辰巳‐弐

「やはり、きついな…」




 汗が滴り落ちるのを感じる。一応これでも村長の家系に生まれたものだ。この道は何度か通ったことがある。


 そう、本来この場所は村長の家系、国長の家系、そんなこの地の長となる者たちのみが立ち入ることを許された場所なのだ。ユキも一応は来たことがあったように思う。ユキは村長の傍系――しかも力の強い――なのだから。


 険しい、そんな言葉がよく似合う山道。距離は対して遠くないものの、その険しさと信仰に似た恐怖で人を寄せ付けぬ地の果て、暗の洞。


 それがなんであるか、辰巳はおぼろげにしか知らない。


 昔、巫女が封じたという、おにの姫が最初にいた地下の国に通じているという暗の洞。


 伝説や、お伽話になってしまうほどに遠い昔の話。確かに年に数回、村長の家系の者たちはここを訪れ結界を強めるために呪のまねごとをする。けれど、本当にそれに効果があるか、実のところよくわからない。


 自分たちの呪にそんな力があるのか、辰巳もわからない。国長の血はまだ、力を保っているというものの、そんなことも辰巳にはよくわからない。




 けれどこれだけは知っている、ここは恐ろしい。険しさだけではない、暗の洞に近づくごとに、なにか、自分には関知できないような恐ろしいものに近づいているような気がする。


 こんなところで一人狩りをするという雪那は、やはり村の者たちが語るように異形にもの、地のもの――例えば鬼の姫――に近いのではないだろうか。


 ここにいると、ここにいてこの場所の空気を感じていると、現実的な考え方を有する辰巳でさえもそんなことを想ってしまう。




 いや、考えるのはやめだ。雪那が人よりも地のものに近かったとしても自分にはどうしようもない。ただ、受け入れ、自分の村を守るだけだ。辰巳は首を振り、前を、足元を見据える。一歩一歩踏み締める。


 そして、そこへとたどり着くそんな道を進んだ彼は、山の谷間の小さな谷間―ギリギリ崖と呼べるのだろうか?――に、落ちている彼を見つけたのだ。




「そこにいるのは、雪那か?!」




 声を張り上げる。大きな声、崖に反響して響く。


 遠くはない。声に気付いたらしく、顔がこちらを見る。辰巳にもそこにいる人物の顔は認識できた。あぁ、確かにあれはユキの近くで見たことがある。雪那のくすんだ紫の服がかすかにゆれた。




「――誰だ」




 第一声がそれか。


 上を見上げた彼と目があった、思ったよりも強い視線だ。




「辰巳だ、村長の息子。ユキに頼まれてお前を探しに来た!大丈夫か?!」




「足をくじいた」




「だろうな、待て、今そちらに降りる!」




 肩から荷を下ろす。縄、出来る限り丈夫で長いものを選んできた。暗の洞の周りはこんな風に谷間が多い。帰ってこないならばそれのどれかに落ちたのだろうと辰巳は予想していた。が、




「助けはいらん」




「……何だと?」




耳を疑った。 




「自分で帰れる。だからお前の手は必要ない」




「自分で帰る?!そんなこと出来るわけがないだろう!」




「だとしても、お前の力は借りたくない。お前だって俺を助けることに力を貸すのは嫌だろう」




「意味がわからない、お前――」




 不思議なまでの意固地に本当に意味がわからなかった。そんなこと言われても、ここまで来てしまったし、雪那を見つけてしまったし、今更空手で帰るわけにもいかない。ユキにも申し訳がつかない。




「とりあえず、縄を垂らすぞ!」




 一方的に宣言して辰巳は手短な、それでいてしっかりとした樹の幹に縄を括り始めた。


 村で採れる藁は少ない。この縄は村の子供たちが山から少しずつ採ってきた、つる植物から作られている。それを丁寧に踏み、乾かし、より、出来たものだ。藁よりも頑丈になるまで編みこまれたそれは樹の幹にしなやかにまきつき、結び目をきつく締めた。


