第2話 ピアノ、ビールと、昔の話。
寝起きの頭をベッドの上で掻くと、どこにくっ付いていたのかスクリーントーンの切れ端がひらりと落ちた。親指と人差し指でそれを摘まみ上げてゴミ箱に捨て、自室から出ると、ちょうど恵一が登校のために家を出るところだった。
「おはよう。行ってくるよ、母さん」
「ふわぁ……。いってらっさい」
あくびをしながら、息子に朝の挨拶を返す。
彼から恋人についての告白をされてから二日経っていた。今日は週明けの月曜日に当たる。あの日は回答を保留にし、高良君とは別れた。それ以降、恵一からは件の話については振ってこない。
「そうだ、これ、渡しておかなきゃ」
そう言って恵一は肩に掛けていたショルダーバッグの中を探り、A4サイズのプリントを取り出す。
「文化祭の案内。もしよかったら来てよ」
「ああ、もうそんな季節か。ごめん、去年は仕事が修羅場ってたから行けなかったもんね」
プリントを受け取って文面に目をやる。開催は今週末の予定だった。
「時間を作って必ず行くよ。大丈夫、締切はまだ先だし、今描いてるのは結構順調に進んでるからさ」
息子を見送った後、キッチンに向かって冷蔵庫を開ける。中から発泡酒を一缶取り出し、食卓に着いた。
自営業の特権だ。朝からアルコールをあおるのが好きだった。といっても、無類の酒好きというわけでも、飲まずにはいられない依存症というわけでも、定刻通りに出社しなければならない宮仕えに優越感を抱いているわけでもない。
多分、朝から酒の缶を開けることで、ダメな自分を行動として認識するのが好きなのだ。
プルタブを引いて、一口飲む。わざとらしい苦さが喉を通り抜けるのを感じながら、アタシは息子の告白と、十年も前に離婚した元夫のことを思い出していた。
「
年季の入った小豆色の冷蔵庫が低い唸り声を上げるキッチンで、アタシの独り言がポツリと響いた。
アタシ、
元夫の松尾立彦は高校在学中、授業を抜け出した先の音楽室で出会った。
高校時代のアタシはタバコは吸わないし、お酒はたまのコンパやお目出度い席でしか飲まないし、援助交際もシンナーも万引きもしなかったから不良ではなかったはずだ。
……いや、校則違反の染髪はしていたし、授業は頻繁にサボっていたし、ギャンブルと夜遊びと不順異性交遊はしていたので、自己評価はともかく、周りからは不良の枠組みに入れられていたのかもしれない。
ともかく、その日もアタシは特段理由もなく授業には出席せず、けれども暇潰しに使っていた屋上も部室も施錠されてしまったので、なるべく教師と出くわさないルートを選んで校内を宛てもなく徘徊していた。ピアノの演奏が聞こえてきたのは、あまり使われていない特別教室が並ぶエリアを歩いている時だ。
音の発生源が「音楽室」であることがわかって不思議に思う。音楽室からピアノの音が聞こえるのは普通のことでは?と思われるかもしれない。けれど、アタシが今いるのは『第二音楽室』の前。通常、音楽の授業で使われるのはここよりも広くて新しい『第一音楽室』で、こちらの教室は普段は使用されないはずなのだ。
不思議に思い、引き戸を開ける。室内には空の机が乱れなく整然と並び、ピアノを弾く人影以外は何者も見当たらなかった。
――あー、アイツ、誰だっけ? 鍵盤の前に座る少年の顔を見て、アタシは頭を悩ませる。どこかで見た気はするけれど、どこの誰だかさっぱり思い出せない。
マジマジと顔を眺めていると、ピアノの少年は演奏する手を止め、こちらに顔を向けた。
「何か用?」
「ああ、ごめん。ピアノの演奏が聞えたから不思議に思って」
そう言い、アタシは手近にあった椅子を引いて座る。「行く所ないんだ。悪いけど、ここに居座らせてもらうよ。気にせず弾いてて」
嫌がられるかなと思ったが、少年は拒否の反応は示さず、代わりに別の事を尋ねてきた。
「頬の傷、大丈夫?」
「頬?」疑問に思って自分の左頬に手をやると、ガーゼのガサっとした感触が指先を走る。
「ああ、大したことないよ。夜遊びが過ぎたから、親にぶん殴られただけ」
