2、山本 ましろ(1)

 【山本 ましろ】


「すみません、まだ解けてません」

 

 数学の授業で先生は私を指した。しかし私はその問題をまだ解けずにいた。


「そうか、もう少しペースアップしないとな。それじゃあ……」


と、先生は別の子を代わりに指名する。数学の担当はこのクラスのことをよくわかってない。きっと生徒のことなんて何も興味がない奴なんだ。私の置かれている状況を知っているのならば、そんなこと言えるはずがない。


 私は元々あまりノートを綺麗にまとめるのがうまい方ではない。周りの女の子は巧みに色を使い分けて、誰が見てもわかりやすいノートを作りあげる。でもそれが、私にはできなかった。小学校の頃からそうだったから、もうそういう美的感覚だったりまとめたりだったりを要求されるようなことは避けてきた。だからノートなんて自分が見返してわかればいいやと思っていたし、板書に書かれたものをそのまま写すだけが私のやり方だった。でもそうとも言っていられない事態が私を襲った。あれは二年生になってすぐの四月のことだった。私は係決めで『サポート係』という係に就いた。いや、就くことを余儀なくされたと言った方が正しいかもしれない。


 四月は出席番号順に席が並べられていて、私の後ろには『結城奏太』という男子が座っていた。一年の頃から有名な生徒だったから存在は知っていたけれど、きちんと顔を見るのももちろん交流するのも初めてだった。


 彼は耳が聞こえなかった。先天性のものらしく、そもそも彼は音というものを知らない。そんな彼に興味がなかったかと言えば、そんなわけはなかった。私は積極的に彼と会話を試みた。小さな手帳に文字を書いて、何かあれば私に伝えてくれと言った。彼自身のことも知ろうとした。趣味はあるのかとか、得意な科目は何かとか、とにかく色々話してみた。でも彼は私を少し見やるだけで、ほとんど会話なんてしてくれなかった。たまに彼の気が向いた時だけ、首を縦に振ったり横に振ったり。正直甲斐はなかった。元々私の興味本位で始めたことだからと言って、そこに善意というか慈悲活動の一環的な意味合いが全くなかったかと言えばそうではなかった。積極的に彼に話しかけようとする生徒は私以外にいなかったし、先生ですらあまり干渉しようとしていなかった。そんな奏太君のことを少しばかり気の毒に思っていたし、席が近い私が何かしてあげなきゃって、そういう気持ちが少しくらい芽生えても不思議ではない。


 しかしそういう私の行動が係決めの時に『サポート係』という言葉の通り奏太君をサポートする係を作り上げてしまった。それで私は正式に彼をサポートする係になった、というわけだった。


 サポート係の活動の一つとして授業のノートを奏太君に提供するというものがあった。先生も一人一人が奏太君のために授業ができるわけでもないし、全てを黒板に板書するというわけでもない。私にはそんな奏太君が知ることのできないものを教えてあげる役目があった。だから授業中のノート作りに気を遣う必要が出てきてしまったのだ。そんな苦労を、数学教師はわかっていない。本当にむかつく奴だ。


 奏太君が私のこの行動をどう思っているのかはわからない。奏太君は耳が聞こえない為に、話すことも上手くはできなかったからだ。少なくとも私は奏太君が喋っているところを一度として見たことがない。少し不愛想なところもあるから、正直感謝されているようには全く感じない。でも私はもうそれでも良かった。


 最初こそやらなきゃ良かったと後悔したこともあった。どうせ奏太君によくしたところで、私の得には一切ならない。でも以外なことが起きた。奏太君は二年生になって急に成績を伸ばしたのだ。


 普段から悪い成績というわけではなかったが、一年生の頃は良くても真ん中くらいだった。それが今では上位三位に入る成績だ。奏太君本人が頑張ったからというのももちろんあるだろうが、奏太君は私のノートを写してそれで試験勉強をしているはずなのだ。だとしたら、この結果は少なからず私のおかげなのではないかと、そんな風に思ってしまってもバチは当たらないだろう。


 そう考えると、なんだか俄然やる気が出てきて仕方がなかった。これだけ頑張っているのに私自身の成績に全く変化がないのが唯一の不満点ではあったが、私が頑張ると奏太君の成績が良くなる。なんだか気持ちが良かった。奏太君は私に何も言ってはくれないけれど、そうやって結果で感謝の意を伝えられているような、そんな気がして。


 夏休みの間はサポート係の仕事はない。この間、なんだか寂しくて仕方がなかった。奏太君に何かしてあげることが、私の生活の一部になってしまっていたのかもしれない。気づけば私は奏太君のことばかり考えていた。どんなノートを作れば今よりわかりやすくなるだろうか。何をしたら奏太君は喜ぶのだろうか。何をしたら奏太君は不便を感じなくなるのだろうか。奏太君に笑ってもらいたい。奏太君に楽しんでもらいたい。学校にいる間、不愛想に一人でいる彼を、どうにかして笑顔にしたかった。夏休みが終わるころ、私はそんなこと を考えるようになっていた。


 九月、始業式の日。転校生の柏木辰巳君がクラスにやって来た。社交的な彼はすぐにクラスに溶け込んで、たくさんの友達を作っていたが私は正直なところ苦手だった。あの柏木君の笑顔にはどこか作り物のような違和感を覚えていたからだった。


 柏木君は奏太君と一緒に下校するようになっていた。学校にいる間はほとんど奏太君とは話さないくせに帰りだけ近づいてくる。その行動も私には疑問だった。でも私の考えと反比例するように彼らは仲良くなっていった。


 どうして奏太君はあんな人と仲良くなってしまったのだろう。どうしてだろう。私はこんなに頑張ってるのに。私はずっと奏太君のことを考えているのに。どうして仲良くなれるのは私じゃなくて柏木君なんだろう。


 そう思っているうちに私は自分の中に芽生えている本当の気持ちに気付いた。そう、私は奏太君のサポートをしているうちに奏太君のことが好きになっていたのだ。この気持ちに気付いてしまったらもう抑えられなかった。どうにかして伝えたいって思った。


 でもどれだけ奏太君にこの想いを伝えようとしても、彼の耳には届かない。だとしたら方法は一つしかなかった。私のこの気持ちを文字にする。それ以外にはない。

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