第5話 航海

 日本を離れ、幾日過ぎたであろうか…


 敷香港を出港し樺太を立ち、翌日には地中海に派遣される海軍の第二特務艦隊と合流し、その次の日には、日本各地の港から出港した陸軍欧州派遣軍の各船団も合流した。


 大所帯と成った船団は、海軍の第二特務艦隊に護衛され、太平洋を南下し、マラッカ海峡を抜けてインド洋へ、そこから西進して紅海に入り、スエズ運河を抜け、今はマルタ島を目指して地中海を航行している。


 航海の途中に香港、シンガポール、コロンボ、ボンベイ、ジブチ、アレクサンドリアに寄港して、船団は給油、給炭、水や食糧等の補給、船員や将兵の休養を行いつつここ迄来たが、2ヶ月にもおよぶ長旅だ。


 私は長い長い船旅に辟易しつつ、読書に精を出していた。

 本を読むか景色を見るぐらいしか、船ではやることがなかった。


 私は今、陸軍参謀本部第四部戦史課が編纂した、明治維新から現在迄の記録、歴史が記された本を読んでいる。



 今からは少し、我が国の明治維新後からの、戦争の歴史と軍事の話をしよう。


 我が帝国は、明治27~28年(1894~95年)の日清戦争という初の対外戦争に勝利する。下関講和条約は、英国イギリスの仲介案を受け入れて、遼東半島の割譲は取り下げて、露国ロシア以外の列強の朝鮮の独立保証、三億両の賠償金と、台湾を外地として手にいれた。


 明治31年(1898年)の米西戦争では、アメリカ合衆国の要請を受けてスペイン領グアム島を占領し、米西戦後にグアム島を領有。


 明治35年(1902年)に日英同盟が締結される。


 明治37~38年(1904~05年)の日露戦争では、日本は満州のロシア帝国軍を撃退し、日本海でバルト艦隊を壊滅させ、ロシア帝国領であったシベリアや中央アジア、西アジアの地域で独立運動を生起させ、ロシア帝国から辛うじて勝利を得た。

 この独立運動が切っ掛けで、1905年にシベリアや中央アジア、西アジア諸国はロシア帝国から独立する。中でも、ウラル山脈から東を領有するシベリア王国は、日本の盟友となった。

 日本は、シベリア王国や中国大陸との新たな交易ルートを確保する為に、明治39年(1906年)から、日本縦断運河(大阪湾~琵琶湖、伊勢湾~琵琶湖、琵琶湖~敦賀湾)の建設を開始。

 同年に日本の保護地域となっていた満州地域開発を、「桂・ハリマン協定」をベースに米国と共同で行うことを合意する。



 ここから一旦軍事の話になる。

 児玉源太郎参謀総長在任中の明治39~43年(1906~10年)にかけて、「兒玉ドクトリン」と「山本・斎藤ドクトリン」に基づいた第一期軍部改革が実施される。

 そもそも「兒玉ドクトリン」とは、山縣有朋元帥が日露戦争後に考案した50個師団構想を覆す為の案で、日本の経済、産業などの国力の充実を優先させた上での日本陸軍の部隊編成と部隊運用を考案したモノであった。

 山縣元帥の50個師団構想は、日露戦争後のロシア帝国の復讐戦に備えるというもので、日本本土に平時25個師団を備え、戦時には更に25個師団を動員し、開戦前にはシベリア鉄道等を用いてシベリア王国、カザフスタン共和国の国境線に部隊を派兵して、ロシア帝国がアジア方面に差し向けられる最大戦力と正面から戦うというものだ。

 これに対し児玉大将の案は、平時は16個師団・旅団とし、戦時は14個師団・旅団と、予備師団・旅団として10個師団・旅団を増強するというもので、単純な兵数による戦いではなく、適切な編成と装備、火力の増強と効率的な指揮、下級指揮官(下級士官や下士官)による前線での意思決定の完結、確実十分な兵站の確保によって、30個師団・旅団を機動運用し、10個予備師団・旅団を日本本土の防衛に充てるというものであった。

 適切な編成と装備、兵站等後方支援の充足、火力の増強と機動運用、効率的な指揮を実現させる為にも、日本の国力の拡充は最も優先されるべき事柄であり、当初の主な仮想敵国はロシア、戦場はシベリア、中央アジアを想定していた。

 後にこの仮想敵国は、イギリスの仮想敵国であったドイツ帝国になる。

 日本陸軍内で自動車の運用が検討され始めたのもこの頃だ、輜重兵科で自動車の研究が開始され、陸軍工廠では車輌の研究開発が行われた。


 また、海軍のドクトリンである「山本・斎藤ドクトリン」は、やはり日本の国力増強に重点を置いたもので、海軍は日本の物資、物流を支える海運、海上交通路を保護する事を重要視し、また、基本的には日本近海で敵を迎え撃つ防御型海軍(地域海軍)としての機能を重視するというものだ。

 日露戦後も陸軍と共に、ロシア帝国が仮想敵国であり、再建されたロシア艦隊の侵攻に備える事とした。日露戦争での戦訓から、攻勢側が侵攻地点を選べるという点に留意し、広大な日本近海を多数の哨戒艦船を用いて索敵し、こちらの主力艦隊を敵艦隊に有効的に差し向けて、敵艦隊を撃滅するという考えと同時に、敵が日本へ向けて航行する途上の日本近海到達前に、機動艦隊を用いて邀撃ようげきし、日本近海への接近を妨げ、侵攻の意図を挫く構想が練られた。

