第98話 桃の最高の一日


 この恋を手に入れる為に桃はズルをした。手にいらない筈のモノを手に入れるには正攻法ではどうしようもなかったから。憧れの人が自分の王子様ではなかったのなら、その運命を捻じ曲げる為に手段を選んでいてはいけないもの。実際こうして先輩は桃を好きになってくれた、後悔なんて少しもしてないよ。


「・・・ありがとう」

 そんな桃の腐った中身が全く見えていない先輩は、再び表情を柔らかくして桃に微笑んでくれた。先輩の眼には可愛くて優しい年下の彼女が映っているのかな、そうだといいな。

「なんか、ちょっと自信なくしていたんだ。彼女ができたこと自体初めてなのに、こんな可愛くていい子だから・・・幸せ過ぎて逆に不安っていうか」

「もう、いくら桃が可愛いからってほめ過ぎですよ?」

 いい子なんかじゃないけど、先輩から見ていい子でいられるのなら嬉しい。

「全く、なんで俺なんかを好きになってくれたのか謎過ぎるよ」

「好きになるのに理由なんていります?」

 どうして先輩を好きになったのか、それに関しては実は桃自身もよくわかっていない。でも先輩が桃を変えてくれたし、本当の桃を見つけてくれたと思う。それって好きになる理由として充分じゃないかな。

「別に全部の人が劇的なハプニングをきっかけに恋に落ちるわけじゃないですし、自然と気が付いたら好きになっていたなんて普通です、普通」

 裏表のない素直な感想を伝えると、先輩は少し残念そうにした。嘘でも一目惚れって言ってあげた方がよかったかな。


「そうか? でも俺は確かに・・・」

 そして先輩は何か言いかけた。

「確かに、桃のことを・・・あれ?」

 何かを言いかけた先輩は、そのままバグったみたいに硬直した。


「え、先輩?」

「あ、あれ、俺。どうして・・・どうやって桃を好きになったんだ。その前までは普通の・・・あれ?」

 あ、もしかしたらマズいかもしれない。これは触れてはいけない話題だった。

「違う、あの夜確かに俺は『気付かされた』筈なんだ・・・誰かに、何故? 誰に? どうして俺は桃が・・・?」

「せ、先輩? そんなこと別に気にしないでいいですよ」

 まずい。もう綻びが出てしまった。先輩が違和感に気付くのはまずい。

「違うんだ桃。本当に俺は桃のことが好きだ。好きに『なった』んだ。あの夜に何か大きな事が起きて、それで俺は自分の気持ちに気付いて・・・」

「そう、そうですよ先輩。先輩は直ぐに電話で桃に告白をしてくれました。嬉しかったですよ、それでいいじゃないですか」

「でも思い出せないんだ、何を考えて俺が自分の気持ちを自覚できたのか・・・あれ、あの夜誰かに会ったような気が・・・」


 これ以上は危険だ。


「先輩!!」

 桃は繋いだ手を無理矢理離し、両手で勢いよく先輩の胸ぐらを掴んだ。

「なっ、何!?」

 桃の突然の奇行に困惑し、思考から意識がそれた先輩が目を丸くする。

「し、失礼しますっ!」


 ぐい、と両手を力強く引っ張る。そのまま体制を崩して前傾した先輩に柔道の技をかけるみたいに近付いて、

「えっ!?」

 先輩の無防備なほっぺに、つんと唇で触れる。

 ちゅっ・・・っていう漫画みたいな音はしなかった。


「え、え? ええ?? 桃?」

「・・・・・・」

 それはキスと言うにはあまりに雑で軽度なスキンシップ。どちらかと言えばついばむみたいなちっちゃなモノ。

「・・・・・・っ!!」

 本当はほっぺじゃない方が良かった気がするけど、流石にそれは桃の乙女心的にNG。というか桃だってファーストキスくらい好きな人からされたいという願望があるし、そもそもここは家の近くだし全然ロマンチックのかけらもないちょっと人通りが少ないだけの住宅街だし・・・って、違う違う待って、そんな事冷静に考えてる場合じゃないって。

 えっと。えっと。とにかくこれは戦略的なやつ。戦略的キス。

「急に、どど、どうしたんだ?」

「・・・・・・」


 桃だってこんなことするつもりなかった。でも先輩の意識を逸らさないといけなかったから。戦略的なやつ。成功。先輩の意識はしっかりと逸らせたみたい。桃天才。

 天才なんだけど、なにこれすっっっごく恥ずかしい!!


「べべっべ、別に良くないですか!? 桃達コイビトドーシですし!?」

 うぅ、声が裏返った。なんで桃の方が動揺してるの。

「そうだけど、なんで・・・」

「なんですか!? ほっぺちゅーくらいでそんな怒らないでもいいじゃないですかっ!」

「いやいや、全然怒ってないけど」

「じゃあなんですか! 嬉しかったんですか!? ほっぺちゅー如きで!?」

 全然如きじゃないのに無駄に声のボリュームが抑えられない。なんでなんで。落ち着いてよ桃。情緒不安定じゃん。

 何度も自分に言い聞かせているのにオーバーヒートした心は全然冷静な対応をしてくれない。頭では理解出来てるはずなのに感情が先行して変なコトばかり口走ってる。

「そ、そりゃ嬉しいに決まってるけど・・・」

 ぽりぽり、と桃の唇が触れたあたりの頬を指でひっかく先輩。もうくっついてないのに何故か桃の唇までピリリと熱くなった気がした。なにこれ。

「じゃあいいじゃないですか! もっとしますか!?」

 無理無理無理! 何言ってるの桃。ちょっと落ち着いて。もっとは無理。

「もっ・・・いや、落ち着けって!」


「・・・・・・」

 桃もそう思います。

「・・・ご、ごめんなさい」


 先輩の言葉でちょっと落ち着いた途端。自分でも大丈夫かと心配になるくらいに急激に顔が真っ赤になった。話を逸らす為にしたけど、内心めちゃくちゃ嬉しくなっている事に気付いて余計に恥ずかしい。

