聖霊

 ―――とても幸福な、夢を見た。










 それは、僕がこの都市で目覚めてから時折見るようになった不思議な夢。










 古い屋敷の軒下から、木と、畳と、日向の匂いがする。






 夢の中にはいつも黒髪の小さな女の子が出てきた。






 顔は霞んで、声は遠くて、名前さえ思い出せなかったけど。










 その子が自分にとって大切な存在だということは、どうしてか分かった。
















 ともに過ごす穏やかな日常。








 ともに笑いあった幸せな想い出。




















 ―――今はもう遠い日々の名残を、僕はずっと夢見てる。



























 重く沈もうとする瞼に、カーテンの隙間から仄暗い光が差しこんでくる。






 少年は気怠そうにむくりとベッドから起き上がると、きょろきょろと辺りを見渡した。




 そこは見慣れた教会の寝室よりもはるかに広く、部屋の内装も明らかに上流階級のそれと分かるものだった。










 寝起きで呆とする頭で、少年はようやくここがどこなのかを思い出す。
















「……ああ、そういえば昨日セリアさんの屋敷に泊まったんだっけ」














 少年――ソラはそう呟く。










 教会でのやりとりの後、ソラはセリアとアウローラに連れられこの屋敷に戻り、夕食をご馳走になったあと、そのまま屋敷に泊まったのだ。




 教会の安布団で子供たち数人と雑魚寝していた身としては屋敷のベッドは広すぎて落ち着かなかったが瞼を閉じてしまえば後はぐっすりと快眠できた。 






 くあぁとソラは大きな欠伸を零す。






 壁に備え付けられた柱時計を見れば、時刻は五時五十五分。 






 起きるにはまだ少々早い時間だ。








 ソラは、うん、と頷き、もう少しだけ眠ろうとベッドへ身体を沈めようとして―――












「いやいや、目が覚めたんならそのまま起きなよ。良い一日は快適な目覚めから始まるって言うだろう?」










「―――うぉうっ⁉」










 突如ベッド横から聞こえた呆れたような声に、ソラは思わずその場から飛び起きる。


 バランスを崩し、そのままベッドから転げ落ちてしまった。






「ふげっ⁉︎」






 ごん、と後頭部をぶつけたソラは頭を押さえて悶絶する。








「何してるんだい、キミ? もしかして最近だとそういう風に頭をぶつけて眠気を飛ばす起床法が流行ってるの?」




「……あのな、そんなのが流行ってるわけないだろ。起き抜けに誰かが急に真横に現れたら普通の人間はびっくりするに決まってるだろ」








 ソラはむくりと起き上がり、恨みがましそうに対面のベッドサイドを見上げる。






 先ほどまで誰もいなかったはずのそこには不思議そうに首を傾げている少女の姿があった。




 ただ佇んでいるだけで気品があり、どこか神々しさのような雰囲気を醸し出す不思議な少女だった。




 歳の頃は十二、三といったところだろうか。






 染み一つない白い肌に黄金色の真っ直ぐな長い髪。




 透き通るような黄昏の瞳は微かな光しかない仄暗い部屋の中でも煌びやかな輝きを放っていた。






「そうなのかい? それはすまなかったね。何しろボクは人と関わる機会というのがそうそうないからさ。次からは気を付けるとしよう」






 説明するも当の本人はあまりピンときていないようだった。




 諦めたようにソラは溜め息を吐いて、ベッドに胡坐をかく。






 目の前の存在はどうにも天然というか、どこか常識に欠けるきらいがある。




 それがこの数日の短い付き合いの中で知ったことだ。






 もっとも、に人間の常識を押し付けることの方が間違っているのかもしれないが。










「アルカ。いつからそこにいたのさ」




「ん? 来たのはついさっきだよ。せっかく会いに来たっていうのにキミが二度寝しようとするから慌てて声をかけたんだ」




「ドアには鍵かけてたんだけど……」




「あははっ。おかしなことを言うね。ボクに対して鍵なんて何の意味もないとキミは知っているだろうに」






 そう言って少女はふわりと浮かび上がり、そのまま、ぽすん、とソラの足の間に収まった。






 少女の身体には一切の重みはなく、それどころか触れ合っているはずなのに何の感触もありはしない。




 今でも時折、ソラは彼女が自分の妄想が生み出した幻なのではないかと考える。


 けれど、そんな考えは目の前の屈託ない笑顔にすぐに打ち消される。






 何しろ、自分のちっぽけな想像力ではこんなにも美しい存在を描き出すことなんて出来ないだろうから。




 自らを〝聖霊〟と名乗る少女――アルカは無邪気にソラを見上げながら話を続ける。






「それに、これでも一応気を遣ったんだぜ? 本当は昨日の晩に話したかったのに部屋に来たらキミはもう寝ちゃってたし。疲れてるだろうと思って起こさずにずっと待ってたんだよ?」




「そうなのか? 別に部屋に入るまで待たなくてもいつでも話しかけてくれればよかったのに」




「おいおい。忘れたのかい? 僕の姿は基本的に他人には見えないんだよ? キミも周りの人間に一人で会話するような痛いヤツだって思われたくないだろ? ただでさえ微妙な立ち位置なんだからさ」




「…………」






 確かに、それはごめんだと、ソラは苦々しい顔で押し黙る。




 やがて根負けしたように肩を落とした。






「分かったよ、アルカ。でもさ、アルカのことが見える人って他にも誰かいないの? それこそシスターとかそっち関係は専門家なんじゃないか?」




「そっち関係って……キミ、もしかしてボクのことそこらの幽霊と同じように考えてないかい?」




「……ごめん。ぶっちゃけ違いがよく分からない」






 見えないし、触れないし。




 呼び方が違うだけで、正直ソラはどちらも同じようなものだと思っている。






「全然違うだろう、不信人者め⁉ 幽霊って言い方だとなんか暗くてひょろっちいイメージしか湧いてこないじゃないかっ!」




「え、そこっ⁉」






 ふしゃーっ、と噛みついてくるアルカにソラは驚きを返す。






「当たり前だろ。あのね、イメージってのはボクらみたいな〝あやふや〟な存在にとっちゃ結構重要なんだ。とりわけボクはある種の信仰対象として永い間崇められてきたんだぜ? 幽霊なんかと一緒にされちゃたまっもんじゃないよ」




「そりゃ悪かったよ。で、アルカ。他にもいるの、見える人?」




「まあ、キミ以外にも見えるのは何人かいるよ。ちなみにあのシスターは違うよ? ボクを認識することができるのは〝条件〟を満たした者だけさ」




「条件?」




「そ。ボクを見ることができるのは〝系譜に連なる者〟か〝欠片を持つ者〟だけだ。この街で僕が見えるのはキミ以外に一人だけかな」




「ふーん?」






 ぴんと指を立て得意げに語るアルカだったが、ソラには彼女の言葉が何を差しているのかまるで分からない。




 ただ不可解そうに首を傾げるばかりだった。






「……よく分からないけど、他にも話せる人がいるならそっちに行けばよかったんじゃない?」




「むっ。つれないことを言うなよ。ボクは他の誰でもなく〝キミ〟と話がしたかったんだ……そもそもその子とはもう何年も会話をしていないし、何よりボクはその子に嫌われているからね」




「嫌われてる? アルカはその人に何かしたの?」




「いいや? 何かをしたわけではなく、何もしてくれなかったと詰られたのさ。まったく自分の無力を棚に上げてひどい言いぐさだよ。神様にだって出来ないことはあるっていうのにね。ともあれボクは彼女に恨まれ、その子は息をしているだけのつまらない人生を送るようになったというわけさ。ま、前相棒のたっての頼みだから一応最後までは付き合ってやるけどね」






 そう言ってアルカはやれやれと肩をすくめてみせる。それから身体を反転させ、向かい合うようにソラの顔を覗き込む。 






「けどさ、そんな何の変化もないつまらない人生ものを見るくらいならボクはキミの傍らでキミの先行きを見ていたい。何しろキミの物語はきっと波瀾万丈で面白いものになるだろうからね」




「……あのさ、僕みたいな一般人に変な期待されても正直困るんだけど」




「ははっ。心配しなくてもキミは特別さ。それはボクが保証するよ。さっき話したボクが見える条件。片方を満たしている者だけなら何人かいる。それでも






 その瞬間、ソラは驚きに目を見開く。






 彼女が何気なく発した言葉は少年の胸に波紋を呼び起こす。






 ちょっと待て。






 彼女は今、まるで。






 少年が何者なのか知ってるようなことを言わなかったか?