 その為に、戦艦4隻を主力とする艦隊と、巡洋戦艦(装甲巡洋艦)4隻を主力とする艦隊を整備し、戦艦4隻の艦隊を決戦主力とし、巡洋戦艦4隻の艦隊を機動艦隊としていた。

 この機動艦隊は、防御型海軍(地域海軍)でありながらの外征艦隊(攻勢型海軍:外洋海軍)であり、機動艦隊の為に兵站を支える補給艦船も整備された。

 後にドイツ帝国が仮想敵国となった際には、南洋諸島のドイツ領対策として、常設部隊としての海軍陸戦隊を整備、拡充し、揚陸戦用の輸送船舶と護衛艦艇、兵站支援の為の艦船の充実が図られた。


 1906~10年の間には、陸海軍共に工廠の増設が行われ、陸軍は東京、大阪、名古屋、小倉、旭川、樺太の6工廠、海軍は横須賀、呉、舞鶴、佐世保、大泊、宇流麻うるまの6工廠体制になり、武器、兵器の研究と国産化に力を入れた。


 明治44年(1911年)には、憲兵を陸軍がら分離し、国家憲兵隊を創設し、近衛師団を縮小、改編し、「首府近衛連隊」と「畿内近衛連隊」という、独立混成連隊が創設される。



 歴史の話に戻ろう。

 明治42年(1909年)に伊藤博文暗殺未遂事件が起こる。

 その翌年の明治43年(1910年)、日本の保護国である大韓帝国で反改革派の反乱が発生する、李氏朝鮮時代に利権を牛耳っていた者達による反乱だ。

 伊藤博文氏の考案により、日本は朝鮮、満州での経済活動を最小限に抑え、国内の開発に力を入れていた為に、大韓帝国の内政に必要以上に介入する事に消極的ではあったが、安全保障上この朝鮮半島は重要地点である為に、日本は大韓帝国の要請を受ける形で、この反乱を鎮圧した。

 反乱鎮圧後、大韓帝国の皇帝純宗は皇族の李堈に譲位し、李堈は国号を「高麗帝国」に改めて、日本の後ろ楯の下に朝鮮半島の近代化を目指した新たな国家を建設する。

 またこの年に、児玉源太郎閣下が脳溢血で急逝された。


 明治45年/大正元年(1912年)には日本国内の政治情勢が変化し始める、所謂いわゆるデモクラシーだ。

 憲政擁護運動、普通選挙運動、貴族院改革、政党内閣、軍部大臣現役武官制度改革、明治憲法の改正運動が巻き起こり、軍部大臣現役武官制度の改革は、軍部の賛同により、予備役、後備役からも任命される事になる。

 同年に中国大陸では、清朝が倒れ中華民国が建国され、この時に清朝最後の皇帝とその親族が日本に亡命する。


 大正3年(1914年)に、欧州大戦が勃発、英国の要請により日本は対独宣戦布告、連合国として世界大戦に参戦する。


 大正4年(1915年)日本は中華民国(北洋政府)と友好条約を締結する。



 ここからはまた軍事の話だ。

 日本陸軍は日露戦後の明治40年(1907年)に、陸軍工廠に「自動車開発研究機関」を、輜重兵科に「軍用自動車試験隊」を設置。

 これは兒玉ドクトリンによる兵站の充実と機動運用を考えての措置であった。


 明治44年(1911年)に陸軍工廠にて、「国産一号甲号自動車」という軍用トラックが開発され、翌年には甲号(2トン積)の他に丙号(4トン積)、丁号(3トン積)が開発される。


 大正2年(1913年)には工廠で牽引車(トラクター)が開発され、「国産一号三屯牽引車」と命名された。


 大正3年(1914年)に「試作軍用乗用車」が開発され、同年の青島の戦いでは日本軍で初めて、軍用自動車が実戦で使用される。


 大正4年(1915年)には「仮称二屯自動貨車」、「仮称軍用乗用車」が開発生産され、翌年の大正5年(1916年)には「仮称四屯牽引車」、「仮称軍用自動二輪車」、「仮称軍用自動三輪車」が開発され生産される。


 火砲も砲兵トラクターの導入により牽引装置の最適化が図られ、大正元年~2年(1912~13年)の間に「三八式野砲改」(口径75㎜)、「三八式十糎加農砲改」(口径105㎜)が製作され、これらの砲は青島の戦いで用いられた。

 大正3年(1914年)からは、長射程、車輌牽引装置付きの新型火砲が制式採用、量産され、「三年式七糎半野砲」(口径75㎜、砲身長40口径)、「四年式十糎加農砲」(口径105㎜、砲身長35口径)、「四年式十五糎榴弾砲」(口径150㎜、砲身長15口径)として順次部隊配備されている。


 小火器開発でも日本陸軍は日露戦争の戦訓により、個人が携行出来る機関銃の開発に着手。

 大正5年(1916年)に「五年式軽機関銃」が制式採用され、歩兵部隊の火力が強化された。

 また、士官や下士官が携帯する拳銃として、明治41年(1908年)に南部式自動拳銃が制式採用され、「四一式自動拳銃」と命名されている。



 明治維新後の戦争の歴史と軍事、まあ軍事史でいえば、日本の辿ってきた流れは大まかに云うとこの様な感じだ。

 海軍さんの軍事史の話はまた今度にしようか…


 船はまもなくマルタに着く。そこで補給と休養の後には、我等はマルセイユに入港し、西部戦線へと向かうことになる。


 実に長い船旅だ…

 この航海で、遠洋航海というものを味わっているが。

 海軍さんには頭が下がるよ…


 私は早く陸に上がりたいと、願うばかりであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る