第80話 外堀と返り討ち
リビングへの扉を開けると、俺の家のテーブルで俺の家のコップで麦茶を飲んでいる桃がいた。俺が帰って来たことに気付くと、ぱぁっとにこやかに微笑んで立ち上がる。
「あ、おかえりなさい先輩。お邪魔しています」
大人の前だからだろうかいつもより二割増し丁寧なお辞儀をすると、大き目のステッチがあしらわれた黒いサロペットの胸元がゆるりとたゆむ。顔を上げた桃は、化粧をしているせいで普段より少し大人っぽい顔に見えた。
自分の家に親族以外の女子がいる。その上におかえりなさいと言われるなんて、未来予知を除けば初めての経験だ。単純な事に少しだけ緊張してしまう。
「お待たせしちゃってごめんなさいねぇ桃さん。ちょっと玄関で盛り上がっちゃってもう」
盛り上がっていたのは母一人だし、何故貴女が仕切っているんだと言いたいところだが今は身内に構っている余裕は無いので積極的に桃に詰め寄る。
「どうしてウチに来たんだ」
思い込みの激しい鶯さんや浮世離れした向日葵ならともかく、桃がアポ無し訪問してきたのは予想外だ。こういうことをするタイプじゃないと思っていたが。何か特別な理由があるのかもしれない。
しかし桃は不思議そうな顔で返事をした。
「先輩ってば、なんでそんな驚いてるんですか? 前にも一回お邪魔した事あるじゃないですか。あの時は家の前まででしたケド」
「へ? 前って・・・」
そう言われて、出会ったばかりの頃の記憶を思い返す。
そうだ、俺がフィランスブルーになったばかりの時、茜さんが突然我が家を訪ねてきた。家の前で茜さんと話していたらタイミングよく桃がやってきて、二人は喧嘩になった。喧嘩の仲裁で必死だったし、桃があまりにも自然に登場したからあまり気に留めていなかったけれど、あの時も俺に会いに来ていたのか。
「偶然近くを通ったとか、家が近いとかそういう理由かと・・・」
「んー。家は比較的近いですけど、先輩に会うためですよ? まぁ、茜さんへの牽制が一番の理由でしたけど」
「何の話だ」
「桃が先輩のお家にくる理由なんて、二つくらいしかないってことです」
よくわからないが、本当に俺に会う為に来てしまったらしい。
「せめて先に連絡してくれればいいのに」
「あはは、ごめんなさい。桃にも色々事情があるんです」
一回目は茜さん、そして今回は向日葵。何故誰も客がいないときに訪問してくれないんだ。
「来ちゃったものは仕方ないけど、実はさっき向日葵と会って・・・」
と、後ろを見ると母親に撫で繰り回されて困った顔をしている向日葵がそこにいた。
「母さん!!」
「あ、あらごめんなさい。空が向日葵ちゃん放っておいて彼女さんと内緒話なんてするから仕方なかったのよ」
「何も仕方なくないし、大体彼女って・・・」
「もー、お義母様ったら。私は先輩の彼女じゃないですってばー」
俺が弁解するより早く、食い気味で桃が笑い混じりの否定を飛ばす。
「そんな事言われても信じ難いじゃない。だって空の好きな食べ物も好きな映画も全部知ってる上にこの子の大学まで迎えに行ったりしたんでしょ? それで彼女じゃないって言う方がおかしいと思うのだけど」
「先輩の趣味って私の好みと凄く合うんですよ。だから自然と覚えちゃっただけですよ、大学だって一度見学したいなーって思ってたから口実にしちゃったんです」
長いツインテールの毛先をくるくるといじりながら照れ臭そうにする否定は、いつもの小悪魔で自由気ままな桃と何処かギャップがあった。
「うぅん。そうなの? 本当に?」
「本当ですってばぁ」
あはは、とにこやかに母の対応をしてくれているのを見れば俺も少しは安心だ。ここは桃に任せて向日葵の為に飲み物を持って来よう。確か冷蔵庫にスポドリがあったな、熱中症対策ならその方がいい。
リビングの奥に位置する台所で自分と向日葵の分のグラスを持って戻り、母親に撫でられた地点から一歩も動いていない向日葵に声をかける。
「向日葵、そこ座って」
指示待ち状態でずっと困惑していた向日葵は嬉しそうに、こくこくと頷きスポドリの入ったグラスを受け取った。
