ウヤ

のま

第1話

その瞬間世界から全ての宗教は消えて、人間が作り出した幻想だけに塗れた空々しい神々はみんな死んだ。その代わり、僕たちはみんな果てしなく正しくて安心で崇高で素晴らしい、本当の神様に出会った。どんな人間もみんなその姿を見ればすぐに、今まで築いてきた夢も信仰も全てが幻想で、気味が悪い程陳腐な紛い物だったと悟った。それ程までにウヤ様は完璧で正しい存在だった。ウヤ様を信じられない人間なんていなかった。ウヤ様に全てを捧げたくない人間なんていなかった。ウヤ様は正しい。ウヤ様はこの世界の何より素晴らしい。ウヤ様を信じていれば他に何も必要なものはない。だってウヤ様は世界で一番素晴らしいのだから。みんなそう思っている。ウヤ様がどこからか姿を現したその瞬間から全ての人間の思想が覆り、世の中の論理が覆り、粛々と人間が紡いできた歴史も文化も文明も、言葉も歌も方程式も愛も血も神も夢も過去も未来も、全部全部覆って嘘になって消えた。人間はウヤ様だけを信じている。なぜならウヤ様が真理だとわかったから。

ウヤ様は聖書を作らない。真理は説明するまでもないから。みんなウヤ様を一目見るだけで全て悟り信仰を捧げるのだから。聖書なんてなくても人間はウヤ様だけを信仰して、ウヤ様のためだけに生涯を捧げる。

全てウヤ様に救われるために。


けれど、ウヤ様は僕にだけ、世界でたった一つの教えをを授けてくれた。




信じなければ救われる。




まだその意味はわからないけれど、ウヤ様がそう説くのならそれが何より正しいのだろうと思う。でも、ウヤ様は何より正しくて素晴らしいのだから人間がウヤ様を信じないなんて不可能だ。それならウヤ様は誰も救わないのだろうか。それなら、どうしてウヤ様はこんなに正しく素晴らしいのだろうか?









「ウヤ様はどこからきたのでしょうか」

教会の床は艶やかな大理石のような素材で出来ていて、透き通るほど綺麗に磨かれている。ウヤ様があちこち歩き回るので床一面は歩けば音が立つほど濡れているけれど、その透明な粘液はステンドグラスのように石を飾り、教会の壁の色とりどりの装飾を反射するので、かえって素晴らしく幻想的な空間を生み出しているのだった。夜になれば外が暗くなるのに合わせて壁の装飾に灯がつくことで床一面に拡がるステンドグラスの輝きはより一層神秘さを増すので、毎晩その粘液を拭き取り掃除をしなければならないのが、まるでウヤ様の作った綺麗で繊細な世界をこの手でひとつずつ壊していくようで、気を失ってしまいそうな程悲しい気持ちになるのだった。

そんな僕の想いなんかお構いなしに、ウヤ様は今も広い教会の中をユルユルと緩慢な動きで彷徨っている。ウヤ様が触れた場所から床は綺麗なステンドグラスに変わってたくさんの色を紡ぐので、まるで少しずつ新しい世界が生まれていくようだった。僕の問いかけは確かに聞こえていたのだろうけれど、ウヤ様はチラリとこちらを見て笑うように体を揺らしただけで、何の答えも返ってこなかった。

ウヤ様は白く細い体をしていて、腕や足のようなものは見当たらないけれど、絹のように綺麗な羽が生えていて、それで舵をとるように左右に動かしながら進んでいる。それは泳ぐようにしなやかな動作で、今にもフッと地面から体が浮き出しそうにも見えるのだけれど、今まで一度もウヤ様が飛んでいる姿を見かけたことはないのでどうやらそういう仕組みではないらしい。とはいえそれは現時点ではウヤ様が「そうである」としているだけであって、飛ぼうと思えばいつでも、どうとでも出来るのだろうと思う。