 下のほうで雪那が何か言っているが聞くつもりはない。




「出来た、さぁ、行くぞ」




「だから、人の話を聞―」




 辰巳は縄をつかみ、勢いよく谷間に飛び出す。きり、と縄が軋む。その感触を存分に感じながら降りる。足元の土は思ったよりも硬かったことに、辰巳は安心した。


 思った以上に距離があった。谷間に降り立つと辰巳は一度伸びをした。そして雪那に向き直る。


 初めて近くでその顔を見た。不機嫌そうにゆがめられたその顔は確かに村のものたちとは趣が違う。


 目の色も髪の色も少々薄く、橙がかっている。ユキと同い年ということは十五、自分よりも二つ年下か。もう年齢上女に間違えるとまでは行かないが、なかなか繊細なつくりだ。紫の着物はくすんだ色で正直なところあまり似合っていない。


 そうだな、と辰巳は思った。こいつにはきっと白や、派手に赤が似合う。


 山奥の村、特産品は特殊な製法で作る染め薬――、その長たるものの嫡男は色彩に関しては一家言あった。


 村に帰ったら何か家にある古着でもこいつにあげようか、そんなことまで一瞬のうちに考えていた。


 ずいぶん余裕なことだな、自虐して、一瞬だけ上を見る。これから、こいつを抱えて上に上がらなければいけないというのに。




「とりあえず水と食べ物を腹に入れろ。お前昨日から何にも食べてないんだろう」




 辰巳は視線を余所に向け始めた雪那に懐から出した荷物を渡した。


 二つの握り飯、ユキが行きがけに押し付けてきたものだ。




「そんなもんいらん」




 雪那は嫌そうな顔でそれを見た。




「いいからさっさと食え。俺に手ずから食べさしてほしいのか」




 強い口調で押すと、雪那は眉を曲げつつも無言で食べ始めた。辰巳は満足したようにうなずき、今度は背中から包を下ろした。


 幾度かかき混ぜ、必要なものを見つける。




「足を出せ。血は出ていないようだが、腫れてはいるだろう?」




「……」




 雪那は一瞬目をそむけたが、すぐに辰巳のそらさない視線に気づき、いらついたように首を振ってから足を出した。




「素直だな、最初からそうすればいいものを」




 素早く足をつかみ、確認する。これは痛々しい。


 年齢差ゆえか、自分のものよりも数段細い足は赤く大きくはれている。


 これは痛そうだ。というか、




「お前、発熱していないか?」




「してるとしたら、何だ?」




 疑問を疑問で返された。足を持ってから気付いたが、やけに体温が高い。よく見ると顔も赤くなっているように思う。ため息をついた。




「なんでこんな状態で、そう意地がはれるのか俺にはわからん」




「意地?そんなもんじゃない」




「ではなぜ」




「借りを作りたくないだけ」




「なんだそれは……」




 それこそ意地ってやつだろうが、口には出さずにそう思いながら、手を動かす。


 山で採れる薬草で作った簡単な塗り薬だが、それなりに効くはずだ。もっと効きのいい薬も家にあったが、値段もはるいいものなので、お忍びの救出には持ってこなかったのだ。


 こんなところにいることがばれてしまえば、雪那だけでなく辰巳自身も怒られてしまう。


 塗り薬の上に巻く布は、染め粉の出来を試す時に使う麻の切れはしだ。何度か巻いて、きつくならないよう、同時に緩まないように慎重に縛る。




「出来た。食ったか?」




「一応」




「そうか、それだけじゃ足りないだろうが、ここではどうしようもないからな。里に戻ってからユキになんか作ってもらえ」




 立ち上がり、かすかに揺れていた縄をつかんだ。二、三度引っ張る。大丈夫だろう。


 振り返った。雪那と目が合う。




「じゃ、上るぞ」




「……どうやって」




 下から警戒した目で見られた。無言で見つめると嫌そうに口元が歪んだ。




(こいつ、思った以上にわかりやすい)