そして再び母親の動向に目を光らせる。台所に行ったほんの数十秒、帰って来た時には既に二人の話の流れは変わっていた。
「やっぱり若い子は年上の男性に惹かれるものでしょう? うちの子ちょっと地味だけど悪い子じゃないから、反抗期なんて殆ど無かったし、運動も勉強もそれなりに出来るのよ? ちょっと口調は冷たいかもしれないけど家の手伝いだってちゃんとしてくれるし買い物に行ったら必ず重たい方の袋を持ってくれたり、結局こういう無難な男がいいってなるものだから・・・」
「母さん!!?」
思わず大きな声を出した。
「なんでそんな話になったの」
ちょっと目を離した隙に母親がお見合いお節介おばさんみたいな事を言い出していたのだ、息子としてはこれ以上に辞めて欲しい事なんてない。褒めるところがあまりない人間を露骨に誉めようとして結局大したことないエピソードしか話せていないという気まずさが突然俺を襲う。
「だってそれだけ趣味が合うってことは相性がいいって事でしょう? 桃ちゃん可愛くてしっかりしてるし、私こんな娘が欲しかったのよね。ねぇ桃ちゃん、うちの息子どうよ、顔だって悪くないと思うんだけど」
いつのまにか桃さんが桃ちゃんになっているし、短い期間で気に入りすぎだろう。
「本当にそういうのやめて、ほら、めんつゆ買ってきたんだから昼ごはんの準備しよう。ほら、二人は俺が相手するからそうめん茹でて」
「あらま、二人とも相手するだなんて・・・」
「母さん!!」
これ以上リビングでお喋りされてはどこまで余計な話をされるかわかったものじゃない。あと普段年下の桃や向日葵の前では多少格好つけている自覚があるので母親と喋る所を見られるのは恥ずかしい。
買ってきたばかりの麺つゆをぐいと押し付けてそのまま台所の方へ追いやる。眉毛をへの字にしながら「はいはい」と言いながら去って行くが、あの顔は完全に諦めた顔じゃないな。油断ならない。
「悪いな、桃。ちょっと今日の母さんテンションおかしくて」
「いいですよ別に。明るくて楽しいお義母様ですねー」
そのお母様って呼び方どうなんだ。俺の考え過ぎか?
友達は大抵『空のお母さん』みたいに呼ぶけど女子はこれが普通なのかな。
「それに、家での空先輩がどんな感じなのか見れたので嬉しいです」
「そんなの見てどうするんだよ」
思春期を超えたとしても、親といるところを見られて全く心が動じない男子はいないと思う。
「んー。後で先輩のコトからかうとか?」
「・・・やめてくれ」
涼しい部屋にいる筈なのに額から汗が流れ、それを手の甲で拭う。汗で湿った前髪の向こうに改めて現れた桃は、冷静に見てもやはりいつもと雰囲気が違う。どうも化粧や服装のせいだけじゃない気がするな。
「桃、今日はなんか・・・」
言いかけて俺はまだ達成していないノルマの事を思い出した。桃に会うたびに可愛いと褒めないといけないのだ。あまり大きな声で言って向日葵やそうめんを茹でながら聞き耳を立てていそうな母親に聞かれたら嫌だな。
「え、えっと・・・」
俺が何を言おうとしているのか気付いたのだろう。桃はあざとく小首を傾げて「どうしたんですかぁ?」と煽って来る。いつも通り余裕綽々に俺をからかう桃だが、そこで違和感の正体に気付く。
今日の桃とは、あまり目が合わない。
「・・・桃?」
桃はよく品定めをするような目つきで俺をじっと見つめてくる。こういうと冷淡な印象だが、別に此方としても悪い気分にはならない。どちらかというと俺がどの程度ならからかっても許してくれるかの品定めをしているような、相手の反応を見るモノ。
ヒーローと一般女子高生を兼任して生活しているだけあって人との距離感を測るのが上手なのだろう。母親と一瞬で仲良くなったのだってそうだ、桃は人間関係において常に上手にいるタイプの女子。だから俺も、桃と話していると楽しい。
そんな桃が、平気なフリをしながら目を泳がせている。気を付けて見てみると戸惑っているような不安を感じているような、そんな気すらしてくる。
俺が考え込んでしまったせいで、結果的に暫く此方が一方的に見つめる結果となってしまった。それに耐え切れなくなったのか、桃はふと、明後日の方を向いて沈黙を破った。
