第3話 不貞、コーヒーと、お別れの話。
高校卒業後は進学も定職に就くこともせず、深夜のコンビニバイトを適当に手を抜いてこなし、昼間はゲームや漫画を読んで過ごす生活をしていた。
そうしたら、卒業後は進学した三石に「プロにならないか」と誘われた。どうやら中小出版社の編集部でバイトをしており、アンソロジー漫画誌に掲載する原稿が足りないので穴埋めを欲しているようだった。お小遣い稼ぎのつもりで寄稿するとここでもウケてしまい、次は月刊誌への読切、次は三話ほどの短期連載、次は本格的な長期連載と、あれよあれよと話が進む。
松尾立彦と婚約したのは連載が軌道に乗り、効率的なネタ出しやネームの切り方、アシスタントの使い方を覚えてきた頃だった。
彼との交際は波乱もなく、穏やかで幸せなものだった。やることはやっていたので子供が出来て、それを切欠に結婚した。
せせらぎを流れる桜の花を眺めるように、アタシと立彦、それと恵一の家族の時間は安らかに過ぎた。
それに亀裂が入ったのは結婚して五年ほど経ち、立彦の浮気が発覚した時だ。
まあ、男ってそういうもんだし、重めのお説教で許してやるか。でも、アタシだってまだ二十代の半ばなのに、他の女に目移りされるのは少しショックだな。
発覚当初はそのくらい軽い感じで考えていたし、なんなら浮気相手の女と会って、立彦の悪口大会で盛り上がったりしてもいいかも程度に思っていた。
それが打ち崩されたのは、浮気相手の性別が判明した時だ。
立彦が相瀬を重ねていた相手は、彼と同性の男だった。
「それはたまたまなの? それとも、昔から同性のことが好きだったの?」
四歳の恵一を寝かしつけ、夜のダイニングに対面して座る。あの時も今と同じように、古い冷蔵庫が低い唸り声を立てていた。
「昔からだ。初めて恋心を抱いた小学生の頃から、ずっと同性ばかりを好きになってきた」
立彦は顔を伏せ、重苦しく言葉を零す。
「その事にずっと後ろめたさと、肩身の狭さを抱いてきた。両親に打ち明けた際には、母には泣かれ、数日寝込まれた。気付いたのはその時だ。これは胸の内に隠し、僕の中でだけ処理せねばならない感情なのだと。
そして、もう母を泣かせまいと思った。そのためには、自身の指向を矯正し、正常の群れに溶け込まねばならない。――擬態には外殻が必要だ。その相手を選ぶのなら、是非とも君であってほしいと思った」
テーブルの上には二つのティーカップが置かれている。けれど、どちらもそれに口を付けていない。
「アタシの事は、……愛していたの?」
「僕にとって、君は最良のパートナーだと思っている。君と一緒にいる空間では胸をざわつかせる焦燥感も、押し潰されそうになる不安感も抱くことはなかった。ただニュートラルに、この現実の中にいることが出来た」
彼はそこまで一息に話し、次の言葉を続けた。
「けれど、君に対して制御下に置けない、焦がれるような愛情を抱いたことも、またなかった」
話し合いの開始から初めて、立彦は顔を上げ、アタシに視線を向けた。
「僕に何かを言う資格はない。赦しも拒絶も、君の裁定を受け入れるつもりだ」
その言葉を聞き、アタシは手元のティーカップを掴んで引き寄せ、その中身を立彦の顔にぶち撒ける。
「そんなの……、ズルい言い方だよ!」
息を切らせ、やっと搾り出した声を彼にぶつける。冷めたコーヒーを滴らせたまま、立彦は何も言い返さなかった。
結局、立彦とはその数ヶ月後に離婚した。
* * * * *
開けた発泡酒は缶の半分ほど飲んだ。時計を見ると午前九時を過ぎていて、そろそろ仕事場に行かなきゃなと立ち上がる。それと同時に、何かがひらりと床に落ちた。拾い上げると、今朝、恵一から渡された文化祭の案内だった。
「母親だもんね。週末は時間作っとかなきゃな」
自分が親として足る能力を持っているとは考えていない。でも、だからこそ、出来うる限りのことはしてあげたいと思った。
十年前、夫婦として最後に顔を合わせた時、アタシは立彦に聞いた。
「アタシの事は別にいいよ。でも、恵一のことはどう思ってるの?」
グレーのスーツ姿の彼が、既に赤の他人のように感じる。
「あの子が様々な事を理解できる年齢になった時、僕の不貞を話すかどうかは君に任せる。あの子が僕をどう思うかも同様だ」
それを聞いて、最後までズルい奴だと、そう感じた。
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