 話したことは今までなかったはずだけれど、それをもったいなかったな、と思う自分を発見した。そんな心境を隠すよう、出来る限り真顔で言う。




「おんぶだ」




 言った瞬間の彼の顔は見事なものだったと、のちに辰巳はユキに語った。




「いやだ」




「そんなことを言っても、一人では上には上がれないだろう?」




「やってみなければわからない!」




「そんなことを言われてもな」




 辰巳はまた、上を見た。なかなか、上は遠い。


 この少年が他人と身体的接触をしたがらないであろうことも、他人の手を借りることを嫌がるであろうこともユキから聞かされて、承知はしていた。が、度が過ぎる。




(何がそんなに嫌なんだ?)




 次期村長として、村の皆からよく頼られることの多い辰巳からしてみれば、なんでこんなにこいつは頑ななんだ?と不思議になって仕方がない。




「一人で行って途中で落ちても困るんだが……」




 気づけば、最初はからかい半分であったが今になっては本気でこの少年を説得し始めていた。




「大丈夫だ」




 表情が固い。


 もういっそ、こいつの言うとおりにさせてやったほうがいいのではないだろうか。辰巳がそう思い始めた時のことだった。




「そこにいるのはどなたでしょうか?」




 聞いたことのない声が、上から降ってきた。しみるように穏やかな低い声の男。




「誰だ」




 辰巳が何か言う前に雪那が言った。声をたどるように上を見上げると、人影が見えた。こちらからは


逆光で顔の認識が出来ない。ただ、この声は村のものではないだろう。聞いたことがなかった。




(聞いたことがない…?)




 そう思ってから、違和感に気がついた。いや、この声は聞いたことがある。いつだ。


 辰巳は目を細めた。




「そんな警戒しないでください。僕は、怪しいものではないですよ」




「ならば名を名乗れ」




「常盤、と申します」




 あ、と、辰巳の口から声が漏れた。




「国長のところの」




「実はもう僕が国長なんです。お久しぶりですね、辰巳さん」




 驚いた顔で雪那が自分のほうをふりむく。ちょっと惜しかったですね、そういう彼の顔は見えないのに、笑っていることがわかった。








 常盤と名乗った男は事情を聞いてすぐに二人に協力した。


 常盤の持っていた縄を辰巳のものと同じく樹に縛り下に垂らす。


その縄で身体を縛って自ら上る雪那を常盤が引き、下から辰巳がそれを補助しながら上がる。雪那は思いがけない助っ人にどうしていいかわからなかったらしく、辰巳が身体に障っても(出来る限り障らないようにしたものの障らざる得ないところもあったのだ)特に何も言わなかった。




「助かりました」




 上りあがった辰巳は膝についた土を払いながら常盤に向き直った。言いながら、足を払いながら言うなど行儀が悪いな、と思ったが、常盤は気にしていないようだった。むしろやけに楽しげだ。




「気にしないでください。人助けは当然のことですよ。ねぇ、君、大丈夫かい?」




「いや、…大丈夫、だ」




「そうですか、よかった。この辺はなかなか険しいと聞いていたけれど、確かに凄いところだねぇ、ここは」




 常盤は首を傾けて周りをのんびりとうかがっている。どうもこの新たなる国長はなかなかのんびりしているようだ。


 確か五年ほど前、儀式のために父や近隣の村長たちに国長の屋敷に連れて行かれた時に、自分はこの男を見た。確かにその時の面影がある、今は二十歳半ばであろうか。


 年老いた国長の後ろにひっそりと座っていた彼は終始とてもいい笑顔をしていてやけに気になったのだ。遠いし、機会もなかったためにあまり声は聞けなかったが、国長に命じられ祝詞を唱えた際の彼の声はなかなかに美声で、笑顔と同じく記憶に残った。


