第89話 浅葱空の愚挙
「・・・・・・え?」
ワンテンポ遅れて振り返ると、僕の眼に飛び込んできたのはお兄ちゃんの後ろ姿。
そして、艶のあるピンク色の長い髪。
「まだ待ち合わせニ十分前だろ、本当はいつから待ってた?」
「実はもうちょっと前から。だって、先輩にはやく会いたくて」
「なんだよそれ、同じこと考えてたみたいで恥ずかしいな」
「ふふっ、でも桃の方が早く着いてたから桃のほうが会いたかったみたいですね」
呆然とした頭で目の前で繰り広げられる微塵の価値もないやり取りを少し聞いたあと、僕はやっと口を開くことが出来た。
「えっと、お兄ちゃん・・・と、石竹桃。なんでここにいるの?」
声か身体か、どっちもか、震えながら出てきた問いに二人は
「拗ねるなよ・・・俺だって、なんか緊張で昨日寝られなかったんだから」
「えぇ? それで遅刻したんですかぁ、先輩かわいー」
「遅刻はしてないだろ」
僕の言葉、いや周囲の全てが存在しないみたいに会話を続けた。
「お兄ちゃん!!!」
衝動的に、僕は背後からお兄ちゃんの腕を掴んだ。ビクリ、と油断しきったお兄ちゃんの腕は硬直して僕の手は振り払われる。
「うわっ!?」
お兄ちゃんは僕を視界にとらえると、振り払った腕を何事も無かったかのようにゆっくりと降ろした。
「びっくりした、向日葵か。急に誰かと思ったよ」
ただの人間に振り払われたとして、ヒーローの強靭な肉体は痛みなんて感じる筈が無い。それなのに指先から消えた感覚の代わりと言わんばかりに胸がぎゅっと痛くなった。
「どうしたんだ、こんなところで」
お兄ちゃんは僕の方を向き直って首を傾げた。その目に、僕をからかっているような嘘も、僕を懲らしめようと意地悪している様子も感じ取れない。
「どうして、って・・・約束、だから」
「約束?」
ここまで言っても、お兄ちゃんはピンと来ていない様子で空中を見て何かを思い出そうとしている。その隙に石竹桃はニコニコと僕に攻撃的な笑みを浮かべながらお兄ちゃんの右腕に抱き着いた。
「昨日の夜、僕と会ってくれる・・・って、だから、僕、待ってたんだよ」
待つことは嫌じゃない。お兄ちゃんを待つ時間は僕の人生を紛れもなくお兄ちゃんに捧げている時間なのだから、それはどれだけ待っていたとしても僕にとって有意義で幸福で意味のある時間。だから、僕はいくらでも喜んで待っていられる。
だけどそれは、『待っている』時間。お兄ちゃんが僕を待たせていないのなら、その全てに価値なんてない。
「・・・あぁ! そういえばそうだった。ごめん向日葵!」
軽薄に合わせられた掌が目の前にポンと現れる。
「忘れてたんだ、ごめんな」
初めて僕がお兄ちゃんの「待て」を遂行した時とは真反対の反応。
「そっか」
あの時、お兄ちゃんは僕に怯えていた。でも、それでも優しかった。後になってそれが僕のためだとわかったから。僕の中にある間違った愛の形を治してくれる為に僕に優しくしてくれていたのだと。
けど今のお兄ちゃんは僕をいなすために謝っている。それは、僕の為の謝罪で、お兄ちゃんの為の優しさだ。
「大丈夫だよ、忘れちゃうときもあるよ。僕は全然嫌じゃない」
それでも僕は、お兄ちゃんを裏切ったり責めたりしない。疑ったりしない、怒ったりしない、そんなこと僕には許されない。そう誓ったのだから。
「ちゃんと言いつけ通り、警察や駅員さんに疑われないように待ってたよ。一回だけ声をかけられたけど、ちゃんと納得してくれたよ。夜中の間は人が通らないところにいた」
いつものように撫でてくれるかと期待して、少しだけ頭を下げてみたけど、お兄ちゃんの右腕は石竹桃がしっかりと掴んでいた。
「ねぇ、お兄ちゃんに話したい事。話さなきゃいけない事があるの」
「・・・あー」
