episode3 『異形の存在、蠢く悪意』

18 トルリシャ

 オズワルドの眉間には深くシワが刻まれていた。

 というのも、三年生の出したレポートがあまりに酷かったので一コマまるまる説教と解説をしたせいだ。レジュメ通りに講義が進まないことを見越して組んでいるので多少のズレはどうにでもなるが、今回はまったく内容が進まなかったので組み直さなければならない。

 丁寧すぎるほどに解説したはずなのになおも泣きついてくる学生バカどもを蹴散らして研究室へ歩いていると、通路に食べ物の匂いが漂っていることに気付いた。食堂は二階にあるが、最近は各階で軽食を移動販売しているらしい。


 ふと空腹を覚えた。最後に食べたのは――昨日の夕方ごろか。適当に軽く食べておこうと思ってクッキーをつまみ、そのままだった気がする。

 腹が減ったと感じたらなにか腹に詰めろと師匠に口を酸っぱくして言われていたのを思い出し、ついでだからと移動販売のところへと向かう。昼時だからか学生が詰めかけており飛ぶように売れていく。空くまで離れたところで待っていると、販売員の姿が人だかりのあいだからちらちらと見えていた。


「……」


 シワがますます深くなった。

 しばらくして人が捌ける頃合いを見て移動販売のワゴンに近寄る。


「いらっしゃいませ。あっ、先生」

「……なにしているんだ、ルミリンナ」


 アクロだった。

 首から『販売員』と札を下げ、黒いエプロンをつけている。いつも頭の横で適当に縛っている銀髪を今は後ろでまとめていた。


「バイトです。時給がいいですし、まかないもあるんですよ?」

「仮にも貴族ご令嬢がそれでいいのか……」


 貴族の事情はよく分からないが、自分の娘が庶民の真似事をしていると知ったら両親は卒倒するのではないだろうか。

 そういえば以前宝石糖を食堂で貰ったと言っていたが、バイトをしているのなら納得ができる。かわいがられているようだ。


「だからこそですよ。卒業したらこういうこと絶対にさせてくれませんし」

「それはそうだろうな」

「先生はなににします? といってもあと二つしかありませんけれど……。麺を甘辛く炒めてパンに挟んだもの美味しいですよ。味が濃くて」

「味の感想が下手なんだよお前は」


 とりあえずそれにする。腹を満たせばなんでもいい。


「これは?」

「木の実を混ぜ込んで焼いたパンです。カリカリしてます」

「ああそう……」


 とうとう味の感想でなくなっていた。

 こなれた対応ではあるが、いかんせん「美味しそう」という印象に結びつかない感想なので売り上げに影響がないか勝手に心配してしまう。食堂が積み上げて来たブランドがあるので大丈夫だろうが。

 財布から銅貨を取り出していると誰かが横に立った。

 つばの広い帽子を被った長身の少女。アクロよりは少し年上に見える。


「おっひさー、アクロちん」

「リシャさん。お久しぶりです。ハチミツパンは残念ながら売り切れてしまいました」

「ほんと? 人気だよねーアレ……って、あー!?」


 リシャと呼ばれた少女はオズワルドに気付くと目を丸くする。

 オズワルドもまた、わずかに目を見開いた。


「出歩いてるじゃん! めっずらしー!」

「……お前、」

「へへー、アタシがいるからびっくりした?」

「――ルミリンナ、釣りはいらん。問題があるなら俺の名を出していい」

「え、あ、はい……。あの、先生とリシャさんはお知り合いなんですか?」

「知らん」

「ちょっとちょっとオズ先生それはひどくない!?」


 ばしばしとリシャはオズワルドの背中を叩く。オズワルドはとても痛そうな顔をした。


「アクロちん、シスタークラリスって知ってる? 元勇者パーティの」

「はい、【薄紅の聖女】様ですよね」

「そうそう。アタシはその人のいる孤児院で育ったんだけどね、ちっちゃいころはよくオズ先生に面倒見てもらってたわけ。こーんなしかめっ面してて子どもあやすのは上手いんだよ」

「トルリシャ、世間話で盛り上がるのはいいがお前は学生でもなんでもない部外者だからな。また事務で手続してこなかったんだろ」

「えへっ」


 リシャ――トルリシャはウィンクをした。

 オズワルドはその頭をはたく。


「このばか。さっさと用件を済ませろ」

「研究室に行こ! いっぱい聞きたいことあるから!」

「面倒くさい……」


 話についていけずぽかんと立ち尽くすアクロに気付き、オズワルドは肩をすくめた。


「騒がしくしてすまなかった。仕事はそれで終わりか?」

「はい、おかげさまで完売したのであとは食堂に戻って金額確認しておしまいです」

「そうか、邪魔したな」


 自分のポケットを探ると小瓶が指先に触れる。

 トルリシャがよそ見した隙に取り出した。


「――講義準備で忙しいんだ俺は。資料用の火炎石も探さないといけないというのに」


 とん、とワゴンに手をつく。アクロはそこに置かれたものを見、声をかけてこようとするのを目で制した。

 オズワルドは踵を返し、階下を目指す。


「あれ? オズ先生、そっちは研究室じゃなくない?」

「なにも食ってないんだろ。奢ってやる、シスターには言うなよ」

「やったー!」


 無邪気に喜ぶトルリシャを横に、オズワルドはわずかに険しい顔をした。

 ——本当に面倒くさい。

 口の中でつぶやく。

 弟子にしてくれと詰めかけてくる少女の手を借りなければならないぐらい煩わしい事態が起きそうであった。

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