 あとから父に、彼が次期国長と聞いて、妙に納得したものだった。




「あの、」




「何ですか?」




「なぜ常盤様はこんなところにいらっしゃるのですか?」




 辰巳は常盤が、なぜ国長が今こんなところにいるのかわからないでいた。


 確かにそろそろ来るとは聞いていたものの、まさかこんな暗の洞のすぐそばでばったり会うとは思わなかった。普段ならば、村にやってきて、近状などを聞いてから一泊、ちゃんと支度を整えてから、洞にやってくるのに。何故。




「うーん、それは国長の秘密なんですよ。だから村長の家系のあなたには言えないんですよー、すみませんねぇ」




 やたら爽やかな顔で彼は顎をなでた。


 そうですか、と返事をして、目を下に落とした。国長と村長は違う。その違いに目くじらを立てるつもりはないし、嘘だったとしても、確かめようがない。さっさとあきらめた辰巳に常盤は面白そうに笑った。


 ああ、さっきからやけに親近感を感じると思ったら、こいつはユキに似てるんだ。辰巳は気がついた。国長や村長の家系に流れるという力、それがこの妙に安心するような気配の元なのかもしれない。違うといえど、やはり繋がっているのだ。


 そう一人で納得していた辰巳は、はっとした。雪那のことを忘れていた。さっきからやけに無口だが、なにかあったのだろうか。




「おい、雪那大丈夫か」




「なんとか、な。けど、」




「ところで」




 続けようとした雪那の声を常盤がさえぎる。思わず、びくりとした辰巳が振り返る。




「そちらの方は雪那さんと申されるのですか、初めまして」




 警戒心の一つもなく、自然に伸ばす手に雪那も素直に手を出す。その顔が少々こわばっているのは緊張ゆえだろうか。




(こいつも、まぁまだ若いしな)




 自分を棚に上げて思う。本当、場所がこんなところでなければ普通の光景なのだが、と力が抜けるのを感じた。


 静かに風が吹く。土の香り、上るときに崩した崖からだろうか。


 何やら雪那に色々と問いかけている常盤を横目で見た後、辰巳は荷物をまとめ始める。ふと、空を見た。綺麗な秋晴れ、これから幾月もすれば雪が降り、またすぐにそれは解ける。あまりこの地方には雪は降らないから、きっと冬も越し終わらないうちに雪那はまたここで狩りをするのだろう。


 荷物をまとめ終わり、立ち上がる。辰巳が踏みしめた枯れ葉の音に二人が気付き、振り返った。




「帰りましょう」




 無言の肯定。




「雪那、顔色が悪いぞ。背負うか」




「いい」




「雪那さんは細いのに頑張りますね」




 素気無い雪那の返事と何か間違った常盤の言葉に辰巳はかすかに頭を振って、好きにしろ。と言った。












「雪那!!辰巳!」




 村に着いてすぐにユキが駆け寄ってきた。


 山に通じる道でずっと待っていたらしい、そんなところで待っていたら自分たちが山に行っていたことがばれるだろう。と、思ったのだが、彼女の半泣きの顔を見てしまうとそれを口に出すことが出来なかった。




「腹減ってるみたいだからご飯とかやってくれ。っておい!」




 言いながら振り返った瞬間、雪那が倒れた。辰巳は焦ってそばに跪く。息が荒い、さっきは顔色が悪いと思ったら今度はやけに顔が赤い。村について安心したのか。辰巳は雪那の脇に手を入れ、持ち上げた。




「ユキ。お前の家、今から布団出せるか」




「うっ、うん、出せる!ちょっと先行ってる……!」




 走り出したユキの後に続く辰巳は、




「常盤様、ちょっとすみません、こいつを運んでから屋敷に案内します」




 一歩、二歩進む。返事がないが気にせず進んだ。


 ユキと雪那の家は村長の屋敷のすぐそばだった。森からはそんなに遠くはない。すぐに、開けっぱなしの戸までたどり着いた。が、来る途中に幾人かの村人とすれ違い変な眼で見られてしまっていた。




(後でごまかしておかないと……)




 これで父に知られたら怒られるどころの話ではない。否、自分は怒られるだけですむだろうが、あんなところを狩り場にしていた雪那が困ったことになる。常盤には見られてしまったが、怒ってはいないようだし、なんとかごまかせるような気がしないでもない。のだが、実際どうなのだろう?


