涙と弁当と母と子 事件1日目~帰宅時~


 その日の授業が終わり、宇野一弘は帰路を自転車で帰る。


 ゆっくりと自転車をこいだので、今日はいつもとやや遅めに自宅のアパートへと着く。太陽もすっかり山の向こうへ沈み、空は紫色であった。


 宇野一弘はドアを開き、玄関に入る。すると、母の靴が並んであった。この靴は母の出勤用の靴であり、宇野はそれに気付くとため息を吐いた。


 やや遅めに帰ったはずなのに、母はまだ仕事へ出勤していない。確かシフトでは連日の夜勤であるはずだった。このままでは遅刻してもおかしくない、そんな時刻である。


 宇野一弘は靴を脱いで廊下を通り、台所に入る。と、部屋の隅にあるキッチンでせっせと何かを作る母の背中があった。

 その背中に、宇野は声をかける。


「ただいま、あとお母さん、仕事は?」


 声に気付き母親はやおら振り返る。その顔は窓から差し込む夕日で逆光となり、宇野一弘には少し見えづらかった。


「おかえり、かずちゃん。そうね、今日はちょっと遅れちゃうかもね」

「えっ!?いいのか?」


「いいのよ、そういう日だってあるの・・・それより、聞きたいんだけど、お弁当はちゃんと食べてくれた?」

「た、食べたさっ」


 宇野一弘はどこか見透かされたような母親の言い方とその目に焦りを覚え、とっさに返事を返す。そして話題反らしにと朝のことを問う。


「それより、食券、どこにやったんだよ?あれだけ集めたってのに!」

「ああ、あれね。預かっているの」


「あ、預かるって・・・そんな勝手に・・・」

「いいじゃないの?お弁当があるんだもの、もし足りないなら量も増やすし」


「それを聞きたいんじゃないッ!」


 宇野は怒りがふつふつと沸き、言葉に荒々しさが混ざる。


「なんでそんなことをするのか聞いているんだ?」


 宇野一弘の問に、母親はまっすぐと宇野を見つめる。夕日が沈み、よく確認できるその顔は悲し気であった。二人はテーブルを挟んで対峙する。


「だから、お弁当があるじゃない。お母さんはね、かずちゃんに作ったお弁当を食べてもらいたかったのよ」

「だから、弁当のことはどうでもいいって言ってるんだよ!食券を、何も言わずに、勝手に盗って!」


「うん・・・それに関しては、謝るわ。でも、必要ないじゃない。お弁当があるし、券はほとんど期限も切れていたし」

「・・・必要だから置いていたんだ。それより、食券を返してくれ!」


「うん・・・でもその前にお弁当箱、返してくれる?洗いたいし・・・」


「そんなの、こっちで洗うから!」

「いいの、洗い物のついでよ・・・かずちゃんのお弁当を洗って、お仕事に行きたいの」


 母親が手を差し出す。宇野一弘は一度、渋る。どこかイヤな予感がしたからだ。だがここで出さないというのも不自然である。仕方なしにスクールバッグから取り出し、テーブルへと静かに置く。


 母親はそれを取り、箱を開ける。そしてまじまじと中を見つめると、泣きそうなくらいに悲しそうな顔をする。


「お弁当、食べてくれなかったのかな?」

「え、どうして?」


 宇野一弘の息が一瞬のあいだ止まり、脈が速くなる。

 どうして?何故?どこで気付いた?どの部分で?次々と湧く疑問。しかし今、その思考は不要であると抑え、この場を凌ぐために頭を巡らす。

 しかし、彼が答えを導き出す前に、母親は言う。全てを見透かしたかのように。


「だって、かずちゃんのお母さんだもの」


 その言葉に、宇野一弘は何も言葉が出てこなかった。

 お母さんだから?何も答えになっていない。抽象的すぎて、余計に混乱する。

 息が苦しくなる。しかし返事をしないと、それを肯定したことになる。

 呼吸と思考が整わぬまま、宇野一弘はなんとか声を捻り出す。


「・・・食べたさ。お母さんの気のせいじゃない?それより、さっさと仕事行きなよ。あと食券、明日には返してくれ」


 苦し紛れに出た言葉。宇野一弘は母の顔を見ず、開いたスクールバックを閉める。そして、そしらぬ顔を作ると、


「じゃあ、宿題があるから」


 そう言い残し、自室へと戻り、色落ちした襖を閉める。


 そして、荒々しくカバンを床に放ると、ドカッと畳の床に座った。


 イライラする。何故あの母親は分かってくれないのか、宇野一弘はとても苛立っていた。放っといてほしい。自分の思うままにやらせてほしい。分かって欲しい、あらゆる気持ちが渦となり、言い知れぬ苛立ちが巻き起こっていた。


 もう、気分が悪い。腹が立ちすぎると何もかもが嫌になる。

 そのまま宇野は横になり、目を閉じた。


 少し、落ち着く。ぼーっとしていると、台所から水の音がする。お弁当箱を洗っているのだろう。

 それと、鼻をすするような音・・・それに声が混じり「スンっ、スンっ」と聞こえた。泣いているのだろうか?


 気にはなるが、体を起こす気分にはなれなかった。こっちだって、大事な物を取られて泣きたい気分だ。


 台所での作業が終わったのか、玄関のドアが開く音がした。ようやく出勤したのだろう。

 ドアが閉まり、シンと静かになる。宇野一弘はそのまま、ふて寝をした。


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