第97話 石竹桃の罪

 手の甲が触れると、それが合図みたいに先輩はそっと桃の手を握った。


 夕飯を食べ終えて、交際一日目の初デートはもうすぐおしまい。桃の実家までの帰り道という最後のプランを余すところなく堪能している最中。こんなに名残惜しい、帰り道初めて、もっと先輩といたいな。

 最初はぎこちなかった手を繋ぐという恋人同士の触れ合いも、朝に比べればなんとなく自然にできている気がする。最も、手汗が酷くならないよう冷静でいるには、もうちょっと馴れが必要みたいだけど。


「今日、楽しかったですね」

 桃がそう言うと、先輩は安堵の表情を浮かべた。

「本当に?」

「はい、もちろん」

「・・・よかった。デートなんて初めてだから全然上手くリードできないし、途中変な感じだったし、桃が俺に愛想つかさないか不安だったんだ」

 変な感じ、というのは向日葵ちゃんが凸って来たことだろうか、それとも先輩の初恋がフィランスレッドだという話だろうか。どちらにせよ、桃はそれ以上の幸せで満たされているので気にしてない。

「あははっ、桃が先輩に愛想つかすなんてあり得ません。そんな先輩を見るのも込みで楽しんでましたよ」

「からかうなよ、こっちは一日中緊張しっぱなしだったのに」

「・・・ふーん」

「?」

 先輩と一緒にいられることも幸せだけど、こうして先輩が桃の事でドキドキしてくれていると、どうしてもにやけちゃうな。

「き、緊張してくれてる方が嬉しいですよ。桃的には」

「嬉しい? なんで、俺みたいに精一杯な奴よりちゃんとエスコ―トできる彼氏の方がいいだろ」

「だって、桃が初めてなんだなーって思えますから」

「は、初めてって・・・」

 ん? なんか先輩、一瞬変なコト考えてた気がするな。

「先輩は桃が経験豊富な方がいいですか?」

 あえてイジワルな言い方をすると、先輩は自分が下世話な勘違いをしたと気付いて顔を横に逸らせた。視線は交わらなくても相変わらずしっかりと繋がれた手のひらがじんわりと熱くなる。

「そりゃ、女子は多少純粋なほうが需要は・・・いや、別に桃が誰と付き合っていたとしても多分好きになってるけど」

「大丈夫。言ったと思いますけど、桃からしても初彼氏ですよ」


 というと、先輩はあまり嬉しそうな顔をしてくれなかった。好きになった人が初めての恋人って誰でも嬉しいものだと思ったのに。


「・・・・・・多分。桃は俺が大学生の、年上の男だから好きになってくれたんだよな」

「え?」

 予想していなかった先輩の言葉に、否定の言葉すら追いつかなかった。先輩は表情を酷く曇らせて、いつもより沈んだ声で同じように言いなおした。


「もし俺が年上じゃなかったら桃に見向きもされてなかったと思うと、なさけなくて。俺もそうだったからわかるよ、年上にちょっと憧れる時期があるのは。でもさ、年上の彼氏に求めるものって財力とか包容力とか、そういう大人の余裕みたいなやつだろ。ちゃんとヒーローやってる桃の方が高収入だし、俺は女子と仲良くした経験無いから女子の扱いも上手くない」


 急に、先輩らしくないネガティブな発言が続く。何かのスイッチが入ったかのように先輩はつらつらと苦い感情を吐き出し続けた。その言葉『は』先輩の本心から出たように聞こえて、桃は怒りと切なさが入り雑じったような変な気持ちになった。


「そりゃ、桃の周りの高校生よりは多少大人に見えるかもしれないけど、実際俺は大した人間じゃない。ただ運よくまだ世間知らずな桃の近くに現れただけの平凡な男だ。桃に経験が無いのを、まだ子供なのを良い事に誑かしただけのズルい大人だと思ってる」


 先輩は時々すごく自己評価が低い。

 桃だけでなく、ヒーロー全員からあんなに好かれているのにそれは自分の実力では無いといつも言い聞かせているみたいだった。向日葵ちゃんにも鶯さんにも、いつでも罪悪感を持って接している先輩。常に相手を騙しているような申し訳なさを抱いている先輩。本当は好かれるような人間じゃないと、謙遜では無く本心でそう思っているみたい。

 そんな先輩が恋をしてしまったら、その自身の無さはこんな形で表れてしまうのだという一つの結論に、桃はある種の納得を抱いていた。

 桃のために情緒をぐちゃぐちゃにする先輩を見ていると嬉しくなるけど、そういう汚い部分を見せてしまう程には綺麗でいようとする先輩が遠く感じる。


「・・・だからさ、もし俺じゃないもっといい男が現れたらいつでも振ってくれていいから」

 嫌味でも気を引くためでもないその言葉と一緒に、先輩は寂しそうに笑った。直ぐ傍にいる筈の先輩が、ぐっと遠くに感じた。


「先輩」

 臆病になるのも、不安になるのも、恋愛だからしかたない。桃は先輩に恋をさせてしまったのだからそれはすべて受け入れる。どんな先輩も好きでいる。だからこそ、淋しそうに桃の幸せを祈る先輩の姿に胸が締め付けられた。