 平均より背が低く、かなり軽い雪那だったが、意識がない身体は運ぶのに苦労する。引き戸の縁に雪那の足が引っ掛かり舌打ちして、辰巳は思考を現実に戻した。




(思った以上に変なことになってしまったな……)




 後ろには何故か一人きりの国長、抱えているのは決まりを破ってけがをして熱を出している少年。


 ただの捜索活動が、とんだ対面になってしまった。


 部屋に敷かれた布団に雪那を横たえ、あとのことをユキに任せる。




「どうだ?」




 雪那の額に手をやっていた彼女に声をかけると、




「大丈夫みたい。ちょっと疲れただけじゃないかな。……右足」




 目をつむりながら話していたユキは雪那のけがをした足を言い当てた。




「一応薬を塗って包帯を巻いた」




「うん……、多分こっちも大丈夫」




 村長の家系には力がある。そうはいうものの、辰巳にはそんな力は存在しない。何故か、血の薄いユキのほうが力は強かった。それがどんなものなのか辰巳にはよくわからないし、ユキ自身もあまりわからないらしい。


 まぁいいさ。心のなかで呟き、辰巳は常盤のことを思い出した。立ちあがり、腰を伸ばす。ユキが顔を上げた。




「ユキ、じゃあ、雪那を頼む。俺は常盤様を連れていくから」




「ときわさま?」




「国長様だよ、暗の洞のところであった。さっき俺の後ろにいただろ」




「あぁ…、あの人…、国長様なんだ。道理で不思議な気配がすると思った」




 そんなこともわかるのかと思ったが、同時に雪那のことでいっぱいだったらしい彼女にすこし呆れた。すぐに、自分も人のことを言えないことに気付いたが。


戸口に向かうと彼女もついてきた。




「なんでついてくるんだ?」




「挨拶したほうがいいんじゃないかしら。国長様も雪那を助けてくれたんでしょう?」




「そうだな」




少しの時間だが放置してしまった常盤のことを心配しながら外へ出ると、彼は玄関に入らずに、静かに戸の前に立っていた。しかし、何やら彼の様子はおかしいように思える。




「……常盤様……?」




 訝しげに声をかけると彼は、はっとした。振りかえりながら彼は穏やかに問う。




「雪那さんは大丈夫ですか?」




「大丈夫ですよ、雪那は丈夫なのできっとすぐに良くなります!」




 返したのは辰巳ではなくユキだった。満面の笑みで感謝の気持ちを伝えるユキに常盤の表情が変わる。一瞬引いた唇はすぐににこやかな頬笑みへ。ユキは気付いていないのか更に感謝の言葉を重ねる。




(どうしたんだ)




 辰巳はその様子に目を細めた。聞いていいようなことなのだろうか、いや、いけない気がする。こちらのほうが立場は弱いのだ。


 穏やかに会話をする二人の姿を横目で見つつ、辰巳は不穏な気持ちを抑えた。








 それから数日。


 辰巳は父を相手に誤魔化したり、常盤の雑用をしたりでなかなか忙しい日々を過ごしていた。


 今日は暗の洞の周りの結界を張りなおすらしい常盤の後を追いながら、辰巳は山の中を歩いていた。


 雪那を探した場所に近づくとともに、ふと思い出す。あの日、雪那の事をあまり人に言って欲しくない旨と告げると、常盤は何を考えているかわからないくらい柔らかな頬笑みでそれを了承した。なぜ彼はあんなにあっさり返答をしたのか。ユキと分かれてすぐのことだったから、他にも色々と考えることがあって、そのことをすっかり過去のことにしてしまっていた。


 が、今思えば色々と不思議も多い。


 暗の洞に村人を近付けるのはいけないことだ。という決まりは国長の作ったものではないのだろうか?