 咄嗟の行動であんなことしちゃうなんて、自分自身が意外と肉食系女子だという実態を暴かれたみたいでさらにさらに恥ずかしくなる。

「謝らなくていいよ、その、嫌ではなかったというか・・・」

 二人の間に冷静に熱を帯びた甘ったるい空気が流れだす。テンションで誤魔化していた方がよっぽど気まずくなかったな。

「驚いたけど、えーっと。嬉しい」

 改めて先輩の口から出た『嬉しい』に、桃の心は独りでに跳ねた。多少は落ち着いたおかげで先輩の視線が何度も桃の唇を向けられていることにも気付いた。さっきの暴れるようなドキドキとは違う、じんわりと中央から熱せられるようなドキドキが桃を襲う。

「こ、恋人ですから。先輩もしたかったらいつでもしていいですから」

 今まで気付かなかったけど、桃って緊張すると逆に積極的なコト言っちゃうタイプみたい。

「えっ」

「・・・い、いつでもはやっぱり嘘です」

 それで、言ってから直ぐに後悔する。

「いつでもは嘘ですけど、先輩と同じで・・・桃も、びっくりはすると思うけど嫌じゃない筈なので」

「そ、そうか」

 なんと返事したらいいのかわからないといった顔をしながら、先輩が口元をにやけさせている。


「でも今日はもうおしまいですっ! 桃のお家、すぐそこなので」

 数十メートル先の曲がり角を指さすと、先輩は周囲をきょろきょろと見回した。

「どうしたんですか?」

「こ、こんな所でいちゃついて、桃のご近所さんに見られてないかなって」

「別に気にしませんよ。悪い事してるわけじゃないですし・・・まぁ、桃のパパにバレたらちょっと怖いかも?」

「お父さん怖い人なんだ」

 先輩がふと、神妙な顔つきになる。

「んー、顔は怖いかも。桃には甘々だからカレシなんて連れてきたら大変なことになっちゃう・・・あれ? 先輩。怖気づいちゃった?」

 桃の返事を聞くと先輩は緊張を緩めた。ビビっちゃうと思ったのに。

「いや、桃は沢山愛されて育ったんだなって思って」

 あぁ、向日葵ちゃんの生い立ちを知っているからヒーローの家庭がみんな複雑だと思っていたのか。確かに他のヒーローに比べても桃の家はあまりに平凡過ぎるよね。

「いつか先輩に紹介しますよ」

「楽しみにしてる」


「じゃあ、ここでお別れです」

「・・・うん」

 先輩の淋しそうなカオを見て、凄くホッとした。先輩とのデートを楽しむ今日という日はあまりにも早く過ぎてしまって、漫画や歌の歌詞でよく見る『キミとの時間はあっという間』みたいなものを嫌になる程体感した一日だった。このまま先輩とずっと一緒に居たら桃の時計はぐるぐると早く進んであっという間におばあちゃんになってしまいそうなくらいに、先輩との楽しい時間は直ぐに終わってしまった。

 でも、時計が早く進んでいたのは桃だけじゃないとわかって安心した。


「ちゃんと、先輩も淋しがってくれて嬉しい」

「え?」

「・・・ううん、なんでもありません。また直ぐにデートしたいです。電話も」

「俺も。次行きたいところ考えておくよ」

 幸せ過ぎて、もう一度キスしたくなったけど今日はおしまいって言っちゃったのでやめとく。

「先輩、これからもよろしくお願いします」

「あぁ、よろしく。桃」

 これ以上立ち話をしていると余計に離れがたくなってしまいそうなので、桃は気合を込めて自分の身体を先輩から引き離して、わざとらしくお辞儀をした。

「送ってくれてありがと、ばいばい!」

「またな」


 スキップしたくなる気持ちを抑えて走り出し、曲がり角の直前でもう一度振り返って手を振る。ソレに気付いた先輩も照れ臭そうに大きく手を振り返してくれた。


 今度こそ本当にお別れ。でも、帰ったらすぐにLINEしちゃおう。あと今日撮った写真をアルバムにして、カレンダーアプリに初デート記念って入力して、映画の半券も大事に保管しよう。

「へへへ、幸せだなぁ」

 好きな人といることの幸せ。きっとこれは何にも勝る幸福だと思う。

 自分のしたことも、不安も忘れてしまうような浮かれたキモチ。時々熱くてふわふわとした幸せに心を委ねて、桃は今日という最高の一日を終えた。


 そのころ、桃と別れて駅に戻る先輩の元に『もう一人』が現れる可能性なんて、すっかり忘れていた。忘れてしまうくらい、桃にとってはどうでもよかったんだ。





「・・・お疲れ様です、空さん」

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