第2話 遭遇せし魔王

 私は小川まで足を運び、軽く顔を洗った。魔界では滅多に見られない透き通った水に感動を覚えつつ、水鏡で今の己の顔を確かめてみる。


「改めて見れば、なかなか可愛らしい顔ではないか?」


 水面に映るその顔が今は自分の顔である、と口を動かすことで確かめる。この顔が魔女のものだった頃は内面のどす黒さばかりが出ていたが、こうしてまじまじ見てみれば申し分のない容姿だ。顔立ちはやや幼さすら残り、水色の瞳は大きく金色の髪はしなやかだ。


 魔女め、これだけの容姿を持ちながら人間の体を嫌うとは……隣の芝生はなんとやら、か。


 魔女はこの体を憎んですらいたが、私にとっては渇望する平穏を掴むための至上の宝。女の体というのはちと気恥ずかしくもあったが、元より私に性別の概念は希薄、じき慣れるだろう。


 ともあれいつまでも自分の顔に見惚れてもいられない。私は立ち上がった。


 まずは人間を探そう、辺境とはいえこれだけ自然に満ちたところだ、川を下ればきっと村か何かあるはず。


「どれ……」


 私は目をつぶって集中し、探知魔法を行使した。微弱な魔力を体から放ち、少しずつその範囲を広げ、生命の存在を探していく。私の魔力ならば地平線に至るまで探れる。

 思った通り、川下に複数の生命の存在を察知できた。小規模だが村だろう、距離はちと遠いが私には問題はない。


「よし、では早速……」


 私は転移魔法、瞬間移動を用いてすぐにそこへ移動しようとした。だが転移魔法の術式が私を包み込む前に。


「きゃっ……!?」


 突如魔法はバチンという音をして掻き消え、私は思わず声を上げてしまった。

 い、今の声は私が出したのか? 「きゃっ」なんてまるで子女そのもののような……と動揺しつつも努めて冷静に状況を分析する。もう一度試してみたがやはり弾かれた。


 これはどうやら、体そのものに転移魔法を禁ずる魔法がかけられているようだ。


「……なるほどな」


 おおまかには予想がついた。魔女の奴、この私が機を見て肉体を取り戻しに戻ってくることを警戒して、体を入れ替える前に、自分の肉体に細工をしておいたのだろう。しかも、万が一に魂の入れ替えが失敗した時の保険として、次に転移魔法を使った時にそれ以降は使えなくなる、といった具合に。


 魔女らしい周到さだ。もっとも私に魔界に戻る気などさらさらないのだが。


 転移魔法が使えないなら私は歩くしかない、だがまあ、それもよい。


 久しぶりの外界だ、ゆっくりと景色を楽しみながら行くとしよう。この平穏に満ちた世界を満喫しながら歩くのも乙というものだ。

 私は小川のせせらぎに耳を澄ましながら、自然の息吹の中歩き始めた。向かう先にある人間たちを目指して……




 ……ほどなくして野原を抜け、私は森に入った。鬱蒼と茂る森にはところどころ小動物など走り、これまた平穏な世界が広がっている。

 が、私は早々にそれを楽しむ余裕も失ってしまった。


「はぁーっ、はぁーっ……」


 手ごろな岩に腰かけて座り、がっくりと背を丸め、荒い呼吸を落ち着かせようとする。そう、私は歩き続けて一時もない内に、疲れ果ててしまったのだ。


「よ……よもや、人の娘の体が、ここまで、貧弱とは……ま、魔女が嫌う理由も、ちと、わかった……」


 疲労のあまり思考もおぼつかず、それゆえか独り言が増える。息は切れて足はじんじんと痛み、私の体はすでに疲労困憊だった。

 生まれてこの方、魔王としての強靭な体で生きてきた私には、弱い体で動くなど初めての経験だ。慣れない体のため、余計に疲れてしまっているのかもしれない。


「フ、フフッ、だがこのか弱さもまた、平穏に近しいと思えば、愛おしいものよ……フハハハハハ、ふう……」


 1人で笑ったり疲れたり、はたから見ればずいぶん奇妙に思えただろうが、私にはこの貧弱さですら楽しんでいた。ただまあ、もう少し体力があってもいいとは思うが……


「しかしどうしたものか……」


 私は頭を抱えた。今来たのは探知魔法で調べた全行程の10分の1程度、たったそれだけ歩いてこの疲労では、いったいいつ辿り着けるかわからない。転移魔法を封じられたのが思いの外響いている、おのれ魔女め。


「せめて途中に休める場所でもあればよいのだが……」


 私は改めて探知魔法を使った。すると先程とは違った反応があることに気付いた。


「……む?」


 探知魔法は距離が遠ければ精度が落ちるが、近づいたので気付けたらしい。

 近くに生命の反応がある。数は2、一緒に行動しているらしい。しかもそれはなぜか、かなり早いスピードで私の元へと迫ってきている。

 なんだこれは、人間の速度ではないぞ。このままだとすぐに私のそばまで……そう思った矢先、耳と目にもそれらの情報が届いた。

 木々をかき分けるガサガサという音と、ドドッドドッと地面を叩く音。それがだんだんと近くなり、森の木々の向こうから、迫る影が見えてくる。


 それは馬だった。森の中を一心不乱に馬が走っている。その後ろには車輪のついた板……もとい、簡易的な荷車。1頭の馬が小型の荷車をひいているのだ。だが様子がおかしかった。