 危険だから、ということは村人は皆知ってはいるものの、それだけでないことはわずかな知識の中で知っていた。少し開けた、ちょうど彼と出会ったあたりに立ったとき、小声でそれについて尋ねる。苦笑して否定された。




「暗の洞は普通の人にいい影響がないのですよ。私たちしか、退魔の力を持つ私たちのようなものしか近づいてはならない。だから、駄目なんです」




 苦笑の中に見えるかすかな嘆息、そんな初歩的な知識すらも危うい辺境の村長の家系に彼は何を思ったのだろう。




「では、雪那は…」




「彼は、大丈夫です」




 きっぱりとした声音。思わず彼の顔を見ると、彼もこちらを見ていた。




「詳しくは私もわかりませんが、これだけは言えます。彼も、また、力を持っている。それは」




 風は乾いた臭いがした。舞い散る落ち葉が小さな音を立てる。常盤の括った長い髪が風に舞う。




「多分、彼自身が地のものの血を引くから、ではないでしょうか」








「十三年ほど前、彼が置き去りにされていたと言っていましたね」




 うなずく。休憩をしましょうか、言われるがままに辰巳は腰をその場に下ろしていた。枯れた草の上、柔らかな感触が薄い着物を通じて尻に当たる。




「ちょうどそのころ、鬼の姫の末裔がこの国に侵入していたのですよ」




「…なんだって?」つい、いつもの口調で返してしまった。




「ですから、鬼の姫です。知っているでしょう?」




 気にした様子のない常盤に安心する間もない。鬼の姫、それは確かに知っている話だし、実際あった話かもしれない。ということくらいは認識していたが、まさか。




「まだ血をひくものがいたんですか」




 実際に継いでいるものがいたのか、そんな言葉は心の奥に隠した。平然とした様子の常盤、そして、彼の身分。


 辰巳は唇をかんだ。




「いますよ、流石にそう多くはないですが。いや、もう一人しか残っていないかもしれない」




「その一人っていうのが、雪那だっていうんですか」




「ええ」静かな肯定。




 鬼の子、おにの子。そうだ、あいつは色々な人から言われていたじゃないか。おにの子、と。


 けれど、それは実際に鬼の姫の末裔という意味で言われていたものじゃない。ここのものじゃない、という意味を込めていたものであって、地のものという意味ではない。


 この国のものじゃない、異人としての「おにの子」。


 そのことを、父は、ユキの両親は知っていて彼をこの村で育てることにしたのだろうか?




「鬼の姫の話はあまり広まってはいません。多分この村のものも知らないでしょう。――貴方を除いて」




 辰巳が言う前に常盤がそれは言い切った。




「鬼の姫の、地のものの末裔にしても、もう相当血は薄れています。洞の気配に強いにしても、だからと言ってその近くに行っても鬼になるわけじゃない」




 遠い眼の彼から、辰巳は視線をはずした。


 突拍子もない話だと思う。とはいえ、嘘とも思えない。国長の彼の発言であるということもそうだが、雪那の存在には色々と思うところもある。


 体力がやけにあることは今回の一件でわかったし、何よりもあの顔。女よりも美しい顔、鬼のように人を魅了し地に落とす存在の証なのではないか。そこまで考えて辰巳は目を細めた。


 そんなこと、あるのだろうか。常盤と目が合う。微笑を浮かべたその顔に不信感を抱く。何とも言えない、それが本当だとして自分はいったい何が出来るのか。何も出来ないし、何をしていいかもわからない。こんな薄まった退魔の血で何が出来るっていうんだ、本家ならばともかく。


 複雑でまとまりのつかない思考を抱え、常盤とあったままの視線を強くする。彼は困ったように微笑んだ。口を開く。




「で、実を言うと」




「何なんでしょう」




「私達も地のものの血を継いでいるわけなんですが」




「は?」変な声が出た。




「国長の血が洞の封印が出来るのも、地のものに強いのも全て私たちも地のものの血を継いでいるからですよ。鬼よりももっともっともっと遠い血のつながりですけどね。村長の家系はそこまでではないにしても、私たち国長は国を守るためにある程度の血の濃さを保ってきました。実を言うとね、私は洞を通ってここまで来たんですよ」




