど、さっきからこの人ずっと自分の手を握っている。
「えーと、ごめんなさい?」
確かに人違いは失礼だと思って――あるいは謎の女性の謎の迫力に押されて――ソラは謝罪の言葉を口にする。
女性はそれを聞いて、くすくすと悪戯げに笑った。
「ふふ。冗談です。寝起きで少し混乱していたのでしょう。起き上がれそうですか?」
「あ、はい」
言われて横になったままだったということに気づく。
ソラは身体を起こそうとして、けれど全身に走る激痛にそのままベッドに倒れこんでしまう。
「いっつ……ッ!?」
身体を動かすこともままならず、思わずうめき声をあげる。
苦しげなソラの声を聞きとがめ、女性は心配そうな表情を浮かべた。
「……無茶をし過ぎましたね。少しジッとしていて下さい」
ギシ、とベッドのスプリングが軋む。
女性が丸椅子からベッドへと腰を移したのだ。
そして、女性はそのままソラの身体に覆いかぶさる。
「――な、ちょっ!?」
ふわりと鼻腔をくすぐる艶やかな香水の香り。
突然の行動に慌てふためくソラをよそに、女性はソラの頭を抱き締める。
鼻先に女性特有の柔らかい感触が押しつけられて息がつまる。
「大丈夫です。動かないで」
「………あ、」
女性はその華奢な身体に魔力を纏い始める。
まるで月の光そのままに美しく輝く黄金の魔力。
色が識別できるほど高密度の魔力なのに不思議と圧迫感はなかった。
女性は纏った魔力を少しずつソラの身体へと流し込んでいく。
「――――――」
女性の言うとおりにじっとしていると、やがて黄金の魔力は優しくソラの全身を覆う。
まるで温かい水の中を漂っているような不思議な感覚だった。
女性の魔力はとても温かく、心地良く、ソラの身体に染みこんでいく。
そうして三十秒か一分か、身を任せていると、
「――はい、終了です。改めて、起き上がれそうですか?」
「え?」
言われて目を開けると、いつの間にか全身にあった鈍い痛みは消えていた。
起き上がり、額に巻いてあった包帯を取ってみる。
派手に出血していたはずだが、額に触れると傷の感触は跡形もなく消えていた。
「……えっと、何をしたんですか?」
「私の魔力を流し込んで人間が本来持っている自己治癒力を促進したんです。本来なら〝白〟以外の魔力を他人に流せば拒絶反応が出ますけど、幸い私たちの魔力の質は限りなく近いものでしたから。同じ属性の魔力ならむしろ白よりも親和性は高いんです」
ふふんと得意満面に彼女が胸を張ると、そのふくよかな部分がフルンと揺れた。
凝視するのが何だかダメな気がしてソラは思わず視線を逸らす。
「それで、まだ痛むところはありますか? もしあるようでしたら、もう少し魔力を供給しますが……」
「あ、いや、大丈夫。すごく楽になりました。本当にありがとう」
ソラの言葉を聞いて、女性は安心したようにほっと息を零す。
「良かった。でもある程度回復したとはいえ、まだ上手く力が入らないでしょう? 明日は筋肉痛で動くこともままならなくなるはずです。しばらくは安静にしていて下さいね?」
「あ、はい」
窘めるようなその言葉にソラは素直に頷く。
自分を無理に傷つけようとは思わないし、何より、彼女の気遣いを無碍にするつもりはない。
「わかった。そうします……それで、ええと、どちら様ですか?」
言われて、はた、と女性が目を丸くする。
それから女性はようやく気づいたと気恥ずかしそうに、くるくると髪をいじりだした。
「……ごめんなさい。そう言えば、まだ名乗ってもいませんでしたね。私はユフィと申します。貴方は、ソラ様でよろしいですか?」
ユフィと名乗ったその女性は、こてん、と可愛らしく小首をかしげる。
「あ、僕のことはソラでいいですよ………て、あれ? ユフィさんはどうして僕の名前を知ってるんですか?」
「アリーナで貴方の隣にいた騎士がそう呼んでいましたので」
「……もしかしてユフィさん、あそこにいたの?」
気まずげに問いを返す。
つまりユフィはあの決闘を見ていたというわけだ。
いや、あれだけ注目を集めていたのだからそう不思議ではないのだけれど。
自分がボコボコにされているところを見られていたというのは、ソラとしてはかなり居た堪れない。
「……何と言うか……カッコ悪いところを見られたね」
「いいえ、そんなことはありません」
苦笑しながら言うと、ユフィは断固として否定した。
「貴方は己よりも強い相手にも逃げることなく立ち向かったのです。それは称賛されるべきことであって、嘲笑われることでは決してない……どうか胸を張ってください。。あの時の貴方は――とてもカッコ良かったです」
ソラの瞳を真っ直ぐに見詰めてユフィは穏やかに微笑む。
そんなことを言われるとなんだか面映ゆい気持ちになる。
それもこんな美人に面と向かって言われたら猶更だ。
ソラは頬を赤らめ、ポリポリと頬を掻いた。
「……それは、どうも」
「いいえ……ただ、」
「ただ?」
先ほどまでの微笑みを消し、ユフィは逡巡するように口籠った後、やがて憂いを帯びた表情で口を開く。
「あの時の貴方は確かに勇敢でした……けれど、同時に怖くもありました。先ほどの貴方はほとんど捨て身に近いものがあった……自殺行為と変わらないくらいに。あんな戦い方を続けていけば、いずれ命を落とすかもしれません。いえ、むしろその可能性の方が高いでしょう――貴方は、死が怖ろしくないのですか?」
そう訊ねるユフィーの瞳は不安で揺れていた。
初対面の彼女がどうしてこうまで自分を気遣ってくれるのか、ソラには解らない。