「ほんの少しだけでいいから、お兄ちゃんの時間が欲しいの。二人きりの時間が」
お兄ちゃんは僕の方では無く、腕に引っ付いている石竹桃の顔を見た。
「向日葵、ごめん」
そして、僕に簡潔で嫌な返事をした。
「その、向日葵が俺の事を慕ってくれている気持ちは凄く伝わるんだけど、えっと」
ぐいぐい、と引っ張られる腕。困った、ではなく照れたようなお兄ちゃんの表情。
「俺、桃と付き合う事になったんだ。だから、向日葵と二人きりとか・・・今後は出来ないかな」
二人の間に漂っていた独特で気持ちの悪い空気感。お兄ちゃんの言葉でその正体と色がくっきりと姿を現した。
「なにかヒーロー活動で不安な事があるなら、博士に相談したらいいんじゃないか? 同じ女性だし、竜胆博士は俺なんかより向日葵の事わかってくれるよ」
「そ、そんなわけ・・・だって」
女性とか、男性とか、そういう問題じゃない。そういう話じゃない。
僕の世界にはお兄ちゃんとそれ以外しかいないんだ。僕にはお兄ちゃんしかいない、他の誰でもその代わりなんて務まるわけがない。
「フィランスブルーとして出来るサポートはしていきたいと思う、だけど桃を悲しませたり不安にさせたりするような事は控えたい・・・わかってくれるよな?」
物分かりのいい僕を求めるお兄ちゃん。僕の身体は否が応でもそれに従う。
「・・・わかった。ごめんね、わがまま言って」
嫌われたくない。捨てられたくない。離れたくない。
「ありがとう、向日葵なら応援してくれると思ってた」
お兄ちゃんにいいように扱われることを望んでいた、利用されたい、ただ役に立つだけの便利な存在になりたい。お兄ちゃんの為に、お兄ちゃんの為の道具になりたい。
「もちろんだよ!」
今望まれている『僕』は何か、それは間違いなく告白をしてしまうような、恋愛感情を持ってしまうような僕じゃない。
「よかったね、お兄ちゃん」
違和感も不自然さもある。問いただしたい事だってある。でもそれをお兄ちゃんは求めていない。求められているのはプライベートの邪魔にならない、余計な事をしない存在。僕の感情で動いちゃダメだ。ちゃんと察して、気付いて、それで、今度は、今度からもフィランスイエローとして陰ながらお兄ちゃんの世界を守っていく。それが正しいこと。
それが、相手を想う愛の形。
「これから二人でお出かけ? 邪魔しちゃってごめんね、ばいばい」
「あぁ、気をつけて帰るんだぞ」
別れの言葉すら、僕の眼を見て言ってくれない。
そんな事気にしない。視界を、頭を、心を、全部シャットアウトして、ただただ心を無にしてお兄ちゃんの世界の邪魔にならない僕になるんだ。心配させちゃいけない、僕なんかにお兄ちゃんの幸せを奪う権利は無い。
過剰な冷房と無意味な雑音に包まれて、僕は悲しみによく似たキモチをぎゅうぎゅうと押し込めようとする。間違っても目とかからそれが出て行かないように、もっと身体の奥の方に一度隠してしまう。
「ごめん、チャージしていい?」
「乗り換えどこだっけ」
「今日暑いな、帽子被ってくればよかった」
「遅いよ、また寝坊したの?」
「向こう雨降るらしいよ」
「袋って有料ですか?」
「やべ、スマホ家に忘れた」
「見てあれ、すげぇ美人じゃね」
自分のキモチに集中すると、いらない情報がどんどん頭に流れて何処かに消えていく。興味の無い音は僕を一切傷つけないから気持ちが良かった。
「もしかして私に声をかけています?」
その中に突如として生まれた、穏やかで凛とした声。改札近くからは見えなかった柱の裏側。
「すみませんが、大切な人に勘違いされたくないので話しかけないで頂けますか?」
そこには、眼鏡をかけていない女性が立っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます