よろしく
……後から思えば、第一印象は正直あまり良いものではなかったと思う。
線の細い少年だった。
年の頃は十歳くらいだろうか。中性的……というよりは女性的な顔立ちで、もう少し髪が長ければ女の子に間違われてしまいそう。
涼やかな漆黒の双眸と淡い顔立ち。
その容貌は将来間違いなく美人になると断言できるほど綺麗に整っている。
けれど、何よりも私の目を引いたのは、少年のその髪色だった。
くすみの無い、真白い髪。
一切の穢れを知らぬかのような綺麗な純白の色彩。
まるで私の嫌いな―――雪の色。
「――おにいちゃん!」
カレンと呼ばれた少女は弾かれたように少年に駆け寄り、力一杯に抱きつく。
少年は少女を慰めるように、その背中をぽんぽんと優しく叩いた。
「いかないで! いっちゃやだ!」
「カレン」
少年は少女の名を呼ぶ。けれど少女の叫びは止まらない。
「ずっとここにいて! カレンを一人にしないで!」
「カレンは一人じゃないよ。シスターもいるし、他のみんなもいるだろ?」
「でも! おにいちゃんがいないもん! おにいちゃんも一緒じゃなきゃイヤ!」
少女のその言葉に、少年は困ったように苦笑した。
「ごめんな、カレン。僕はもうここから出発しなくちゃいけないんだ……最初からそういう約束だっただろ?」
諭すように少年は言う。けれど、少女は少年の身体により強くしがみついた。
「……やだよう、寂しいよう……」
「うん。僕もカレンと別れるのは寂しい。だからさ、」
少年は少女の体を離し、その肩に手を置いて、
「会いに行く」
そう、宣言した。
「約束する。僕は絶対にカレンのことを忘れない。僕はカレンのことが大好きだから、どんなに離れても絶対にまたカレンに会いに来る。だからさ、カレン。笑って送り出してよ」
「………うう」
次々と溢れてくる涙を少年は優しく拭っていく。
「………おにいちゃん、カレンのこと、わすれない?」
「うん。約束する」
「……おにいちゃん、会いにくる?」
「うん。絶対に会いに行く」
「……カレンが笑ったら、おにいちゃん、うれしい?」
「うん。すごく嬉しいな」
その言葉を聞いて、女の子は懸命に歯を食いしばった。
「じゃあ……がんばる」
少女は少年から手を離し、クシクシと目を擦る。
「おにいちゃん、いってらっしゃい」
それは、笑顔と呼ぶにはあまりにも中途半端なモノだった。
乱暴に擦った目元は赤く、瞳も未だ涙で濡れている。
けれど、それは少女にとって、精一杯の笑顔だったのだろう。
少年はそれを見て、満足そうに頷いた。
「うん。いってきます」
少年は最後に少女の頭をくしゃりと撫でつける。
それからこちらへ歩み寄ってくる少年にセリアが声をかけた。
「もういいのか? 少しぐらいなら待っても構わないが」
「いえ、大丈夫です」
少年は教会の方へと振り返る。
視線の先には数人の子供たちがいた。
泣いている者。懸命に笑おうとしている者。
反応はそれぞれだったが、皆一様に少年との別れを惜しむように手を振っていた。
「昨日みんなに挨拶は済ませましたから。それに、会おうと思えばいつだって会える。だから『行ってきます』って、それだけ言えれば充分です」
「そうだな。生きてさえいればいつだって会える。向こうでの生活が落ち着いたらまた遊びに来ればいいさ。私も付き合う。菓子でも持っていけばいいだろうか?」
「あー……その、セリアさんが来るのは止めておいた方がいいと思います」
たはは、と少年が苦笑した。
うん、あの怯え具合を見るに私もそう思うわ。
お菓子だけ持たせて、この子が一人で行く方が絶対に喜ばれる気がする。
そんなことを考えていると、ふと少年の視線が私へと向けられる。
漆黒の双眸が大きく見開かれた。
「――――――」
少年が微かに、息を呑んだように唇を震わせる。
それから、ほとんど無意識のようにこちらへ手を伸ばそうとしてきた。
けれど、その手が私に触れる直前に、少年は、はっ、と伸ばしかけていた手を戻した。
「……? なんだ?」
「え? あ、すみません。なんでもないです。うん、なんでもない……です」
少年は自分の行動を不思議がるように首を傾げている。
でも不思議なのは私も一緒だ。
掛ける言葉が見つからず黙っていると、やがて少年は納得したのか、それとも割り切ったのか、探るように挨拶をしてくる。
「はじめまして。貴女がアーラ……さんですか?」
その言葉に、私はピクリと目を眇める。
なんでもない挨拶。
けれど、今の一言には聞き捨てならないものがあった。
「〝アウローラ〟だ。馴れ馴れしく略すな」
私は胸に湧いた怒りのままに、少年を強く睨みつける。
少年は驚いたように目をぱちくりとさせた。
少年には特段悪意があったわけではないのだろう。
名前の言い間違いなんてよくあることかもしれない。
けれど、私にとって名前を言い間違えられることは――絶対に看過できないことだった。
この名前はあの人がくれた最初の宝物。
誰であろうと軽々しく扱われる謂われはない。
私を「アーラ」と呼んでいいのは、同じ名前を分かち合った家族だけだ。
「アウローラ、お前な……」
咎めるようなセリアの視線。
見ればカレンと呼ばれた少女の眦がつり上がり、シスターも双眸を細め、銀色の魔力を揺らめかせていた。
話を聞く限りだと長い付き合いというわけではないだろうに、どうやら彼女たちにとってこの少年はよっぽど大切な存在となったらしい。