ともあれ今日もウヤ様は変わらず正しく素晴らしい。絹のような上品な羽に、陶器のように白く綺麗な細い肢体。頭部をぐるりと包む白髪に、魚眼のように大きくつぶらな瞳がちょうど両端に付いている。真ん中には空洞のようにポッカリと穴が空いていて、舌はないけれどおそらく口の役割をしているのだろう、そこから僕たちには理解できない音をカラカラと発している。僕はといえばいかにも人間といった出で立ちで、ウヤ様に出会う前までは何も感じていなかったけれど、こうして並ぶと顔の作りも体の構造も、ウヤ様と比べるとなんだか野暮ったくて恥ずかしいような気持ちになる。どんな人間もウヤ様の完璧な相貌を目にすれば同じように魅力される。立場上、ウヤ様と人々が対面する様子を何度も目にしてきたから断言出来る。僕達にとってウヤ様の見目も中身も、全てが完璧で理想的な姿に映るのだった。

そんなことをぼんやりと考えながら、午前中の業務をすっかり終わらせてしまった僕はいつも通りウヤ様の側について何をするでもなく、その素晴らしい存在を眺めていた。ウヤ様は時折僕の周囲を戯れるようにクルクルと周りながら、カラカラと言葉とも鳴き声ともつかない音を転がしている。

カラカラ。

カラカラ。

カチリ。

「……ヴェク」

「はい、ウヤ様」

その時、チャンネルが合った。

それまで全く規則性も文法も感じられない文字列を並べた異界の言葉のように聞こえていたウヤ様の声が、はっきりとした意味を持って僕の心の中に届いた。正確には心に届いているのか脳に届いているのか、心でも脳でもないどこか別の場所で共有されているのかはわからないけれど、僕はウヤ様がそうなるよう意図したときだけ、ウヤ様が放つその言葉の意味を汲み取ることが出来る。

「いつも通りそのように伝えます。素晴らしいお言葉をありがとうございます」

それからまたカラカラと文法のない音を紡ぎ出したウヤ様にお辞儀をして、聖堂を出て次の職場へと向かう。これから午後になれば、午前中の礼拝で選ばれた「救済」を受ける人々が教会の東にある信徒館へと集まる。僕の仕事はそこで、ウヤ様の告げる「救済」の方法を人々に伝えることだった。



「さて、まずは皆様、この度は『救済』への選抜、誠におめでとうございます。選抜とは言ってもウヤ様が皆様の信心を評価されてのご判断ですから、皆様の日頃の努力やウヤ様への真の祈りが届き実を結んだと言って良いでしょう」

ウヤ様の言葉を受け取ってからすぐに向かったものの、信徒館の中は既に今日の「救済」を受ける人々で埋まっていた。館内はひどく静かで、シンと冷たく透き通った空気が、重厚な扉に閉鎖された窓も風もない空間にも関わらず、肌に夜空と森林を感じさせる。整然と等間隔に席に着いている人々は、最後に入った僕が壇上に立って話し始めても囁き声すらあげずに僕の目をじっと見つめている。とはいえ彼らが僕自身を見ているわけでないことは当然わかっていた。皆、僕を通してウヤ様の姿を確認しようとしているのだ。ただ一人ウヤ様の言葉を理解出来る僕は謂わば巫女であり預言者であり、また彼らの教祖でもあった。

「では改めて、僕はヴェク。聖堂で何度もお会いしましたね。……今では全人類が信仰するウヤ教の教祖、ということに一応なります。が、表向きは何であれ僕がやることはただ一つ、ウヤ様のお言葉を皆様にお伝えし、ウヤ様の『救済』を、皆様に届けることです」

ウヤ様がこの世界に姿を現す前、僕は単なる新興宗教の教祖だった。何を隠そう僕には子どもの頃からずっとウヤ様が付いていたのだ。姿は見えなくてもウヤ様はずっと素晴らしいお告げを僕に届けてくれていたから、僕には確かにウヤ様の声が聞こえていたのけれど他の人には見えないのだから、結局は当時のウヤ教は世に蔓延る怪しげで陳腐な宗教のうちの一つという枠組みから逸脱することはなかった。預言をいくつか当てたところで、拡散力もない少人数の宗教では話題にすらならない。けれどそんな状況はある日を境に一変した。世界が全ての文明を捨て、全人類がウヤ様を信じるようになったのだ。

