最終話 母親、息子と、二度目の話。

 生まれてこの方、街を出たことはなく、ずっとこの場所で過ごしている。見知った建物が取り壊されて駐車場や賃貸住宅になることはあっても、新しい文化を運ぶ商店が立つことは滅多にない。発展を忘れた場所で暮らしていると、年齢を重ねても、季節が巡っても、時間が進んでいることを認識しづらい。


 かつて通った母校であり、今は息子が同じように通っている中学校への道を歩いても、懐かしさより、時間が止まっているような不思議な感覚を覚えた。




「親になって我が校に帰ってきたのは長谷川が一番乗りだよ。まぁ、在学中からそんな予感はしていたがね」


「お久しぶりです。根府川先生は随分と髪が薄くなりましたね」


「ははは。しかし、今では教頭だ。毛髪をすり減らした分、出世はしているんだぞ」


 廊下でかつて手を焼かせた恩師と擦れ違い、しばし談笑をする。これまで何十人と受け持ったはずの生徒のことを覚えていて、教師の記憶力とは大したものだなと感心した。


「恵一君たちの出し物は演劇だから、体育館が空くまでは教室で公園前準備をしているはずだよ。場所はわかるかね?」


「大丈夫ですよ。おおよその場所は息子から聞いてますから」


 ところが教室に行ってみても、恵一の姿は見当たらなかった。演劇の衣装だろうか、古めかしい侍女の姿をしている生徒に尋ねてみても、どこに行ったのかしらないという。スマホは持たせていないので連絡を取る方法もなく、仕方がないので校内を探してみることにした。




 お化け屋敷、カラオケ喫茶、自主制作映画の上映会――。赴くままに校内を彷徨ってみたが、息子の姿は見当たらない。諦めて教室か体育館の前で待っていようかと思ったら、ふと、ピアノの音が聞こえてきた。


 ――デジャヴ。


 いつの日かの体験を再演しているような不思議な感覚に陥り、足は自然と音の鳴る方向に向かう。廊下を歩く生徒や父兄の姿はなくなり、アタシは人の気配がしない音楽室の前に立っていた。


 引き戸に指を掛けて開く。視界に入る室内、逆光の中、松尾立彦が少年の頃の姿でピアノを弾いていた。


「……立彦?」


「……秋生君?」


 アタシとピアノの演奏者は同時に声を出した。その声で彼が別れた元夫ではなく、探していた息子だと気付いた。


「あ、……ごめん、そうだよね。秋生君なわけがないよね」恵一の方も人違いに気付いたらしく、こちらを向いて詫びる。「ありがとう、母さん。約束通りに来てくれたんだ」


「うん。……探したよ。恵ちゃんは、こんな所で何してたの?」


「ちょうど時間が空いたから、誰も使っていないと思ってピアノを弾いてた。大道具係は体育館のステージ上にセットするまで、特に仕事がないから」


 アタシが通っていた頃から、この中学の吹奏楽部は女子しか入部が出来なかった。こういう時でもなければ、ピアノを触れる機会はそうそうないのだろう。


 立彦と恵一は度々二人で会っていて、そこでピアノを習っていると聞いた。ちなみに、父親が出て行った理由についてアタシからは話していない。父が家族の元を去った事情を知っているのか、アタシは把握していない。


「秋生君――」恵一は鍵盤の一つに指を置き、それを沈めてポンと音を鳴らす。「彼と出会ったのもこんな状況だった。吹奏楽部が休みで、僕はこっそりピアノを弾いていて、そこに秋生君がやって来たんだ」


 指を隣の鍵盤に移動させて弾く。一つ高いキーが、アタシたちしかいない音楽室に響いた。


「セット準備まで、まだ時間があるね。……母さん」


「ん?」


「僕が秋生君を好きになった時のことを話したい。――母さん、聞いてくれるかな?」


 真剣な眼差しをコチラに向ける息子に、アタシはただ無言で頷く。恵一は膝の上で組み合わせた両手の指をグッと固め、静かに話し始めた。


「さっきも言った通り、彼と最初に顔を合わせたのはこんな状況だった。驚いたよ、秋生君は転校してきたばかりで、全く知らない顔だったからね。見知らぬ来訪者にキョトンとしていると、『すまない。もしよかったら、続きを聴かせてくれないか』と彼は微笑んだ。少し戸惑ったけど、弾いたよ。僕のピアノを聴いてくれるのは父さんくらいしかいないから、多分、嬉しかったんだと思う。