「洞を、通る?」




 幾つもの疑問が渦巻く。けれど、一旦止まった常盤の言葉の合間に辰巳がこぼした言葉は最後の言葉に対する質問だけだった。




「そうです、洞を通るんです。真似はしないほうがいいですよ、国長の血筋でも出来ない人が多いですから。だから私は一人でここに来たんです」




 実を言うと、今の国長の血筋の中では私しかできないのですよ。洞を通るのは。自慢じゃないんですけどね。


 笑いながらそんなことを言っていいのだろうか。固まったままの自分はもしやどうかしてしまっているんじゃないだろうか。聞きたいこと、意味のわからないこと、そんなことばかりでどうしようもない。


 何より、こんなにも自分が知らなかったことが多すぎてどうしたらいいかわからない。なんなんだ、何なんだ。常盤が来てから、いや違う。ユキに雪那のことを頼まれてから日常がひたすらに行方不明だ。


 愕然としていると、視界が動いた。はっとすると、常盤が肩に手を置き、揺らしていた。




「大丈夫ですか?」




「あ、はい」




 大丈夫なんかじゃない、けれど、口は勝手に動いていた。多分顔色も変っていないんだろう。返事を聞くと、常盤は安心したようにうなずいた。




「それでですね」




 そして何やらそわそわし始める。




「ユキさん、は、貴方の親戚ですか?」




「はい、祖父同士が兄弟で、はとこになりますね」




「そうですか……」




「ユキが何か」




「彼女、非常に血が強いようなのでちょっと……」常盤はそこから言い淀んだ。




「ちょっと、なんですか。そうですね、強いとは思いますよ。失せもの探しも得意ですし…、それが何か」




 顔をしかめつつ、疑問を返す。辰巳の言葉に常盤は一度咳払いをして向き直った。




「実をいうと、私が今回この村に来たのは、血のためなんです」




「血?」




「国長の血も段々薄くなっていまして……、それを濃くするために方々の血族――だいたいは村長の家系のものですが、先祖がえりで力の血の強いものと婚姻するのがしきたりなのです」




「なるほど」なんとなく先が見えてきた。




「占でこの村に先祖がえりのものがいることは分かっていました。――ユキさんは先祖がえりです。ユキさんを探すために、私はこの村にやってきたのです」




 常盤は固い顔をしていた。辰巳は十七だったが、婚姻は村長の血の存続のため、力を継ぐため。そんなことは重々知ってはいたものの、次期村長であるせいか、硬い表情がはりついているが男前ともいえる外見のせいか、色恋沙汰はある程度経験していた。


 許嫁がいるうえに狭い村なので深入りはしたことがないが、もとより他人の動向に鋭いため、常盤の気持ちを察した。そして、不安になった。


 義務ではなく、恋だったら。気持ちをつなげたくなったら。それを望んだら。


 もし、おにの伝説が本当にあったことならば。




「雪那さんとユキさんは、恋人同士ですか?」




「違う、と思います」きっとそんな単純な関係ではない。だがそんなことは言えない。




「そうですか…。こういうことは本当なら本人に聞いたほうがいいのでしょうね。でも、」




「でも?」




「国長の血はもう相当薄くなっているのです」常盤は口惜しそうに言った。




「もう五代も先祖がえりの血を入れていません。年々力が弱くなって…、このままでは何が起こるのか。全く分からないのです」




 彼は人がいいのだろう。だからこそ、自分の国に対してこんなにも真剣なのだ。この山間の小さな村一つ持てあます辰巳とは器から違う。


 そうだ、きっと、国長という立場や守るべきものがなかったならば、相手としっかりとわかりあい、想い合い、それから婚姻を果たすのだろう。けれど、辰巳は遠くを見つめた、斜め前に立つ常盤がこっちを見ていることがわかる。視線を合わせる勇気がなかった。