「あ、ああ、あっあの。約束ですけど・・・もういいです」
これ以上ないくらいに言葉を詰まらせた言葉。しかし俺はその意味をすぐに理解することは出来なかった。
「え?」
「いや、その、別に先輩のこと嫌いになったとかじゃないんで、全然。寧ろ、はい」
両手でパタパタと自分の顔をあおいでいる。照れているのは一目瞭然だが、その原因にあてがない。
「もちろん、悪い事だってしないですよ。元々そういう約束でしたよね」
そうだ、桃に可愛いと伝えることに気を取られていたけど、この約束はファンの気持ちを踏みにじるような行為を辞めさせるためのものだった。何度考えても理解のできない桃との約束だったが、やはり俺の理解が及ばないタイミングでたった今無効になった。
桃はちらちらと様子を窺うように時折俺の顔を見るが、喋り出すとやはりそっぽを向いてしまう。
「で、でも」
数分前の俺みたいに、耳を赤くした桃が声を震わせている。こんな風になる桃は、初めて見た。
「本当に可愛いと思ったら、言ってくれてもいいですよ・・・」
ぽそり、と小さく自信なさげに吐かれた言葉。いつも自身に溢れていて、多分自分が可愛い事を理解している桃が。ヒーローも日常生活もスマートにこなしている桃が。危機的状況でも冷静に解決策を教えてくれた桃が。何故かこんなにも焦った様子で顔を隠し、慌てている。
今までの彼女とは大きく違うその姿に、俺はいつの間にか目を奪われていた。
「な、なーんて……」
まるで、こんなの。
「恋する乙女みたい」
背後でボソリ、と向日葵の呟きが聞こえた。
と、同時。俺は気が付くと桃の肩に手を置き、桃の耳元に顔を近づけていた。
びくり、と肩が震えるのが指先から伝わり近づいたピンク色の長い髪から甘ったるい香りが一瞬だけ漂う。自分でも不思議なくらい冷静に、俺は今思った事を彼女の耳元で伝えた。
「桃は可愛い、と思う」
可愛い。
言わされたとかじゃなくて、何故かそう思ってしまった。そしてそれを「伝えてあげたい」とも思ってしまった。
「〇×▼☆◇!?」
戻ってきたのは言葉になっていない奇声。飛ぶ鳥の如く俺から距離を取り耳元を両手で抑え、俺を睨みつけてくる。
「え、なんて?」
「な、なななな。なんっ、でも、ないですよ! 先輩が急に当たり前のこと言うから逆に驚いたんです! 逆に!」
キャンキャンと吠えるような怒声に反比例して此方は逆にいくらか冷静になる。
「でも本当にそう思ったら言えって・・・」
「だからって、そ、そんな、え? 本当に? そ、そうなんですか!? は? い、意味わかんないです!」
桃の不自然過ぎる反応で自分がした事の突拍子も無さに気付かされる。いや、桃に可愛いと言うのは別にいつものことだけど、わざわざ近付いて言う必要はなかったか?
他の人に聞かれるのを気にし過ぎて・・・だとしても急に触れたせいで驚かせてしまった。自分でも何故あんな大胆なことが出来たのか疑問だし、流石にやり過ぎた。「可愛い」を言い慣れ過ぎて自分の中のハードルが下がっていたのかもしれない。
そうだ。多分。そういうやつだ。他に理由なんてない筈だ。
「ごめん、桃。ちょっと今のは気持ち悪いことしたよな。驚かせたな」
桃が俺に対して好意的とは言っても、何をしてもいいわけじゃない。親しい先輩だと思っていた男に急に寄られては恐怖を感じるのが普通だ。衝動的になりすぎてしまった事は素直に謝っておこう。
「なんで謝るんですか!? わけわかんないです! も、もういいですから先輩はお義母様の手伝いにでも行って下さい! ほら!」
嫌悪感で怒っている、というよりかは焦って混乱した様子でバシバシと俺の肩が攻撃される。スーツを着ていたら全治三か月じゃ済まないだろうな。特に痛くはないけれど大人しくしたがった方がいいか。
「わ、わかったって。ほんとごめん」
今度は俺が台所へと追いやられてしまった。俺の家なのに。
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