 それからもピアノを弾く度、秋生君はそれを聴きに来た。演奏の合間に他愛もない話をしたり、一緒に下校したり、休日は二人で遊びに行くようにもなった。


 彼の事を好きになるまで、そんなに時間は掛からなかった。秋生君の方も、僕に同じ感情を抱いてるって言ってくれた。


 ――変だよね。僕は男で、秋生君も男の子なのに」


 安易な否定は紙よりも軽い。それはわかっているから、アタシはまだ何も言わない。恵一は殊更に感情を込めるでもなく、話を続ける。


「『好き』は表明していい感情なのかどうか、僕にはわからないんだ。僕と秋生君の間にある『好き』は、他人に理解してもらうことが難しい、遠ざけられたり、目を背けられたり、蓋をされたりするものだと知っているから」


 彼は鍵盤の蓋を静かに閉じ、その表面を優しく撫でた。


「僕は母さんのことを大切に思っている。だから、僕の『好き』で母さんに悲しい思いをさせたくない。


 もしそうだったとしたら、僕は僕の『好き』を、僕の心の中だけに閉じ込めようと思う。他の誰かを傷付けてまでも、自分の『好き』を優先させることはできないから」


 息子の話す姿を視界に入れながら、けれど、アタシは別の光景を見ていた。別れた夫と浮気について話した、あの日のダイニングの光景を見ていた。


 あの日、確かにアタシは立彦に怒りをぶつけた。でもいったい、彼の何に対して怒ったのだろう。


 彼の言う「矯正」に人を利用としたこと。夫婦という間柄なのに性的指向を隠されていたこと。不義を隠し通すある種の強かさも、額を床に擦り付けてでも家庭を維持する逞しさも持っていなかったこと。父親であることを放棄し、まだ幼い恵一を捨てて家を出たこと。――もちろん、松尾立彦に対する怒りももちろんあった。


 でも、思い返してみると、自分に対する怒りもそこにはあったと思う。


 家族を続けるか、情欲に走るか。その決断を立彦は放棄してアタシに投げた。同様にアタシも、彼を赦すか、冷たく突き放すか、はっきりした態度を取れないまま、流れの中で離婚をしてしまった。


 これはきっと、リトライだ。


 恵一に対し、アタシは母親として考えを示さなければならない。


「親子の間には繋がりがある」アタシは肩の力を抜き、恵一を見据えて言った。「あなたはアタシの息子で、アタシはあなたの母親だ。恵ちゃんの掛ける迷惑を受け止める義務がアタシにはある。そこを気に病むことはないよ」


 驚くほど淀みなく、突っかかりなく言葉を伝えられた。


「こうしろだなんて言わないよ。恵ちゃんの行動は、恵ちゃんの魂が赴くままに決めればいい。『好き』の幸福も苦難も、受け取るのは全部恵ちゃんだからね。


 でも、迷った時やツラい時には力になるよ。アタシは大した人間じゃないけれど、あなたより少し長く生きている分、知っていることもたくさんあるから」


 そこまで言って、アタシは口を閉じた。もう、こちらから言うべきことはない。


 少しの間、穏やかで温かな沈黙が音楽室を包んだ。恵一は壁に掛けられた時計を見上げると、「時間だ。そろそろ行かなきゃ」と言った。


「母さん」


「……何?」


「ありがとう。気持ちの踏ん切りが付いたわけじゃないけど、でも、何だか少しだけ楽になった気がする」


「そっか。どういたしまして」


 短い会話を交わし、部屋を後にする息子の背中を見送る。彼が引き戸を閉めて姿が見えなくなってから、アタシはピアノに歩み寄って椅子に座った。


「立彦君、……今度の答えは間違ってなかったかな?」


 二十年近く前の音楽室で、彼から尋ねられた質問へ回答した過去が頭をよぎる。


「……そんなの、誰にもわかるわけないよね」


 アタシ一人しかいない音楽室に、アタシが漏らした独り言が響く。もう少しだけゆっくりした後、息子の演劇を観覧するため、アタシはこの場所を後にした。



(了)

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BL、ビールと、息子の話。 春菊も追加で @syungiku_plus

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