第87話 朽葉向日葵という少女3


 *

 最近、変な夢を見る。

 あの日の夢、だけど少し変わった夢。


 昔住んでいた『ニセモノの家族』の家のクローゼットで、身体を小さく縮めて息を殺し、何かに凄く怯えている僕。ささくれ立った安っぽい木板の向こうからは聞こえなかった筈の気味悪い音。いつ終わるのかもわからない恐怖に僕はただ震えることしかできない。

 目をつぶるともっと怖い風景が思い浮かぶ。ニセモノの兄が僕を傷つけたり、ニセモノのお父さんとお母さんがそれを見て僕を憐れむような眼で見下したりするところ。真っ暗な現実も怖かったけど、記憶の隅っこでぐずぐずになったあの時の嫌な記憶も怖くて、僕は諦めて暗闇の方を見た。


 何もできなくて、何も無くて、ただ我慢するだけの僕がいつになってもクローゼットの扉を開けることが出来ずにいたら、ぱぁっと光が差し込むんだ。そして、そこには僕のお兄ちゃんが立っている。

 お兄ちゃんは腕を広げて「向日葵」って、僕は安心したのと嬉しいので涙がぽろぽろ溢れてきて、思わず抱き着いてしまう。すると決まってお兄ちゃんはあったかくて大きな手で僕の髪を撫でてくれる。頭の丸みに沿うように優しくそっとなだらかに、僕の為にお兄ちゃんの腕が曲線を描くのがたまらなく嬉しくて、お兄ちゃんの腕の中から永遠に出たくないと思ってしまって、それで、そこでいつも目が覚めてしまう。



「僕は・・・お兄ちゃんに甘えるのが好き」

 ずっと探していた僕の本当の家族。僕の愛が間違っている事を教えてくれた優しいお兄ちゃん。駄目な僕を見捨てないで、傷つけないで、大事にしてくれる。僕にとってもお兄ちゃんは一番大事な人。たった一人の家族。

 なのに最近、お兄ちゃんの事を想うと胸がきゅうと痛くなる。悪い事をしたのを隠しているみたいな、誰にも秘密にしたいような変な痛み。夜だって、あんまり眠れない。


 最初に痛くなったのは、常盤鶯がお兄ちゃんのお嫁さんだと知った時かもしれない。幸せな筈のお兄ちゃんを想像すると、何故かたまらなく辛くなった。お兄ちゃんの幸せな風景に僕がいないことが苦しくて、壊してしまいたくなった。我慢しようと思ったけど、できなかった。


 お兄ちゃんとお嫁さんの関係は嘘だって聞いて、僕の痛みは一瞬だけ何処かに消えた。それでなんとなく気付いた、多分この痛くて苦しい気持ちは『しっと』なんだって。そんな気持ち、僕なんかが持っていい筈ないのに、この気持ちは時々現れては僕を眠れなくする。


 僕にはお兄ちゃんしかいないけれど、お兄ちゃんにはたくさんの女の子がいる。わかっていた筈の事実が憎くて、そんな風に思ってしまう僕自信に罰を受けさせたいと思った。僕の身体はお兄ちゃんのものだから、そんなこと出来ないのがもどかしい。僕を痛めつけていいのはお兄ちゃんだけ、お兄ちゃんは僕を傷つけない。だから僕はずっと幸せでいられる。なのに、今僕は幸せなのかわからない。


 あんなに待ち望んでいた本当のお兄ちゃんと出会えて、僕にすっごく優しくしてくれて、僕の身体の心配までしてくれる。別にお兄ちゃんの一番にならなくても、お兄ちゃんがたくさんの人と触れ合って、幸せにして、それで余った残りを僕に少しだけ分けてくれたらそれで充分。満足していた筈なのに。いつのまにか僕は、幸せ過ぎてそれ以上の幸せを望むようになってしまったみたい。

 悪いのは僕だ。わがままな僕だ。僕の為に苦労するお兄ちゃんを嬉しいと、他の人を助けるお兄ちゃんを見たくないと、そんな風に考える悪い子になった僕。他のヒーローを傷つけて、沢山迷惑かけて、おかしなことに「僕がお嫁さんになりたい」なんて僕が抱いちゃいけない感情を持ってしまった。


 僕は、空お兄ちゃんを独占したいくらい好きになってしまった。


 僕は悩んだ。反論できないくらいはっきりとした気持ちは僕にとって初めての経験で、こんなに強い気持ちを持った事がないからどうしたらいいのかわからない。こんな形の『好き』は初めてだから、消し方も誤魔化し方もわからないんだ。


 妹の僕がお兄ちゃんを好きになるなんて、家族として優しく接してくれているお兄ちゃんへの裏切りだ。お兄ちゃんを裏切るなんて、絶対にあってはならない。隠し事何てしちゃいけない、僕の人生の全てはお兄ちゃんによって成り立たないと。

 だから、そのための告白が必要だった。僕がどうしたいか、どうなりたいかなんて関係ない。僕の今の気持ち、今の考え、全部伝えてお兄ちゃんにどうしたらいいのかを教えてもらわないとダメなんだ。僕が変わってしまったのなら、その事実を少しの狂いも無く正確にお兄ちゃんに説明して、それで決めてもらいたい。そして迷惑だというのならこの気持ちを消す方法を教えてもらいたい。僕一人でどうにかできるほどこの想いは弱くないみたいだから。


「・・・でも、僕がお嫁さんになったら。ゼッタイに誰よりもお兄ちゃんを愛するのに」

 お兄ちゃんへの愛の大きさなら一番だ。だからできれば、もし叶うなら、お兄ちゃんがいいかもって悩んでくれるなら、僕はぜひともお兄ちゃんのお嫁さんに立候補したい。僕ならお兄ちゃんが喜ぶことはなんだってするし、お兄ちゃんが例え世界征服を企んだって味方する。

「だから、僕のコト選んでくれないかなぁ」

 本当は一番好きになって欲しいけど、それが無理なら好きじゃなくていいから僕を選んでくれるだけでもいい。それも無理なら二番目でも三番目でもいいから傍に置いて欲しいな。お兄ちゃんに本当に大切な人が出来たとしても、僕のこと今と変わらず大事な妹として傍に置いて欲しい。僕はとっても大好きだけど、お兄ちゃんの傍にいられるなら我儘はやめたいって思うし。

 今度こそおこぼれだけで我慢できるよう頑張るよ。




「だからはやく、お兄ちゃんの返事が聞きたい・・・」

 待ち合わせの時間を三時間過ぎた駅の入口で、僕は何度も時計を確認していた。

 スーツの人の数も段々と減り、駅の中にある本屋さんやお総菜屋さんの電気が消える。 改札の向こうに見える電光掲示板の終電の文字に気付いた僕は、駅の外へ移動した。


 月も見えない夜の真ん中で、お兄ちゃんの事を『待って』いた。




 始発の時間になっても、お兄ちゃんは現れなかった。


「はやく、会いたいな」

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