第99話 鶯の最低の一日

 *

 今日は本当に散々な一日でした。その理由は説明するまでも無いです。私の大切な夫である空さんがお仕事で他の女性と親しくデートの真似事をしていた日、これ以上に最低な日が私の今までの人生の中であったでしょうか?


 私との初デートもまだだというのに、空さんは映画館+ショッピングなどという定番コースを他の女性と先に経験してしまったのです。私がそういったデートに憧れている事を空さんは知っている筈なのに。とても悲しいです。


 でもここで喚き散らして空さんを責めるのは三流以下の妻がすること、私は当然そんな無粋な真似は致しません。働く男の人には色々とあるのでしょう、空さんと真剣交際を始めてからインターネット等で情報収集をしましたのでよくわかっております。男性には仕事の付き合いで不本意に女性と会話をしなくてはいけない事があるそうです。つまりそういうことです。私にはわかります。

 なので私がするべきことは空さんを責める事でも泣いて困らせる事でもなく、ただ仕事終わりのお疲れの空さんを癒してあげる事だけなのです。私の為に頑張る空さんを、私は全力で労う、理想の夫婦の形ともいえるでしょう。


「お疲れ様です、空さん」

 義務的に優しくされていたとも知らない惨めなピンク色が去ったのを確認して、私は背後から空さんに話しかける。


「・・・えっ!?」

 まだ薄明るい住宅街に場違いに点灯した電灯に照らされた空さんは、可愛らしいお目眼をまるくして、私の顔をじっと見つめています。

 今日は空さんに顔を見せるつもりではなかったからメイクを簡単に済ませてしまっているので、見られるのは恥ずかしいです、と言おうと思いましたがやめました。

 一日中好きでもない女を至近距離で見て疲れた眼を、愛する妻の顔を見て癒したいと言う彼の気持ちはよくわかりますからね、ここは私が恥ずかしさを我慢するべきです。

「鶯さん、どうしてここに?」

「驚かせてしまいましたね、すみません。実は今日ずっと空さんを見ていたのです」

「なっ!? それはつまり・・・」

 ふふっ、狼狽える空さん可愛い。私に浮気を疑われていると心配しているのでしょう。

「見ていましたよ、石竹さんと駅で待ち合わせて映画を見てランチをして水着を買いに行くところまで全て」

「・・・・・・」

「もう、そんなに焦らないでください。全てわかっていますから」

「・・・わ、わかっているって、何を?」


「全てです」


 不安そうにする空さん。確かに、こんなに物分かりがいいパートナーがいるなんて簡単には想像つきませんよね。

「全て知っていますよ」

 私が改めて答えると、空さんは恐る恐る口を開きます。

「どうして、その。いつから?」

 本当に予想外だったのでしょう、表情から不安や戸惑いが隠せていません。

「私は空さんの優しさ、清さ、そして愛情深さを信じておりますから、何故と言われても難しいですね。強いて言うならば空さんを心から愛しているから。最初から、全部知っています」

「そ、そうだったんですか・・・その、謝って済む話じゃないですけど、ごめんなさい」

 空さんは叱られた子供のように小さくなって、私に深々と頭を下げる。本当に優しい。

「謝る必要はありませんよ、空さんは悪くないです」

「そんな! 俺は鶯さんを傷つけたんだ、悪く無いわけないじゃないですか」

「・・・確かに、なんの説明も無かったのは私を信用していないと言われたみたいで悲しかったです。でも、言ったら私が傷付くと思った空さんなりの優しさですよね?」

 仕事とはいえ他の女性とデートする、だなんて言われたら誰だって辛い気持ちになります。空さんは私が傷付かないように隠し通そうとしてくれていた、それだけで充分愛情を感じるではありませんか。

「違うんです。優しさなんかじゃない、ただ、言い辛くて・・・」

 謙遜してしまうのですね、そんな人だから多くの女性を魅了してしまう。本当に罪な人です。でもそんな不器用なほどに優し過ぎる空さんが私は大好きなのですよ。


「・・・空さん、こっちを向いてください」

 罪悪感で今にも押しつぶされてしまいそうな空さんがなんだかとっても愛おしく思えてしまったので、そっと近付き、吸い寄せられるように私の手のひらが優しく彼の頬に触れてしまった。

 触れられてさらに驚いた空さんの眼に、真っ赤な顔で瞳を潤ませた私の顔が映る。あぁ、私って空さんといる時こんな顔をしていたのですね。恋をしている女性の顔です。なんだか恥ずかしい。


「鶯さん・・・」

 人通りの少ない道、沈みかけた夕日、未来を誓い合った恋人同士。自然と二人の視線は絡み合い、他には何も見えなくなってくる。なんてロマンチックな世界でしょう、ただでさえカッコよくて可愛い空さんが百倍は輝いて見えます。

「全てわかっていますから、私にだけは本当の事を話してください」

 空さんは申し訳なさそうに小さく頷きました。


 全て聞いて、そしたら私は、優しく彼を抱きしめて「全部許します」そして「愛しています」と伝えよう。それで、理想のシチュエーションとはちょっと違うけれど、きっと今日私達は初めての・・・。


「俺、桃の事を好きになってしまったんです」

「・・・そう、初めてのキスを」


 ・・・・・・あら、ノイズが入りました?


「本当は先に鶯さんに全てお話するべきだったのに、ごめんなさい! 俺、桃と付き合うことになったんです。だから鶯さん・・・結婚の話は」

「すみません、良く聞こえなかったのですが」

「桃と付き合うことになったんです。だから俺とは別れてください! 急にこんなこと言って本当にすみません!」

「・・・良く、聞こえませんね」

 ピリッ、と空さんに振れた指先に痺れるような感覚。これは何でしょう。


「鶯さんが知っているなんて思わなくて・・・あ、いや、知らなかったら二股をかけようと思っていたわけではなく。その、俺としても突然こうなって何を優先したら良いのかわからなくなってしまって、俺自身あまりに急過ぎると言うか、自分で自分がわからないくらいで。でも、その。俺が悪いんです。わかっています。俺は鶯さんの気持ちを踏みにじるような真似をした最低な男です。気が済むまで殴ってください!」


 指先だけじゃない、全身が、ビリビリと、なんでしょうこれは。まるでエネルギーが行き場を探して彷徨っているような。


「なんと言えばいいのか・・・あぁ。スーツ、着てくればよかったですね」

 いざという時の為に、朽葉さんを見習うべきかもしれませんね。


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