第112話 縹瑠璃という少女


「るりくん、ヒナタのこと好き?」

 女の子はみんな「ちゃん」付けで呼ぶヒナタちゃんがボクの事だけは「るりくん」と呼ぶ理由をまだ理解できていなかったあの頃、ボクはそんなことを問われた事があった。


「うん、すきだよ」

「嬉しい! ヒナタも大好き」

 正直に答えるとヒナタちゃんが喜んでくれたものだから、ボクはとっても嬉しくなった。

「じゃあ、もうヒナタのいないところで他の女の子と仲良くしちゃダメだからね? レイナちゃんとか、ユキカちゃんに話しかけられても無視してね」

 理由はよくわからなかったけれど、そういうモノなのかなと思ってボクは頷いた。本当はレイナちゃんやユキカちゃんも同じくらいに好きだったけれど、仕方ないことだと受け入れられた。

 ボク以外の女の子達が時々ボクには理解できない世界の話をする事を知っていたし、ボクにはよくわからないルールが彼女達に存在していることにも気づいていたから、特に疑問には思わなかった。




 世間の人はボクの両親をよく「美男美女」「理想の夫婦」と評価した。ボクのお母さんはとても綺麗で、テレビに出てくる女優さんにだって負けていない。お父さんも、背が高くてスーツが良く似合う自慢のお父さんだ。二人によく似たボクもまた、容姿を褒められる事が多かった。

 ボク達家族はとても仲が良くて、よく三人で出掛けたし、仕事の忙しいお父さんも学校行事の日には必ず休みを取ってボクを見に来てくれた。ボクはクラスで三番目に足が速くて、女子の中では一番だった。それに算数のテストではいつも一番だ。

 ボクが活躍するたびにお父さんはボクの頭を撫でて「自慢の娘だ、愛してる」と言ってくれた。


 言ってくれたけど、多分それは嘘だった。


「何言ってるの!? 瑠璃だってまだ小学生なのよ、考え直して!」

 深夜。真っ暗な廊下と明かりのついたリビング。お母さんの感情的な、だけど静かな叫びが聞こえる。

「本当に、本当に申し訳ないと思っている・・・でも、どれだけ考えても俺の意見は変わらないんだ」


 時刻は夜中の二時。お母さんにもう寝なさいと言われてから四時間も経っている。きっと町はボクの知らない静けさに溢れているだろうし、テレビをつければ見たことの無い番組を沢山やっているに違いない。だけど、ボクはそんな事よりも扉の近くで息をひそめて二人の話に聞き耳を立てるのに必死だった。


「慰謝料も養育費も相場より多く払う。だから、離婚してくれ」

 その言葉の重みを無視できるほどボクは子供じゃなかったけど、二人の話し合いに入っていける程大人でも無かったボクはどうしたら良いのかわからずに廊下に座り込んで、ただただ黙って話を聞いていた。

 聞きたくない、眠ってしまいたい、ここから逃げ出したいという気持ちはあったけど、何故か脚が動かなくて、ボクは耳を澄ませた。

「お金の問題じゃない。瑠璃には父親が必要だし、私だってあなたが必要。私達三人、ずっと仲良くやってきたじゃない。口うるさく言ったこともあるけど、それも全部家族を想っての事だし、私、妻としても母親としてもちゃんとやってきたわよね?」

「悪いのは君じゃない。全部俺のわがままだ。出会いこそお義父さんの紹介ではあったが、俺は確かに君の事も瑠璃の事も愛していた。幸せな家庭を築こうと本気で考えていた。でも、それでも」


 あの日、ジュースを飲み過ぎていなければ、息苦しい夢を見て夜中に目を覚ましていなければ、夜中トイレに行くために一階に降りていなければ、ボクはこんな聞く必要のない話を聞かずにすんだのに、とその先ずっと後悔することになる。


「本当に好きな人に、出会ってしまったんだ」


 お父さんは、どこか酔っぱらったようにそう言った。お酒を飲んでもあまり変わらない筈だけど、そう表現したくなるような醜悪なモノだった。

「結婚が理想だけのものではないと頭では理解していた、若いころは他の女性と交際した経験もある。それでも、それらとは全く違う相手と出会ってしまったんだ。恥ずかしい話だが、この年で真実の愛を見つけてしまったんだ」

 口では謝っているのに、どこか反省している「風」に聞こえた。なんとなく浮足立った、浮ついた、夢を見ているような。


 こんなお父さん、ボクは知らない。

 心底、気持ち悪いと思った。


「お義父さんにも俺が話す。君と結婚したことで得られた財産も昇進も全て返す。もちろん瑠璃の親権も君のものだ、二度と会わない。だから、俺と別れて欲しいんだ」

 お金のついでみたいに切り捨てられたボクに僅かながらショックを受けていると、お母さんの言葉にならない怒声が響いて、その後はいろんなものを投げる音が聞こえた。


 次の日の朝、ボクが小学二年生の時に作った紙粘土で飾りつけした写真立てがいつのまにか無くなっていたから多分投げたのはそれなのかなと思う。




 それから一週間くらいで、ボクの家からお父さんはいなくなった。夜中の話し合いにボクが呼ばれる事は一度も無く、お母さんは結局お父さんを説得することは出来なかったみたい。

 土曜日の朝に神妙な顔でボクを呼び出して、重々しく離婚することになったと言われた時。ボクはお父さんに言いたいことが一つだけあった。


「本当に好きな人ってどんなの? 真実の愛って何? ずっと一緒にいたボクやお母さんを簡単に捨ててしまえる程に魅力的なモノなの?」


 ・・・聞きたかったけれど、やつれたお母さんの前でそれを問える程ボクは鈍くなかった。


 離婚の話をあっさりと受け入れたボクにお父さんは驚いていたけれど、ほっとした顔をしていた。お母さんは逆に悲しそうだった。ここでボクが泣きだして大暴れしてお父さんを止めてくれるかもしれないと思っていたのかな、でも、ボクはそんなことしないよ。


 お父さんの目にはボクたち家族なんて映っていなかったから、どこのだれか知らない人との輝かしい未来しか見えていないお父さんを無理矢理引き止めても多分意味なんて無い。

 なにより、あの夜からボクは、お父さんが気味悪い存在に見えて仕方なかった、


「ボクは大丈夫だから、二人で頑張ろうね・・・お母さん」

 そう励ましたけれど、二人で生きていける程お母さんは強い人じゃなかった。



 

 卒業式も、中学の制服を試着しに行くときも、ボクは一人だった。


 お母さんは離婚して直ぐ、何かが壊れてしまったかのように狂ってしまい、ボクと話すことも少なくなった。ボクが家に帰るとリビングで泣いているだけで、用意したご飯も滅多に食べてくれない。女優さんみたいに綺麗だったお母さんがだんだんとやつれて行くところを見ていられなくて、ボクも自分の部屋に閉じこもる事が多かった。リビングの明かりがつかなくなっても、誰も電気を交換しようとしなかった。

 この生活に耐えるのが辛かったから、ボクが小学校を卒業したらおじいちゃんの家に住もうよと言ったら、お母さんは「あの人が帰ってくるかもしれないから」と拒んだ。ボクとお母さん以外にこの家に帰って来る人はもういないのに。ボクは嫌な思い出だらけのこの家から早く逃げ出したかったのに。


 ボクは、ボクから家族を奪った真実の愛とやらが本当に憎くてしょうがなかったし、お父さんにいつまでも執着し続けてボクを見てくれないお母さんが嫌だった。


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