「そうか。ならいい」
短くそう言うと少年は向き直り、また鍵盤を叩き始める。何だか口数少なくて陰気な奴だなと、その横顔を眺めながら思った。
友達に教えてもらい、彼の名前が『松尾立彦』であることがわかった。松尾立彦はアタシと別クラスに在籍する同学年の学生で、アタシと同じく頻繁に授業をサボり、そういう時は大抵、第二音楽室でピアノを弾いている。アタシも授業をサボった時は、第二音楽室で時間を潰すことが多くなった。
そういうわけだから、クラシックなんて『蛍の光』と「ジャジャジャジャーン」ってやつと『猫踏んじゃった』くらいしか知らなかったアタシでも、それなりには詳しくなる。
「モーツァルトでしょ?」彼の演奏を聞いて自信満々にアタシ。
「いや、ショパンだ」アタシの問いに対して無愛想に彼の回答。
……まぁ、たまにはこんな風に間違うこともある。
「ところで、長谷川はさっきから何をしているんだ?」
「ん、これ? 漫画の下描きやってんの」
シャーペンと消しゴムを忙しなく持ち帰るアタシを不審に思ったのか、立彦はピアノを弾く手を止めないで尋ねてきた。
「漫画? 面白いやつか?」
「男の子と男の子が見つめ合って赤面したり、男の子同士でチュウする漫画。立彦君が読んで楽しい話じゃないよ」
アタシは一応、漫研部員だ。といっても漫画は読む方専門で描く方には興味がなく、校則でどこかの部に所属していないといけないので仕方なく籍を置いているだけだった。
そしたら、漫研の地味な見た目のくせにやかましい女――後にアタシの担当編集者となる
そういうわけで、ただ今、生涯二作目に取り掛かっている次第である。
「ま、褒められて悪い気はしないよ。アタシ、頭悪いし、運動も苦手だから、親や先生に良く言われたこと全然なくってさ。自分のしたことで誰かに喜んでもらえるって嬉しいもんさね」
その言葉で、ピアノの演奏が急に止まる。走らせていたシャーペンを止めて立彦の方を見ると、向こうも真面目な顔でこちらを見ていた。
「長谷川、一つ質問がある」
「何さ?」
「自分は好きではないが、それをすることで喜ぶ人がいる。そんな時、君ならその行いをするべきだと思うが。それが気の乗らないことだったり、自分という人間に合っていないことだったりしても」
松尾立彦には噂があった。彼のピアノの技量は頭一つ抜けている。楽器をやっているクラスメイトもそう言っていたし、音楽の知見がないアタシでもそう思う。けれど、立彦は吹奏楽部に入って全国を目指すわけでもなく、個人でコンクールに出場しているわけでもない。彼はそれを世間に披露するわけでもなく、ただこの第二音楽室でのみ孤独に演奏をするだけだった。
立彦の家は有名な音楽一家だと聞いている。それなのに音楽の道に進まないのは、彼が実は楽器を好きじゃなく、その事で家族との間に確執が生じているのではないか。――それが彼に関する噂だ。
「やってみればいいじゃん」
アタシは言った。
「どんなことでもやってみればいい。思ってもなかったことでも挑戦してみれば、好きになれたり、楽しいって思えたりするかもしれないよ」
この回答に彼は「そうか」と浮かない顔で言うだけで、それ以上は言葉を続けなかった。
結局、高校卒業まで、松尾立彦が公の場でピアノを弾くことはなかった。
ところで全くの事実無根なのだが、どういうわけかアタシと立彦が付き合っていると噂が立っていた。多分、二人きりでこうして音楽室にいるからだと思う。
実際のところを確認される度、アタシは笑って否定してきたけれど、青天の霹靂、先の会話から数週間後に立彦から告白された。
松尾立彦は陰気な男だったけれど、顔は悪くないし、人を見下したり非難したりの言動をすることもない。
だから、アタシは彼の申し入れを受け入れることにした。
アタシが立彦にした助言を後悔するのはもっと先、高校を卒業し、彼と籍を入れた後の話だ。
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