 バルルル、ブルル、と馬は涎をまき散らしながらいなないており、かなり興奮している様子だ。スピードも木々の入り組んだ森で出すには早すぎる。


「うわああああああ! と、止まってけろ~~~~!」


 さらには馬車の主と思しき女の必死の叫びが耳に届いた。どう考えても馬車を制御できているとは思えない声だ。

 どうやらなんらかの原因で馬が暴走してしまっているらしい、しかも馬は一心不乱に走ってきて、このままいけば私と衝突する。


「あらぁ!? そ、そこの人、よけて~~~!」


 私の存在に気付いた馬車の主が悲鳴を上げる。だが私はおもむろに立ち上がると、正面から馬と向き合った。

 馬の顔に掌を向け、我が内に宿る魔力のほんの一端を解き放つ。


「止まれ」


 その途端、衝撃波にも似た振動が森の大気に響き渡ると同時に、暴れ馬は一瞬その身を震わせ、その足どりが次第に遅くなり始める。私のもとへ来るときにはすっかり落ち着き、私に向かってこうべを垂れ、静まった。

 体は貧弱になったが私の魔力は健在、それを使えば下等な動物を御する程度は造作もない、むしろ動物ほど本能的な恐怖を刺激してやれば簡単に従わせられる。


「……はええ……あんた、大丈夫だか?」


 馬車の主がおそるおそるといった感じで馬の奥から私を覗き込んだ。訛りのある口調の娘はオーバーオールを着た野暮ったい女で、黒いおさげと顔のそばかすが目立つ。


「フン、この程度どうということはない。貴様、獣を利用し働かせるのならばしかと主従をつけろ」

「はええ、面目ねえだよ……」


 馬車の主は手綱を握ったままぴょんと馬車から飛び降りて私の下まで歩いてきた。


「わい、マナミって言うんだー。この子、モモって言うんだけどぉ、止めてくれて助かっただ。あんたの名前も聞かせてけろ」

「私か、私はシャ……」


 シャイターンと名乗ろうとして私は慌てて踏みとどまった。いくら辺境といえど魔族と人間は戦争のさなか、魔王の名は知れ渡っている恐れがある、馬鹿正直に名乗ってはいらぬ混乱を招くだけだ。しまった、こういう時の為に何か偽名を用意しておくべきだった……私が逡巡していると。


「そっかー、シャイちゃんかー。まだ小せえのに馬を扱えるなんて偉いなー」


 馬車の主の女、マナミは勝手に勘違いしてくれたようだ。都合がいいのでそれを利用することにする。これより私の名はシャイだ。


「時にマナミよ、ここからやや遠いところに人間の集落があると思うのだが、知っているか?」

「集落? ああー、村ならあるなぁ」

「そうそれだ。私はそこに行きたいのだがちと遠くてな、疲れ果ててしまったのだ。馬を鎮めた礼代わりに、その馬車に乗せていってはくれぬか?」

「ふぅむ……?」


 マナミは怪訝そうにしげしげと私を見た。何か気になることでもあるのだろうか。私も訝しんでいると、ふいに質問をぶつけてきた。


「そういえばシャイちゃん、なしてこんなところにいるんだ? パパとママはいねえのか?」

「父と母? 私にはそんなものはない」


 私に家族はいない。魔界では珍しくもないことだ。肉体の、つまり魔女の両親についても考えはよぎったが、それこそ知るはずがない。


「他に家族はいねえのか……?」

「家族なんてものは知らない。私は私1人だ」


 魔王軍も失い、私は文字通り1人きりだ。だからどうとも思わないが。


「んじゃ、なんでこんなところに……?」

「それは説明し辛いが、強いていえば追放されたからだな。他に行くあてもないのだ」


 元魔王だとは説明できなかったが他の事を隠す必要もないので私は正直に語った。とにかくこのマナミの馬車に乗り町まで行きたい、それだけだ。

 マナミはなぜか私をじっと見つめている。


「改めて頼むが、馬車に乗せてくれ。それか町までの楽な道があればそれを教えて……」

「いいよいいよぉ! 乗せてってあげるよぉ!」


 マナミは突然私の手を握り大きな声を出した。なぜかその瞳がうるんでいた。


「シャイちゃん、事情は知らねえが苦労してんだなぁ……なのにそんな気丈に振る舞ってぇ……馬車に乗せるくらいお安い御用だぁ、さあ乗って乗ってぇ」


 マナミの感情には混乱するばかりだったが、とにかく馬車に乗せてもらえるらしいので私は一安心した。


「おおそうか、では頼む」

「うんうん、まっかせるだよ。なーも心配せんでいいからなぁ」


 そう言うとマナミは私をその膝の上にちょこんと乗せた。まるで子供のような扱いに気恥ずかしくもあったが、1人用の小さな馬車ではこれがもっとも安定するのだろう、大人しく従う。


「ほんじゃあモモ、行くよぉ!」


 マナミが手綱を引き馬に合図すると、すっかり大人しくなった馬はゆっくりと森を進み始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る