ただ、心の中で彼女の問いを反芻する。
――死が怖ろしくないのか、か。
闘っている最中は必死で、感じている余裕もなかったけれど、戦いが終わった今自分の行動を改めて振り返ると背中から嫌な汗が噴き出てきた。
それは恐怖だった。
恐怖に震える臆病な自分の気持ちを、ソラは取り繕うことなくユフィに伝えた。
「……怖いよ。怖かったよ……でも、あそこで逃げたらもっと怖いことになると思ったから」
「もっと怖いこと、ですか?」
ユフィが訊ねてくる。
ソラは照れくさそうに答えた。
「――『大切な人を守れないこと』」
「―――――――」
ユフィが茫然と眼を見開く。
主観だけれど、死が怖ろしくない人間なんていないとソラは思う。
騎士だろうと英雄だろうと、それは変わらない。
もしそんな人間がいたとするなら、その人はきっと生物として何かが欠けている。
それでもソラが目を背けずに立ち向かうことができたのは、ウェルズリーへの怒りとある種の強迫観念だったのかもしれない。
大切な人が傷つけられることと自分が傷つくこと――自分にとって一体どちらが怖ろしいか、秤にかけただけのこと。
理由なんて、あまりにも単純。
〝強くなって、目の前の大切な人を守る〟
記憶を失っても身体に染みついた誓い。
一番初めのその誓いを破ってしまえば、自分は自分でいられなくなるとそう思ったから。
沈黙が室内を満たす。
冬の風が部屋の中へと静かに吹きこんできた。
ユフィの金色の髪がサラサラと揺れる。
俯くユフィの表情は髪に隠れてよく見えない。
やがてぽつりとユフィが言葉を零した。
「………本当に、変わらないなあ」
「え?」
「……いえ、何でもありません……ただ昔、兄も貴方と同じことを言っていたなと思って」
「お兄さんが?」
「ええ。私には兄がいました。強くて、優しくて、温かい人で……困っている人を放っておけないようなお人好しで。そんな人だからこそ多くの者に慕われていましたし、私もそんな兄を誇りに思っていました」
ユフィの口元がふわりと綻ぶ。
兄のことを語るユフィーの表情はとても嬉しそうだった。
「立派な人だったんだな。そのお兄さんは今、」
「……亡くなりました。人魔大戦の終戦時に」
嬉しそうな表情から一転、悲しげにユフィーが答える。
今にも泣きだしそうな表情を見て、ソラは咄嗟に頭を下げた。
「ご、ごめん……っ。悲しいことを思い出させた」
「いいえ、大丈夫です。もう十年も前のことですし……それに、兄とはもう一度また逢えると信じていますから」
「……?」
不思議なことを言うユフィにソラは首を傾げる。
突拍子のない発言に戸惑いながら、ソラはこれ以上傷つけないようにと探るように問いかけた。
「えっと、その人は亡くなったんですよね?」
「ええ。どんなに祈っても願っても、死んだ人間が甦ることはありません。ですが、『聖天教』には〝輪廻〟という教えがあるんです」
ユフィは教え子に講義を行う教師のような口調で語る。
その時、透きとおる碧色の双眸がじっとソラの顔を見やった。
その奥にある何かを覗き込むかのように。
「あの世とこの世。彼岸と此岸。隠世と現世。人は死後、二つの世界の狭間である〝聖天〟へと向かい、そこで〝聖焔〟によって魂を浄化され、次の世界での新たな命を授かるという教えです。簡単に言うと生まれ変わりですね」
「生まれ変わり?」
聖天教はこの国の国教だ。
なら目の前の人がその教えを信じているのも別に不思議ではないし、そういった死生観自体は別に珍しいものではない。
そして、ソラとしてもその教えにはどこか、救われる気がした。
「なら……僕もいつか、また逢えるのかな」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
記憶の無い自分には、それが誰を差しているのか分からない。
ただその瞬間、狂おしい何かが、胸の奥から込み上げてきた。
「ええ。強く信じていればきっと」
ユフィがソラの手を再びそっと握る。
それから夜空の月を見上げた。
淡く輝く月の光は祝福のように思えた。
そうして二人で静かにその時間を過ごしていると、
「そろそろお暇しますね。本当はもう少しこうしていたいのですが、邪魔者のせいでこの気持ちに水を差されたくありません。今は貴方に免じて引くことにします」
「邪魔者?」
ユフィはひどく不機嫌そうにそう言う。
誰のこと言っているのかぼんやりと考えていると、ユフィは立ち上がり、ソラに向かってスカートの裾を軽く持ち上げてみせた。
「それでは御機嫌よう、ソラ。無茶をするなと言っても貴方には無駄なのかもしれませんが、それでも今後はあまり無茶はしないでくださいね」
「信用ないなあ。大丈夫だよ。ユフィの言ったとおり、しばらくは安静にしてるから」
苦笑しながら答えると、ユフィは仕方なさそうに、はあ、と溜息をつく。
「……こういった事に関して貴方に信用が無いのは自業自得だと思います……けど今は貴方の言葉を信じることにしましょう。どうかご自愛ください、ソラ。貴方が傷つけば、私は悲しいのですから」
そうしてユフィーは一礼して医務室の扉を閉める。
入れ違いにセリアたちが入ってきたのは、それからすぐ後のことだった。
前職女騎士で追放歴アリですが、人生やり直すには遅過ぎますか? 有沢ゆうすけ @arisawa08
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