「……アルカは、知ってるのか。僕のこと。僕の失くした記憶を」






 喉から出た声は震えていた。




 心臓がバクバクと波打つ。




 緊張と期待。それから微かな不安を伴って。






 アルカは少年を見上げ、にやりと嗤って。










「知っているよ。キミが何者で、どこから来たのか。












「――ッ、アルカッ!」








 事もなげに答えるアルカに、ソラは掴みかかるように身を乗り出す。




 けれど、その手は空を切り、勢いのままにソラはベッドに倒れこむ。






 アルカは重力に逆らいふわりと浮かび上がった。








「……意外。そんなに激しく反応するとは思わなかった。平気なふりを装っていても、キミも内心では焦っていたようだね」




「アルカッ!」






 頭上のアルカをソラは、きっ、と睨みつける。






「教えてくれ! 知ってること全部! 欲しいものがあるなら何だって用意してみせる! だからっ!」






 形振り構わないソラの懇願。




 アルカをそれをただ静かに見下ろした。






「必死だね。どうしてキミそんなに自分の過去に拘るんだい? 今の立ち位置に対する不安? アイデンティティの喪失による恐怖? 現状キミはこうして何不自由なく生活できているじゃないか。そしてキミの身柄は今後もこの屋敷の主人が保証するだろう。なら記憶が戻ろうと戻るまいとどうだっていいじゃないか」




「……どうでもいいわけないだろう」






 ぎり、とソラは拳を握りしめる。




 アルカの言う不安が無いわけじゃない。




 自分が何者なのか解らないのは正直言って、怖い。






 でも、それ以上に―――






「記憶が戻らないと帰れない……会いに行けない。きっと寂しがってる。会ってちゃんと、安心させてやりたい」






 帰る場所があるかも、待っている人がいるかどうかさえも分からない。




 でも、確信がある。






 あれは絶対にただの夢なんかじゃない。






 夢で見たあの子に会いたいと、こんなにも心が叫んでいる。






「……くふ」






 そして、アルカはソラの必死の表情を見て――恍惚な笑みを浮かべた。










「くふ、ふふふふ。そこで真っ先に出てくるのが他人の心配か――ああ、やっぱり良いよ、キミ。キミが全てを知り、どんな表情を浮かべるのか、今すぐ見てみたい気もするけれど――」








 アルカはソラの唇に人差し指を当てる。




 触れている感触はないはずなのに、何故かソラはそれ以上動くことが出来なかった。








「でも、駄目だ。教えない。物語はまだ始まったばかり。序盤にネタバレはNGだからね」




「……人が苦しんでるのを上から眺めるのが愉しいのか? 趣味が悪すぎるだろ」




「そうさ。ボクは座し、ただ見守るのみ。キミはキミ自身の力で己と向き合い、記憶を取り戻していくんだ。そこには苦難があり、煩悶があるだろう。だからこそ、物語は彩られていく」






 少女は微笑う。




 踊るように。唄うように。




 眩く、柔らかく、想いを馳せるように少年に微笑みかける。






「ああ、本当に楽しみだ。キミはその数奇な運命を辿り、やがてどんな答えを出すのだろうか。期待しているよ。たとえその結末が喜劇であれ、悲劇であれ、キミの行動はきっとこの退屈な日々に刺激を与えてくれるだろう」






 少女の姿に似つかわしくない妖艶な眼差しに、背筋にぞくりと冷たいものが走った。








 ここまでか、とソラは押し黙る。








 これ以上言ったところで、今の段階ではアルカはソラの過去を教えてくれはしないだろう。




 もちろんアルカがソラの過去を知っているという確かな証拠があるわけではない。


 ただ、彼女の語った言葉に嘘はないだろうと、ソラはなんとなく思った。






 彼女は純真だ。そして純真であるがゆえに自身の欲望に対して忠実でもある。






 そこに嘘が入り込む余地はない。










 どんなに親しく振舞ってこようとも、彼女との間には決して解りあうことのできない大きな隔たりがあると、その時ソラは感じた。








 ああ、やはり。




 人のカタチをして、同じ言葉を口にしようとも――目の前に在るのはやはり、人間ではないのだ。






















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