辰巳‐壱

 母上は、知っていて、そうして生んだのだろうか、私を。


 父上は、わかっていて、選んだのだろうか、他人の子を我が子と育てることを。




 ――もう限界だ。




 松葉は自らの体が終りに近いことを知っていた。




 ――でもせめて『あれ』が届くまで。




 鬼になっても変わらない想い。あの人だけが私を殺す。


 だからお願い神様。最期に一度だけ願いを叶えてください。


 激しくせき込む彼女の口元には赤黒い血と鋭い牙。ごめんね真砂吾、私は最低な親よ。


 貴方と生きることを選ばずに、あの人と死ぬことを選ぶ罪深き母を、貴方はいつか許してくれるかしら。


 もう少し、もう少しだけ。真砂吾、愛してるわ。


 あの日に戻れるならば。何度そう願っただろう。だけど、きっと私はまたこの道を選んでしまうのでしょう。


 だから真砂吾、ごめんなさいね。




 松葉は、薄れゆく意識の中で、ひたすらに謝り、願い、望んだ。


 そうして、秋の気配が村を覆いつくしたある日、村に一つの骨壷が届いた。






 ◇◇◇






「真砂吾に聞いた、のではないな。もう一人の子か」




 鬼は空を見つめながらそっと言った。


 息をひそめるように近づいていた影は、その言葉で詰めていた息を大きく吐き出した。




「…いつから気付いていた」




「最初から。お前も忍び歩きは相変わらず下手糞だな」




 表情を変えず、何事もないように返す鬼に影は笑った。そうだこいつはそういう奴だった。


 危ない子、関わらないほうがいい子。皆はそういい彼に構わずにいた。


 年が少々離れているせいで自分はあまり彼と接点がなく、彼もまた異分子を拒否する村人たちに関わろうとしていなかった。


 そんな彼と自分を結びつけたのは一人の少女だった。


 きっかけは彼女で、終りも彼女だった。そして、再び彼と自分を結びつけのも彼女なのだ。


 初めは他人行儀だった。だが、いつも間にか慣れ、言葉の端々に余計なひと言が付いてくるようになった。




 ――俺に構うことでお前に何か得があるのか。




 真顔でそう言われたのは、いつだっただろう。それに自分はどう答えただろう。


 確かこう言ったのだ。




「ほっとけ」




 年を経ても変わらないものはあると思いたかった。しわの増えた自分の顔を眺めるごとに、そのまなざしを確かめた。まっすぐと、愚直なまでに前を見据えるまなざし。どこか遠くを見ていてぼんやりしたあいつとは違うまなざし。


 例え、何が来ても、俺はその全てを背負うことに決めた。彼と彼女の運命を捻じ曲げた一因として。


目があった。黄色と黒の瞳が交差する。


 口元をゆがめ、辰巳は言う。




「久しぶりだな、雪那。降りてこい」




 あの時からどれくらいの月日が流れたのだろう。




「……酒を、飲まないか?」




 風、葉も花もない桜が音を立てた。


 鬼――雪那と呼ばれたもの――は返事の代わりに無言で手を差し出す。


 その様子に辰巳は微かに笑って酒と二つの猪口を取り上げた。








 辰巳が持ってきた酒は上ものだった。強く薫るそれは果実の香り、それを惜しげもなくぐいぐいと二人で飲みながら、鬼は今更のようにつぶやいた。




「そうだな。最後に会ってから、もうずいぶん経つ」




 失ったもの。


 ずっと聞きたかったこと、ずっと言いたかったこと。


 鬼と辰巳の二人は何事もないように並んで座っていた。




「お前の孫はすぐにわかったよ、眉がとても似ている。遠くから少し見えただけだがな」




「視力がいいことの自慢か?それは」




 辰巳が酒瓶をとり、ゆっくりそそぐ。ぐいと、一口。




「何よりも、あの子のほうがお前に似ていると思うが」




 とくに感情がすぐに顔に出るあたりがな、と辰巳は心の中だけで続けた。




「……そうか?俺は少しもわからなかったぞ」




「目は良くても頭が耄碌しているようだな」しみじみと言うと鬼が拗ねたように目をそらした。




 そして、沈黙。しばし、二人は無言で酒をあおっていた。


 自分の分の酒を飲みほした辰巳は、沈黙を割いて言の葉を放った。




「お前に渡したいものがある」




 雪那は、黙ってしわの増えた友人に目を向けた。








 雪那に始めてあった日のことは覚えていない。二つ年下の謎めいた少年と何かしらの関係持ったのは、十七になり成人の儀を終えた頃であったことくらい、そんな曖昧な形しか。


 それまで幾たびか目撃はしていたものの、辰巳は辰巳で忙しく、雪那は雪那で人と関わりを余り持とうとしていなかったため交流はなかった。


 二人の間を結んだのは一人の少女であった。


 辰巳のはとこのユキ。爛漫の笑顔が印象的な彼女は村の人気者だった。


 少しそそっかしいところはあったが、それに輪をかけて心優しく気配りの出来る少女だった。


 彼女の家にいる異相の少年と初めて話したのは成人の儀を終え、近く国長がこの村にやってくることが分かった頃であった。




 雪那がいないの、どうしたんだろう。


 そういって自分のところにやってきたユキは本当に泣きそうな顔をしていた。


 セツナって誰だ?と聞きそうになったが、寸前で鋭い眼をした少年のことを思い出した。


 なんで俺に言うんだ、というと、だって辰巳は優しいから助けてくれると思って。と、当然そうに返された。


 話をよく聞くと、雪那はよくいなくなるらしい。運動神経のよさを生かして、農作業と言う大人数でしなければいけないようなものをせず、猟師の真似事をして自分の食いぶちを取っているそうだ。


 村に家畜がいるとはいえ、それは万全ではない。比較的山の奥のほうにあるこの村に家畜を売りに来るような奇特な商人はいないし、まず、育てるにも時間と労力がかかる。そうなると必然的に肉類を食する機会は少なく、山で狩った肉はなかなかいい取引材料になるそうだ。


 ちょっと聞いただけなのに、胸を張りながら自分のことのように話すユキの様子に辰巳はつい、恋人なのか?と聞くと、一瞬きょとんとした後、笑い飛ばされた。


 雪那は大好き、けど、恋人じゃない。家族だから。


 そういう彼女の顔がなんとなく、寂しげだったのは気のせいだったのだろうか。


 長くなる話をどうにか続け、聞き終える。


 普段から少しの間顔が見えないことはよくある。けれど、今回は違う。よくわからないけど、きっと違う。ユキはそう繰り返して、辰巳を見上げた。


 辰巳はあまり迷わなかった。彼女がそう言うならばそうなのだろう、そう思った。


 傍系とはいえ、ユキは受け継いだ力が強いと聞いた。自分はそんな力は信じていない。


 けれど、彼女の様子を見ていたら、なんとなく信じられるような気がしたのだ。そんな自分に彼は内心で笑った。違う、きっと、信じてみたいだけなのだと。


 そして、彼は山へ向かった。


 ユキが聞いたという、雪那の狩り場。


 それは危険な場所と呼ばれるところのすぐ近くだった。自分以外の人物がそれを聞いていたとしたら、そんな場所で狩りをするなんて罰あたりが!と、怒り狂っていたかもしれない。それにそこは険しい地形のところでもあった。


 だが、そんな場所で狩りをするという雪那にむしろ辰巳は肯定的な関心を感じた。それは、若さゆえの無謀さに感じ入ったからなのであろうか?


 自分でもよくわからなかった。だが、辰巳はすぐに、その日、その後、すぐに山に入った。

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