「……まあ、どうでもいいけど」
これで話が拗れて、この件がご破算になるなら、それはそれで構わない。
セリアの心証は悪くなるだろうけど、必ずしもこの仕事を引き受けるのが私でなければならない理由はないだろう。
そんな、どこか投げやりな態度で構えていると、
「ごめん、『アウローラ』さん。言い間違えました。悪気があったわけじゃないけど、嫌な思いをさせてすみませんでした」
少年は今にも掴みかかってきそうな二人を手で制し、深々と頭を下げてくる。
少年の謝罪に、私は内心で驚いていた。
……正直、その反応は私にとって意外なモノだった。
「お前、怒らないのか? 初対面の相手にいきなりこんな態度をとられて」
「僕が怒っていい理由はないです。名前は、大切なものだから。友達でも家族でもない初対面の僕が馴れ馴れしく呼んでいいものじゃないと思うから」
だから、すみませんでした、と、少年がもう一度頭を下げてくる。
「……アウローラ」
呆れたようなセリアの声。
……ああもう、自覚してるわよ。
どっちが子供かわかったものじゃない。
恐らくは自分の半分も生きてないだろう子供相手にムキになって、逆にその子供に気を遣われてしまったのだから。
私は一つ息を吐いて、乱暴に髪をかき上げた。
「……お前、名前は?」
「え?」
「お前の名前だ。セリアに聞いたが、名前だけは憶えているんだろう? それとも、私に名前を教えるのは嫌か?」
少し意地悪く訊ねると、少年は慌てたように、ブンブン、と首を横に振る。
「ソラです。憶えているのは、そう呼ばれていたことだけ」
「……ソラ」
告げられた名前を反芻する。
その響きは、なんとなく目の前の少年と合っているような気がした。
私は地面に膝をつき、少年と視線の高さを合わせる。
「それじゃついでにもう一つ訊くけど……お前、私でいいのか?」
少年はきょとんと首を傾げる。
「いいって、何が?」
「私は騎士崩れの傭兵だ。為すべきことも為せなかった屑みたいな人間だ。誇れるものなんて一つも持ち合わせていないし……それに、優しくもない。ここのシスターたちのように、お前のことを大切にできるとは思えない……それでも、お前は本当に私でいいのか?」
悪あがきのような最終確認。
どう転ぶにせよ、この子の意思は訊いておかなければならない。
この子が躊躇ったり不安そうな顔をするようなら、それを口実に身を引けばいい。
けれど、そんな打算混じりの問いかけは少年によってあっさり返された。
「構わないよ。元々僕に選択肢なんて無いし……それに、なんとなくだけど、貴女の傍は暖かそうだから」
少年は訳の分からないことを口にする。
私は眉を顰めた。
「……意味が分からない。あたたかそうって、なに」
「えっと、自分でもよく分からないんだけど……ただ、なんとなく、そう思ったんだ。ああ、もしかしたら―――」
言いながら、少年は私の髪にそっと触れる。
ゆっくりと、大切な宝物に触れるように。
「貴女のこの紅い髪が、まるで夕焼けみたいに綺麗だったからかもしれないね」
「―――――――」
その瞬間、目の前の少年とあの人の最期の姿が重なった。
〝―――ああ、暖かい。まるで―――〟
その声を、その温度を、鮮明に思い出してしまった。
死の間際、あの人が最期に浮かべた笑顔。
眼が眩むほどに白い雪の中で。
最期の最期で、安心したような、ほっとしたような――そんな、笑顔。
―――それは。
例えようもなく、胸の奥を締め付けた。
「……ああ。なんて、くだらない感傷」
嘆息のように、口から言葉が零れ落ちた。
この期に及んで赦されようとしている自分に呆れかえる。
あの人が最期に笑ってくれたからといって、それで私の罪が赦されるわけじゃないのに。
私は自分に言い聞かせるように深く目を閉じた。
だって、この感傷は、目の前にいるこの子とは何の関係もないのだから。
「アウローラさん?」
少年が不思議そうに私を見つめる。
私はそれを無視して立ち上がり、後ろにいるセリアに声をかけた。
「セリア。依頼の内容はこいつの護衛。期間は一ヵ月でいいんだな?」
そう問いかけると、セリアは満足そうに頷く。
「ああ。その少年をあらゆるものから守ってやってほしい。見返りに、私はお前の望みを一つだけ叶えよう」
私は振り向かずに、わかった、と一言だけ答えた。
「えっと、つまり」
「そういうことだ。これから一ヶ月間、私がお前を守る。お互い災難だとは思うが……まあ、運が悪かったと思って諦めるんだな」
幼稚な悪態を口にする。
けれど、少年は満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう。よろしくお願いします、アウローラさん」
「『さん』はいらない。敬語も……堅苦しいのは好きじゃない」
そう言うと、少年はもう一度無邪気に破顔して右手を差し出してきた。
「わかった。よろしく、アウローラ」
差し出された右手を私は握り返す。
年齢相応の小さな掌。
けれど、繋いだ掌の温かさだけはどこか、あの人と似ていた。
あの人がこの世を去って十年。
あの人のいない十度目の冬。
けれど――今年の冬は、どうやら独りきりというわけではないらしい。
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