 桃の事を諦められる事が辛い。桃にとって先輩は痛くても苦しくても叶わなくても、どんな手を使ってでも手に入れたい存在。自分が自分でなくなろうとも醜く朽ち果てようともなりふり構わずに、禁忌を犯して今までの人生を否定して全て擲って、気持ちも倫理も真意も感情も、全部全部ぶっ壊してズルをして身を削って、やっと手に入れることが出来た存在。

 だから自分が相応しくないから桃の幸せの為に身を引くことが出来る、なんて嘘でも言って欲しくなかった。そんなことを言われたら、桃がしていることが全て悪だということになる。


 先輩の為に、正義を捨てたのに。


「あのね、桃は先輩が想うほど純情な子じゃないんですよ」

「え?」

 桃はもう後戻りはできないのに、先輩がまだ普通の恋愛をしているのがどうしても憎らしかった。憎らしいのに、そんな『普通』を持ったままいとも簡単に桃を魅了する先輩に惹かれている自分がもっと憎らしかった。

「小学校の頃から、男子に告白されてたし。お遊びで付き合ってみようかなーって考えたこともありました。結局やめたけど」

「小学校から!?」

 桃はこんなに好きなのに、この恋を叶える為に出来ないことは無いのに。

「そう。それにヒーローのお仕事もしてるから友達より社会の事知っていると思います。高校でも割と話す男子の先輩は普通にいるし、勿論先輩以外の年上の人に告白されたことだってあるし?」

「・・・」


 なんでこんなにこの人が欲しいんだろう。最初は自分を輝かせる為だった先輩が、近付けば近付くほど桃を存在させるのに必要な人になっていく。

 桃は、先輩がいないともう自分を愛せないようになってしまった。先輩がいれば自分を妄信的に愛せなくても生きていけるようになれた。


「えっと、何が言いたいかって言うと・・・先輩がせんぱいじゃなくても、桃は浅葱空さんの事好きだと思うんです。年上だからーとか、もっといい人がいればー、なんて考える必要ないくらいには先輩が特別なんです」


 安心のために手に入れた先輩の「好き」が心地よくて、手放したら多分死ぬ。

 例え向けられる好意が平凡な大きさでも、それがハリボテだとしても、桃は先輩に愛されているという事実がないと死んじゃう。それ以上に大事なものなんてこの世界に存在しない。先輩じゃなくちゃ駄目。これ以外なにも欲しくない。愛されたい。この人にだけ愛されたい。


「桃は先輩の顔が好きだし、先輩の声が好き。でもこれは好みじゃなくて、好きな人のモノだから好きなだけです。先輩が年上だから今は年上素敵って思うけど、先輩以外の年上の人は別に素敵じゃないんです、わかってくれます?」

「でも・・・」


 愛が相手の幸せを想う事なら、多分これは愛じゃない。

 桃は身を引く事なんてできない。本当に好きなら全てを犠牲にしてでも手に入れる。


「初恋は他の女にとられちゃったけど、先輩の最初で最後のカノジョになれて桃は嬉しいですよ?」


 たとえそれが、大好きな先輩の心だとしても。


「先輩の新鮮な表情も、これから知ることのできる彼氏としての成長も、全部桃が独り占めできるんです。他の子に渡したりなんかしません。先輩の全てを桃だけのモノにします」

「な、なんかそういうのって、立場が逆じゃないか・・・?」

「積極的な女子・・・じゃなくて、積極的な桃はキライですか?」


 先輩は知らない。二人の時間を少しでも伸ばすために遠回りの道を歩いている桃のずる賢さを。この時間を手に入れる為にヒーローとして大切なモノを手放したことを。



 今先輩が抱いている感情は「つくられた」モノだということを。



「寧ろ、好きですけど」

「あはっ、桃につられて敬語になってますよ?」


 どうか、何も知らないままでいてください。このまま永遠に、桃と恋人同士という夢を二人で見ていてください。見させてください。一生桃の彼氏でいてください。


「・・・ふふっ、余裕がない先輩って本当に可愛くて好きです。包容力なんていりませんので、もっと桃にだけ余裕のない姿を見せてください、ね?」

 それがハリボテでもいいので。形だけの心でもいいので。


「なんか、俺がヘタレみたいじゃない?」

「それでも好きですよ」

「そういうもんか?」

「そういうもん、ですっ」


 貴方の心を歪ませた罪は、最高の彼女で居続けることで償いますから。


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