第3話 我が家

 第八歩兵連隊が駐屯し、第八師団司令部がある樺太駐屯地の衛門を出て、雪が再び降り始めた、軍都樺太市の、我が家へと向かう帰り道を歩く。


 樺太市の街並みは、明治維新後に造られた事もあり、レンガ造りの洋風な建築物が多く、外灯のガス燈は電灯に移行され、上下水道もしっかりと整備され、路面電車も通る広い道路が通っていて、ちらほらと、自動車も走っている。

 日露戦争後は、軍事費を抑えて、国内の開発に官民協同で力を入れた結果だ。

 それに、軍都であるが為に、樺太市の都市開発は優先されている。


 駐屯地前にある駅から、路面電車に乗っても良かったのだが、今日は少し寄りたい場所が出来た。

 そこへ寄るために、私は歩いて帰ることにしたのだ。


 家と駐屯地の間に、小さな稲荷神社があり、その神社を中心に公園が整備されている。

 私のお気に入りの場所だ。


 公園は雪かきされてはいるが、これから降る雪で、また明日の朝には歩くのが大変になるだろう。

 公園内を歩き、その奥に鎮座する稲荷神社の鳥居をくぐる。

 この地の氏神様である稲荷神社で手合わせた後、境内の裏に回る。

 そこには、いつものように野生の狐の夫婦めおとがいた。

 どうやら、ここにいつの頃からか住み着いているらしい。


 私この地に赴任して直ぐに、この神社に詣りに来た時もこの場所に居た。

 

 雪のせいか、狐の赤毛がよく映えてみえ、目を細めてこちらを見るキツネの夫婦は、とても愛らしく思えた。

 「本当にお前らはここの神様みたいだな… 神様にもお願いしたが、どうか妻と、これから産まれてくる子を見守っていてくれ。」


 私はその場から立ち去ると、再び家に向かって歩みを進めた。

 その時ふと、稲荷神社の方から、狐の鳴き声が聴こえたような気がした。




 駐屯地を出て30分後、家に帰り着いた。

 去年のこの地に赴任する事が決まった時に買った家だ。

 外見は和風の平屋の一軒家だが、樺太の地にあるだけに、中身は防寒仕様で、暖房機器が整っている。


 玄関の戸を開けると、外とは違う、暖かな空気が、芯からの寒さを溶かしてくれる。


 「ただいま!」

 着ていたコートを玄関横のコート掛に掛けていると、妻が顔を見せた。


 「お帰りなさい。」


 「ただいまゆき!」

 私は改めて、妻の方を見て言った。


 妻の雪とは、私が陸軍大学校に通っている時に出会った。

 彼女は行きつけの喫茶店で女給をしていた。和装に白いエプロンの可愛らしい服を着た女給達がその店の売りでもあり、頼めば自分の好きな女給が食事を運んでくれる事から、その店は繁盛していた。

 私が言うのも難だが、雪は雪という名とは裏腹に、浅黒い、日に焼けたような肌色で、冬でもその様な肌色であり、背も172㎝と高く、凛としているように見えるため、喫茶店では人気のある女給の一人であった。