「ところで、皆様は『救済』とは何であると考えていますか?……現世からの解放?罪からの解放?それともシンプルに、死?安楽死ですか?それとも永遠の命?……まあどれも魅力的ですが現実的であるとは言えない。現世から解放された先が無である保証なんてないし、死後の世界がないとも言い切れない。はたまたこの生が永遠に続くなんて、死を免れるだけじゃ割に合わない。最悪です。それに僕達が背負っていたらしい罪なんて誰にも目視すら出来ない。僕達が今まで信じてきた神も救済も、信じるだけでどこにも根拠のない夢物語でした。……でも僕達はもう知っています。本当に起きたのかもわからない事実無根の聖書なんか必要ない。目の前に神様が、ウヤ様が現れたのだから。

いいですか、皆様。我々は目に見えない罪など背負っていません。天国も地獄も涅槃もどれもこれも不確かな存在です。今生きている誰もその目で、その身で、実感したことがないのですから。死が真に救済なのか、我々には知る術もありません」

右手を頭上に挙げる。隙間のない部屋を波打つように風が吹く。その風を受けて、まるで彫刻品のように微動だにせず黙って耳を傾けていた人々の目が期待と高揚で見開かれていくのが見えた。

「しかしウヤ様は存在する」

この空間にある全ての目に、あの日起こった素晴らしい光景が映し出されていくのを感じる。かく言う僕も話しながら、彼らと同じ高揚を隠せずに声が上擦る。人々の脳裏を占領するのは、あの日、ウヤ様がこの世界に現れた瞬間のことだ。

「ウヤ様の存在は疑う余地がない。今生きている我々が一人残らず目にしている。ウヤ様が現れてから今日まで、そしてこれから起こること全てが真の神話です。信じることしか出来なかった紛い物の宗教ではない……言ってしまえば信じる必要のない、ただ享受し、祈りを捧げ、救済を待てばいい、真の宗教……いえ、宗教ではなく真実です。ウヤ様は正しく素晴らしい、我々のただ一つの真実です」

風が止む。

「それでは『救済』についてお教えします」

さて。

さて、人々の目には文明がない。ウヤ様だけを一心に思う彼らは、ある日を境に思想を忘れた。論理を、歴史を文化を文明を、言葉を歌を方程式を愛を血を神を夢を過去を未来を忘れた。ウヤ様に救われることだけを求めて生きる彼らは、僕の言葉に一切の疑いも持たず、また言葉を発することをせず、必要最小限の動きだけをし、ウヤ様への信仰や期待以外の余計な感情は抱かない。それら全てが無意味で無価値な行為だと知ったから。当然それはポジティブな意味で。ウヤ様に救済されることが最上なのだから、それを目指す以外でするべきこと、抱くべき感情は無意味である。灯を失って絶望しているのではない。確固たる希望を見つけたのだ。

さて、当然、そのはずである。

と、僕も思う。

「皆様、ウヤ様は完璧な存在です」

信じなければ救われる。

当然、信じる必要がないからだ。事実無根の神話は信じることしか出来ない。目の前にいるウヤ様はただそこに「正しく在る」のだから、真実として受け入れれば良いのだから、信仰とは言ってみても実際、信じる必要なんてないのだ。つまり、ウヤ様を「信じない」ことは、そのままウヤ様を「信じる」ことと同義である。もしくは、「ウヤ様を」信じなければ救われるのではなく、「紛い物の神を」信じなければ救われる。

そうですよね?ウヤ様。

「これから皆でウヤ様になりましょう」

窓のない部屋に神様の吹かせた風がまた踊る。金色の天井には深い紺碧の夜空が広がり、ステンドグラスが取り囲む壁には緑豊かな木々が揺れる。文明を捨てた人々は言葉を発さず、どこまでも純粋な肯定と信仰の灯りがその目に宿る。

「それでは『救済』を始めます」

ウヤ様の慈愛に満ちた僕の素晴らしい声が静かにその灯りを揺らした。

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ウヤ のま @nooooooma

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