「そろそろ、行きましょうか」




 ずれた視線が混じり合わないうちに、常盤は先を指した。返事をし、先刻よりも重くなったような気のする身体を持ち上げる。


 歩き出した、視界は足元を見て意識せずとも自然に足は大きな石を避ける。常盤も辰巳も無言だった。




 ――心は、こう言う。




 彼女とその幼馴染は互いに想い合っているように思えた。でも、それは色恋ではない。


 けれど、それは「今」の話だ。もし、五年、いや、あと二年でいいかもしれない。彼らがこの閉鎖的な村で誰かと夫婦になることが現実問題として迫ってきたら、どうなるだろう?


 辰巳には他の思考もあった。


 常盤の語ること、それが本当に真実なのだろうか?不思議な力。そんなもの、自分はもとより信じていなかった。ユキの力が強いなんて言っても、ある程度カンの強いものは村長の血筋以外にも出ることはある。洞、それがどれだけ恐ろしいものかも実際のところよくわかっていない、なんて。




(どうしたらいいんだ)




 このまま、この話が父のもとに行けば、確実にユキは国長のもとに嫁ぐことになる。


 それは、悪いことではないだろう。この国長が直接統べる土地よりも遠く離れたこの村は隣国との境にも近く、時たま山で異文化の民の気配と感じることすらあるという。隣村から来る行商人が隣国のものに襲われたという事例も、自分が生まれてから二、三度聞いたことがあった。暗の洞の奥底に潜むと言う地のものよりもずっと近い脅威を感じるほどに。


 そんな村のものが国長のもとに嫁げば、きっともっとこの村の守りは強化される。


 常盤が国長と言うことは事実だろう。例え、常盤が嘘を言ってユキを嫁にしてもそれが何だって言うのだろう?この村にとって得しかない。なのに、なぜ自分はこんなにも不安になるのだろう。ユキと雪那の中のいい様子を見たからだろうか。




(どうしようもない)




 そう、自分にはどうしようもない。


 何かの明確な判断を下せるほど、自分はユキのことも雪那のことも詳しく知らない。


 曖昧な予感で、今、差し迫るという国の問題に対応など出来まい。


 大きな石を転ばないように踏んだ。


 粗末な履物、少し前を行く常盤の履物とは比べようもない。


 一段と暗くなった、崖が近くに迫る。暗の洞が見えてきた。










 常盤と暗の洞の結界を張りなおした翌日、辰巳は父に呼び出された。村長である父の顔は今日も厳しい。年を食うごとに彼に近づく自分の顔もいつかはあそこまで厳しくなるのだろう。そう考えると、同じ血を引きながらも、確かに似た面持ちをしていながらもごく柔らかい印象を与えるユキやユキの両親の顔は不思議だ。


 強い責任に常からさらされているためなのだろうか、そう思い、自嘲する。何を偉そうなことを。


 そんな大層なことなど、何一つしていない。常盤をここ数日見続けて視野の広さに驚いた。こんな小さな村一つで一体自分は何を言っているんだろう。


 目を前に向け直す。くすんだ紺の着物は父によく似合う。少しゆるく締めた帯は無造作にまとめられたためか、少しねじれている。気になりつつも、そんなことを考えている場合ではないと意識を戻した。




「昨日の夜、常盤さまから話があった」




 あれか。




「ユキを、娶りたいそうだ。断る理由もないので承諾したが、お前、ユキと高次たちを呼んできてくれないか。私が直接話す」




 高次とはユキの両親であり、父の従弟でもあった。異論などあるわけがないのだろう。当たり前だ、父は何も揺らぐ様子がなかった。むしろ歓迎するべきところなのだ。そうなると無表情に淡々とこれを言う父のほうが変なのだ。


 無言の時間が長かったのだろうか。父は言った。




「何か、問題があるのか。お前にはもう言ったと常盤さまは言っていたのだが」




「特にないです」




 そう、明確に口にして「あります」というほどのことはないのだ。


 ほんの少しの、予感があるだけで。

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