 だが、彼女には女給としては決定的な欠点があったのだ…

 単刀直入に言えば、愛想がない。つっけんどんな感じであった。

 そんなもんだから、だいたいの人は遠目から見てる具合が良いといって、雪に茶や食事の給仕を頼む者は少なかった。

 私はというと、下宿先にこの店が近いという安直な理由で行きつけにしていただけであったので、給仕をしてくれるのは誰でも良かった。

 だから、手が空いていた雪が、私によく給仕をしに来てくれていた。


 あれは、喫茶店に通い始めてしばらくしてからだった。

 女給が人気の店だ、中には変な客も来る。

 私はその時は休日であり、時間は10時頃、私服で来店していた。

 相変わらず給仕をしてくれたのは雪で、エスプレッソを頼んでいた、この日は早くエスプレッソを飲んで、図書館にでも行こうと思っていた。


 「お客様困ります!」

 甲高い声が聞こえてきた。

 声の方へ振り向くと、一人の女給と、椅子に座っている太めの図体の小男が見えた。


 「何かあったんですか?」

 私の隣に座っていた客に聞いてみた。

 彼が座っている方向からなら、あちらの小男の方がよく見えるからだ。


 「あの野郎、女給さんの尻を触ってやがったんですよ。まったくけしからん! たまにあるんですよこういうこと。」


 「ああ、成る程。それはけしからんですね。」

 あちらの方を再び見ると、尻を触られたと言う女給と小男は、口論になり、しまいに女給は泣きはじめていた。


 やれやれと思い、席を立ち、諌めに移行とした時だった。

 パシン! という、乾いた音が店内に響いた。

 雪が小男を平手で叩いたのだ。

 その勢いか驚いた為なのか、小男は椅子ごと転けた。

 図体の太い小男は、重い体を揺さぶるように立ち上がると、雪に殴りかかっていったが、逆に投げ飛ばされていた。


 「お見事…」

 私はつい、言葉が漏れていた…


 小男は再び起き上がろうとしていたが、私はその前にそいつを抑え込み、身動きが取れないようにした。


 「ありがとうございます。」

 雪は小男を抑えている私に、そういって頭を下げたが、この、今は床に顔を押さえつけられている男を殆んど懲らしめたのは、彼女であった。


 あの時が、私が人生で初めて、人に惚れた瞬間だった。



 今、玄関で私の目の前にいる、その彼女のお腹には、もう一つの命が宿っている。

 妊娠8ヵ月、もうすぐ家族が増えるという時である。

 そんな、私にとっては嬉しいことの最中での、"欧州派兵"決定であった。


 玄関から上がり、食卓のある部屋に二人で行くと、雪に話を切り出した。


 「実は大事な話がある。我が皇軍の欧州派兵が決定し、私が配属する第八歩兵連隊が出征する事になった。出立は2月6日だ。」


 「お勤めご苦労様です。留守居は私にお任せ下さい。」

 雪はお辞儀をし、直ると私に微笑んだ。


 その後、雪が作ってくれた晩御飯を食べ終えると、留守中の話をした。


 「私がいない間は、奥端の私の実家に居てくれないか。」


 「私は構いませんよ。でも智永ともながさんもご結婚なさったばかりでしょ。」


 妻は、弟夫婦を気にしてくれているみたいだ。

 弟の、次男の智永は、奥端にある地元の酒蔵で働いていて、今は「奥端麦酒」というビールの製造の責任者だ。その弟は、今年の1月に結婚したばかりだ。


 「これから念のため電話して聞いてみるが、邪険にすることはないはずだ。私の弟だぞ。それに、今の実家は無駄に広くなったし、父や母もいる。身重のお前を、大事にしてくれるはずだ。」


 「それなら、お世話になろうと思います。」

 相変わらず雪は口数が少ないが、納得したという顔をしてくれている。


 私は電話のダイヤルを回し、電話をかけた、交換手に実家へ繋いでもらうと、弟が電話に出た。


 「兄さん元気かい?」

 「息災だよ! お前はどうだ?」

 「元気にやってるよ! 久しぶりだね、どうしたの?」

 「実はだな…」


 私は弟に、欧州派兵の事を話すと、妻を迎えに来てくれると言って、こころよく受けてくれた。


 「雪、大丈夫だ。2月6日に弟が迎えに来てくれる。」

 「御苦労お掛けします。」

 「構わない。それより、大事な時に居てやれずに、申し訳ない。」

 私は頭を下げた。

 この時は本当に、申し訳ないとしかいいようがない程に、申し訳がたたなかった。


 「智尋さんのせいではありませんし、名誉な事ですよ。ただ…」

 「ただ…」

 雪は言い澱んでいた、顔も心なしかうつ向いているように見える。


 「生きて帰って来てくださいね。その時は三人で、会いましょう。」

 妻の雪は、実は、幼い頃に両親を流行り病で亡くし、天涯孤独の身であった。

 独りに成ることに、やはり不安があるのだろうか…


 「ああ、任せろ。死ぬ気はない!」

 少しでも安心して欲しいと思い、出た一言ではあったが、もちろん私自身、死ぬ気は毛頭無い。


 この話をしている時には、もう夜も更けて、いた、二人で床につき就寝する。



 翌朝、私はいつも通りに家を出て、駐屯地へと向かった。

 2月2日と3日は、連隊各員に交代で特別休暇が与えられており、出征前の最後の休みを、各員が過ごした。

 私も3日が休みであったため、この日は妻と二人で、のんびりと過ごした。


 4日は連隊総員が再び集合し、装備点検が行われ、5日の日中には樺太市街地で、出征前の行進が行われた。雪が降ってはいたが、沿道には日の丸や軍旗を振る多くの民衆が来ていた。


 そして2月6日、出発の日を迎えた。

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