第4話 廃墟
毅が意識したとき、彼の両手はすでに田中の肩に置かれていた。彼女は痛いと言った。
「なんで早く言わないんだ」
「……信じると思わないからです。急に私のことを忘れたとか、合作の話を有耶無耶にするにしても出来の悪すぎる嘘をついたのかと思いました。けれど、もしかしたら昨日のことが影響しているのかもしれません」
「昨日に、田中さんはいなかった」
「だからです。昨日、毅さんと私で廃ビルに行ったのを覚えてないんですか」
「なんで二人でそんなところに行くんだ」
「ホラー小説の取材ですよ。それに、廃ビルを舞台のひとつに選んだのは毅さんでした」
そして、田中良子は今日見た中で一番の笑いを、恍惚を含んだ微笑みで囁いた。
「ここはパラレルワールドかもしれません」
仕事をいくつも残したまま退勤するのは慣れていたが、女性の運転で帰宅するのは彼にとって初めてのことだった。
「パラレルワールドに迷いこんだのなら全て説明がつきますよ。今ここにいる毅さんは隣の席が私か大城とかいう男性かの違い以外は全て同じ条件という世界からやってきたんです」
「そんな話があるものか」
「なら毅さんは説明ができますか?」
「田中さんが俺の知らないうちに出勤して、大城から完璧な引き継ぎと周囲への挨拶を済ませた。そして俺をからかっている」
「なるほど。ではいくつか反論させてもらいますね。まず、毅さんには名刺を渡しました。入社1日目で名刺って用意されていますか。ふたつ目に、今日の私の働きを見て本当に入社1日目だと思いますか。最後に、毅さんと私が初対面だとして、なぜ私が全く会ったことがない毅さんをからかう理由があるのですか」
「もういい」
「毅さんとの合作ではミステリー要素は無しにしましょう」
「合作はするつもりなのか」
「ええ。こんな面白いことを書き留めておかないで、何を小説にするんですか」
興奮して心地よく喋る田中の運転は昼より荒くなっていた。メーターは70キロを越えていた。
「ビルはもうすぐです」
その言葉の通り、ポツンと建つ廃ビルは毅にとって馴染みがなく、ヤンキーのたまり場になってそうだという印象以上のものはなかった。
「ヤンキーもたぶん来ません。だって、ここは何人も自殺者が出てるんですから」
「そうかな。ヤンキーはいなくともホームレスとかはいそうだ」
「そうですね。ただ昨日は居ませんでした」
「じゃあ行こうか」
昨日も来たということで用意していた懐中電灯を携えてビルの中に入った。かつてのラブホテルらしく青いビニールシートのようなカーテンをくぐる。彼女はヤンキーなどいないと言っていたが、ゴミの入った袋や空き缶が散乱していた。このようなディテールの確認を怠ってしまうところにも、小説の欠陥を見出だした。
毅は壁の落書きを照らした。
「ほら、ヤンキーがいるじゃないか」
「ヤンキーかどうかは分かりませんよ。アーティストが練習した跡かもしれない」
落ち葉の中に吸殻があったりガラス破片があったりと、とにかく立ち寄りたくはない。まして夜には。泥で汚れたソファやビールの空き缶が地面に転がっていたりと、明らかに人が出入りしている痕跡を確かめた。
毅は彼女が少しだけ嘘をついていたことに勘づいた。
「もういいでしょう、帰りましょうか」
「いえ、ここに入口があって」
「本当に人がいたらどうするんですか」
「昨日、私たちはこの中にに行きました。毅さんは昨日そこで単独行動をしてどこかの部屋に入ったんです。そして戻ってきたとき、少しぼんやりとしていました」
「それが原因だと言うんですか」
「そうは言ってません。けれど、確認しておいて不都合はないはずです」
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